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【マインドフルネス】13.マインドフルネスについての応答(番外編)

【マインドフルネス】13.マインドフルネスについての応答(番外編)

2015/12/02「他ブログでの紹介&アートサイエンスクラス近況」
http://kosodatekyua.com/2015/12/artscienceclassmoon/

>>Sasaki,Nobuo
December 3, 2015

 おひさしぶり。当方ブログへの転載を案内いただき、ありがとうございます。

 英語でも月齢により呼び名があるんですね。陰暦を採用していたかつての日本でも、風情のある呼び名が付いていたようです。とくに満月以降、欠けていく月には、人々の想い入れまで込められているようで楽しい。ざっと並べてみます。

 15日目=十五夜・満月・望月[もちづき] 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の・・・」と藤原道長がうたったとされますが、これは時の権力者のおごりが目だってあまり風情がないですね。

 16日目=十六夜[いざよい] 日没と同時に昇る満月よりは、少し遅れて「いざよい=ためらい」がちに出てくるからだそうですが、『十六夜日記』などがあるように、古代の人はその奥ゆかしさを愛でたのかもしれません。

 以降、17日目= 立待月[たちまちづき]、18日目=居待月[いまちづき]、19日目=寝待月[ねまちづき] と続きます。それぞれ、月の出るのを、立って待つ、座って待つ、横になって待つという感じでしょうか。月を待つことになっていますが、それを恋人を待つ気持と考えれば、そのまま和歌になるわけですね(笑)

 20日目=更待月[ふけまちづき] 文字どおり夜更けまで待つわけですが、実際には今の午后10時ごろらしく、昔の人はきわめて早寝だったようです。

 23日目=下弦の月[かげんのつき] 上弦、下弦というのは、月の形を弓に見たてたからですね。見え出すのはまさに深夜。

 26日目=有明の月[ありあけのつき] 明け方になってやっと昇ってくる。いにしえの恋人たちが「後朝[きぬぎぬ]の別れ」をする時刻です、なんとなくこころ残りな気もちを抱きながら(笑)

 とまあ、暇に飽かせて調べてみました。むかしの人は、かくも月に情緒をこめたのですね。

>>長岡真意子
December 4, 2015

 佐々木さんお久しぶりです!コメントをありがとうございます!

 佐々木さんのあげてくださった「情緒溢れる」日本語の呼び名を眺めながら、英語との違いに感じ入っていました。遠いアジアの国のひとつ日本には、こんな月の呼び方があるのよ、クラスでもいつかそうシェアできたらなあとアイデアが膨らみます。

 秋の季語満載ですね! 時の権力者がその覇権を満月にたとえたり、少し遅れて昇る月に「いざよい」という奥ゆかしさを重ねたり、夜更けや(当時は10時で夜更けだったんですね!)明け方に昇ってくる月に、恋人との関係を見たり。

 「むかしの人は、かくも月に情緒をこめたのですね。」

 本当ですね。英語には、Waxing:growing(膨らんでいく), Wanning: shrinking(縮んでいく), Gibbous: more than half is illuminated(半分以上が照らされている), Cresent: less than half is illuminated(半分以下が照らされている)といった言葉を組み合わせた極めて「ロジカル」な名称しかないなあと。

 楽しい言葉の数々をありがとうございます! 楽しくなって一句。(笑)

  古(いにしへ)の言葉並べて月冴ゆる  真意子 
  
 冬の月を見上げ、楽しい週末をお過ごしください!


>>Sasaki,Nobuo
December 4, 2015

補足 下弦に比べて上弦の時期の月には、これと言った呼び方が少ないのは何故かと思った。考えてみると、この月の前半期間には、日が暮れた時にすでに空に昇った状態で見えてくるんですね。つまり「月の出を待つ」という、心の待機時間がないわけで、そこでもろもろの情感も生まれにくいということでしょうか。

 せいぜいが「三日月」、夕暮に西の空に見え出し、まもなく沈んでゆくということで、夕暮れ時の情感をかもし出す月です。行水を済ませ、浴衣を着せてもらった子供が、うちわを掲げて西の空を仰ぎ見るような、紋切型の構図などが浮んできます(笑)

 「十三夜」の月は、十五夜と並んで美しい月とされるようです。お月見の時期には、片方だけ観て済ますのを「片月見」といって避けられたとか。もっともこれは、江戸の吉原では双方の月を観る宴を催し、客を二度呼び寄せるという営業戦略から始まったとも言われます。土用の丑のうなぎや、バレンタインデーのチョコみたいな、業者の仕掛けとなると、急に俗っぽくなりますね。

 樋口一葉が『十三夜』という作品を書いていますね。当時の女性の置かれた、哀しさ満ち足りなさを描いたものに「十三夜」と名付けたのは、満月に満たない微妙な欠落感を重ねたからなのでしょうか。

  いたづらに冴えざえと見ゆ下り月  何爺
 

>>長岡真意子
December 5, 2015

 佐々木さん、これまた楽しい補足をありがとうございます! 毎晩月を見上げるのが楽しみになりそうです。

 上弦の時期の月にこれといった呼び方が少ないのは、いまかいまかと月が出るのを待つ待機時間が少ないため、もろもろの情感が生まれにくいのかもしれないというの、なるほどです! 

 夕暮れ時には西の空に既に見えている「三日月」、行水をすませ浴衣を着て見上げる子供。情景が浮かびます。江戸時代には、「十三夜」と「十五夜」をセットで見ましょうというような風習が生まれたんですね。それは吉原の「営業戦略」から始まったと。こうして月についてのお話を聞いていると、樋口一葉の『十三夜』には、満月にあと一歩のところで届かない欠落感が込められているのかもしれないというのも、より鮮やかな感覚として迫ってきます。

 日暮れと共に東の空に顔を出し夜の間中輝いているのは満月だけ。それは一月の内一日だけのこと。あとは、日の入り日の出に全く関係なく、それぞれのペースで「月の出月の入り」するんだね。クラスでそう話したところです。

 月は昼間にもよく空に出ているのよ、暗くないから見えないだけでね。そんな話もしていました。昼間の月を「Children’s moon」というのだそうです。ひとつには、子供は空に月が出ている夜はだいたい寝ているから、もうひとつには、子供は昼間の空に月が出ているのを大人より敏感に(視力がまだ衰えていないということもあるでしょうね)見つけられるからとのこと。生徒たちと共に、私も学んでます。(笑)

  欠けしもの両手に抱き寒の月    真意子

 温かい週末をお過ごしください!

【マインドフルネス】12.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】12.長岡真意子氏との応答

2015/03/24『「多様な感情を認めることが健やかさの鍵」って、子育てにどう生かせる?』
http://kosodatekyua.com/2015/03/tayounakanjouwomitomerukotogasukoyakasanokagitte-kosodatenidouikaseru/

>>Sasaki,Nobuo
March 24, 2015

 なぜか『方丈記』の冒頭「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という一節が浮びました。いわゆる世の中の無常を示した言葉とされてますが、人の心の中もこのような「無常」なのではないかと。

 もちろん無常というのは、感情が無いのではなく、あらゆる感情がひしめきながらも、とどこおることなく流れてゆく。感情の起伏はあまたありながら、それらに拘泥することなくスムーズに流れていくので、心の基調には平穏感が保たれている状態。そんな感じの日常がすごせればいいな、とか思っている日々です(笑)
 
>>長岡真意子
March 25, 2015

 佐々木さんコメントありがとうございます! 

 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 声に出して読んでみたくなり、何度かぶつぶつと唱えてました。(笑)

 雪解け水が加わり勢いをつけたこちらの川の情景と重って。長い冬を終え春を迎えた嬉しさ、しばらくすれば辺りは新緑に染まり夏が来て、それもいつしか黄金色の木々に取って代わり、初雪にはしゃぐ子供達。絶えることなく移り変わる季節。

 思うままにならなかったともされる鴨長明の一生。「とどこおりなく流れてゆく」というのは、切なくもあり、また大きな救いでもありますね。

 内にひしめき合う感情。砂丘の砂模様がさらさらと移り変わるように、とどまるものはなくて。あちらの隆起こちらの隆起と認めつつ、それでも「心の基調には平穏感が保たれている状態」、私自身もそうありたいと思っています。と現実は、移り変わる隆起に翻弄され、これがなかなかなのですが。(笑)

 佐々木さんの文章から、「そんな日常」を送られている様子が伝わってくるようですよ。いつもありがとうございます。残りの週も、どうぞよい日々をー!

【マインドフルネス】11.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】11.長岡真意子氏との応答

2014/11/15「日常に新鮮さを取り戻す、意識的に気づいている状態とは?」

2014/12/03『子育てに大切な「3つの力」、「ユア子育てスタジオ」の活動』
http://kosodatekyua.com/2014/12/yuakosodatestudionokatsudo-kosodatenitaisetsunamittsunochikara/

>>Sasaki,Nobuo
December 13, 2014

 全体構想のようなものを始めて拝見して、これはすごいことと取り組んでるんだなと感心しました。

 樹木で例示された「3つの力」、子育て・育児に関して、これだけしかと分節して構想されたものを寡聞にして知りません。「安心力」については、これまで部分的にコメントなどさせてもらいましたが、その他の2つに関しては、きわめて苦手な分野で自身でなんら成功体験も持ち合わせていません(笑) そんなわけで正面からのコメントはできませんが、いささか齧った経営学の体系にそって考えてみます。

 いわゆるマネジメント学の方面からですが、まず土台となる「安心力」。組織体(ここでは営利企業を前提します)を支える3要素は、一般に「資本・労働・土地」と言われます。資本、資金関係は一般に「財務管理」として経理・簿記など計数化されて管理されます。勞働に緘しては「労務・人事管理」としてマネジメントされます。土地は主として農業生産世界をベースに想定されているので、今の企業体にとっては「組織管理・システム管理」といったものが、それに相当するものとして考えられます。

 同様に「成長力」に照らすと、投資管理、研究開発管理、イノベーション管理といったものでしょうか。そして事業体にとっての「交流力」となると、市場開発、マーケティング、顧客管理、仕入れ先管理とさまざまなものがあるでしょう。

 とはいえ、ここで経営学を展開したいわけではありませんw ただ、家庭生活や育児・子育てもまたある種のマネジメントであり、企業マネジメントにてらして考えてみるのも有効ではないかと考えてみました。たとえば財務管理にあたるのは家計であり、育児・教育費などもそこから捻出されるでしょう。勞働・人事は、まさに親と子の共同作業であり、組織・システムに相当するものは、家庭環境であり周辺の教育環境であったりしますね。

 そして、かつての事業経営者がこれらのことを明確に分離してきたわけではなく、まさに経験と勘だけでなんとかやってきたわけです。子育てに関しても同様に、それこそ手探りでやるしかない状態ではなかったでしょうか。そして参考になるのも、個人体験を拡張しただけのハウツー的育児書であったり、他分野の医学や心理学や教育学から、片手間に部分的に援用されたものぐらいではなかったでしょうか。

 そんな中で、子育てを単なる自分の経験談としてだけでなく、「3つの力」に分節して、伝達可能な知恵として構成しようとされてる姿にエールを送りたいです。それはまさに「子育て学」と呼べるものになるでしょう。それは医学・教育学・心理学などの寄せ集めではなくて、「子育て」というメインフィールドの上に構築されたものとなるでしょう。そういう意味で、フィールドワークとして捉えられてるのも大正解だと思います。
 
>>長岡真意子
December 14, 2014

 佐々木さん、読んで下さりありがとうございます! そんな素晴らしい感想をいただき、とても嬉しいです。これからも体験とリサーチを合わせ、こつこつと続けていく「ライフミッション」だと思っています。子供達が大きくなり、もし将来子育てすることになった時に、参考&発展させていってくれたらなあ、などと夢も見たり。(笑)

 「安心力」については、佐々木さんのこれまでのコメントによって、随分と整理することができました。本当にありがたいです。今回、他の面についても、佐々木さんが長い間培われた知恵や知識をこうしてシェアしてくださり、感謝です。

 経営やマネージメント学については、私自身これまで生きてきた中で、最も接点のない分野と胸を張って言えてしまう程、ちんぷんかんぷんではありますが、確かにおっしゃる通り、家庭をやりくりしていくことと、マネージメント学とは共通するものがありますね。

 根となり土台となる「資本・労働・土地」、幹となり会社を発展させていく「投資管理、研究開発管理、イノベーション管理」、葉となり顧客や市場やコミュニティーと関わる「市場開発、マーケティング、顧客管理、仕入れ先管理」。

 子育てや家庭でも、「安心力」というソフト面も大切ですが、確かにハード面として「資本」という土台が必要となりますね。夫と私、学生結婚ということもあり、この面かなりマイナスでスタートしたのですが、互いにもっと学び実践していく必要があるなとしみじみ話し合っている課題でもあります。

 事業経営者の多くが、かつてはそれまで蓄積された知識や知恵の体系に触れる機会もなく、いきなり実践の場で、体験を積み重ね直感を磨き、感覚や知恵や知識を身につけていった。

 子育てについても、本当にそう思うんです。子育ての場合は、一昔前は、大家族で暮らしコミュニティーも密で、おじいちゃんおばあちゃん親戚近所のおばちゃんたちから、体験に基づいた情報をまだ身近に得ることができた。それも今は、核家族が進み、どこもかしこも都市化して、隣に誰が住んでいるかも分からない状況。出産するまで赤ちゃんに触れたことがなかった、小さな子と接したことがなかったといったことが普通の状態です。

 何の知識も体験もないところから、「いきなり実践の場」で泳ぎながら感覚を掴むには、「子育て」という場はあまりにもリスクが大きすぎやしないか。これからの世界を創る一人一人が育つ、かけがえのない一瞬一瞬が詰め込まれているのですから。私自身、「いきなり実践」でもみくちゃにされながらここまで来て、振り返り、感じることです。

 もっと、子育ての実践に入る前、そして子育て中も子供達を遊ばせるなどしながら、体系的に「これは大切」といった子育てのポイントを学ぶような機会があったら、それは机上の知識だけでなく、実践練習もできる機会、そんなことをよく思います。

 といって「子育てに正解なし」というのもまったくその通りで。個性がヒトの数だけあるように、子育てのあり方も千差万別であっていいのだと思います。と同時に、その元に、これは最低限に共通して大切というようなある意味普遍的といえるものもあると思うんですね。その普遍的な土台と、多様な枝葉と、体系的におさえていける「子育て学」のようなもの、あるといいなと思います。

 佐々木さん、いつもありがとうございます。一つ一つの言葉に、気づかされます。こつこつ、歩いていきますね。ひとまず、今は熱の子の世話です。(笑)どうぞゆったりと週末をお楽しみください!

【マインドフルネス】10.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】10.長岡真意子氏との応答

2014/11/15「日常に新鮮さを取り戻す、意識的に気づいている状態とは?」
http://kosodatekyua.com/2014/11/nichijounisinnsensawotorimodosu-ishikitekinikiduiteirujoutaitoha/

>>Sasaki,Nobuo
November 17, 2014

 読んでいて、これは俳句的な「気付き」の手法だなと思っていたら、やはり後段で触れられてましたね。

 私が思い出したのは、フーローベルとそれに師事したモーパッサンの逸話でした。これといって具体的に教わるわけでもなく、毎日フローベール宅にまで同じ石畳の道をテクテク通って、そこで茶飲み話などして帰るだけ。唯一フローベールが指示したのは、毎日毎日、通ってくる石畳の道の様子を書けということだけだった。

 同じ道を同じ時間に通って、毎日変わったことなど書けるわけがない。それでも石畳にあたる日の光の微妙な変化の様子や、めずらしい形の小石を見つけたり、石畳に具体的な動物に似た形を見出したりと、その気になれば、毎回新しい発見があったということです。

 思いだしてみれば、子供時代の時間に比べて、大人になってからの時間は年々速く過ぎ去っていきます。パターン化した日常のなかで、なんら経験・発見をしなくなってるからでしょう。子供時代には、それこそモーパッサンの石畳のように、毎日、毎瞬間ごとに新たな発見の連続だったはずです。記憶の内的な時間は、時計で測るようなものではなくて、そういう経験の瞬間の連続によって刻まれるものでしょう。

 俳句も、そのような瞬間の発見、経験を、五・七・五の文字に乗せるような作業ですね。写真で言えば、すばらしい瞬間のスナップショットを撮るようなものでしょうか。そして、その瞬間が全体と繋がっているような時間ですね。実存といい、現象学的還元といい、純粋経験といい、みなそういう難しいものではなく、瞬間の隙間から垣間見る「あるがままの世界」に肌を接するようなことを指しているのだと思っています。
 
>>長岡真意子
November 19, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます!

 昨夜は「マインド・バランスな夕べ」の集まりでは、友人達と「するモード」と「あるモード」の話や実践をしてみたのですが、佐々木さんの前のコメントにあった「海泳の話」になりました。素晴らしく分かり易い喩えだねと。佐々木さんのブログにある若かりし頃の詩が好きだとおっしゃっていた方もいましたよ。「落ちる」ということに特別な思いがあるのだろうかとも。私も佐々木さんの記事だけでなく詩のアップも、楽しみにしている1人です。

 この「レーズンにマインドフルに向き合ってみる」エキソサイズ、取っていたクラスでも体験し、マインドフルネス関係の本にもちょこちょこ出てきます。それでも「俳句的」とはこちらでは話に出ず、どこにも書かれてはいないわけですが、まさしくですよね。(笑) 

 「写実主義」を確立したとされるフローベルとモーパッサンの間にはそんなやり取りがあったんですね。いつも勉強になります。同じ石畳の道を毎日行くにも、「その気になれば、毎回新しい発見があった」と。光の当たり具合も、肌に感じる空気も日々違い、季節も移り変わっていきますものね。

 ウォルドルフ(シュタイナー教育)のプレスクールの手伝いをしていた時のことを思い出しました。森の中を毎朝散歩するんですが、先生が「日々風景が移り変わるということを体感させたいんです」とおっしゃっていました。まつぼっくりや小枝を拾ったりと道草しながら湖までたどり着き、同じ道ですが続けていると、色彩も、風も、土の様子も、移り変わっていくのをしみじみと感じるんですね。

 身体に感覚を澄ますといったエキソサイズも、えーまた同じこと繰り返すわけーとも思うのですが、実はその都度その都度新しい発見があったりするんですよね。過去の映像や体験を当てはめて目の前のものを見るのではなく、今この瞬間を捉える開かれた感覚や、初心者の心持ち、大切にしていけたらなと思っています。

 「子供時代には、それこそモーパッサンの石畳のように、毎日、毎瞬間ごとに新たな発見の連続だったはず」
本当ですね。子供達に囲まれる毎日、彼ら彼女達の姿勢に多くを学んでいると感じています。

 「瞬間が全体と繋がっているような時間」

 そんな瞬間瞬間に、より直接的に触れていくことができたら、そう思っています。昨夜は、「考え」を通して「知る」だけでなく、より直接的に「身体感覚」を通して「知る」、というエキソサイズを友人達としてみました。普段いかに「考え」を通して物事に接しているか、まずはそこを自覚してみること、そこからだねと。

 ありがとうございます。佐々木さん、今週もどうぞ良い日々をお送りください!
 
>>Sasaki,Nobuo
November 19, 2014

 ほとんど読者のないブログも読んでいただいてるそうで恐縮です。

 「落ちる」とか「沈む」とか「溺れる」とかの、やたら多い青春期でした(笑) とくに自覚的だったわけではないですが、当時読んだ坂口安吾『堕落論』の「生きよ堕ちよ」という言葉に感応してたからかもしれません。まわりは中途半端に上昇志向の強い学生たちばかりでしたので、その反発というか一種のデカダンスで、孤独感いっぱいの時期でもあったと思います。

 そしてやはり、鬱体験が尾を引いていた時期でもありますね。地の底まで沈みこんで行くような鬱の独特の心理状態、怖れてもがくほどさらに落ち込むような底無し沼のような感覚。それなら、とことん落ちていく状況を見つめ続けてやろう、といった気持ちが働いていたのかも知れません。小石を井戸に放り込んで、かなりの時間差があってから、ポチョンと水面に当たる音で安心するような感覚だったと思います。
 
>>長岡真意子
November 20, 2014

 随筆もエッセイも詩も、楽しみにさせていただいています。

 「落ちる」といったイメージに特別の思いがあるのかしら、と言った友人の言葉、はっとさせられました。青春期に目を通した本、時代背景、またマジョリティーに反するといったような姿勢が表れていたんですね。

 鬱体験が写し出されていたということでもあると。果てしなく落ちていく様子、何とか落ちないでおこうともがくほどずるずると下降していく。とことんまで落ち、水面に至る音、水下へと沈む石、水底の静寂さ。そんな様子を言葉で表すことで、また少し空を見上げる気持ちを手にされたのでしょうか。

 シェアしてくださってありがとうございます。これから、村から出てきているネイティブアラスカンの「両親」のお見舞いに行ってきます!「父」に会うのは、15年ぶりなんです。佐々木さん、どうぞ今日も良い日をお送りください。

【マインドフルネス】09.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】09.長岡真意子氏との応答

2014/11/13「うつ状態のメカニズム、どうしたら抜けられる?」
http://kosodatekyua.com/2014/11/utsujoutainomecanism-doushitaranukerareru/

>>Sasaki,Nobuo
November 13, 2014

 マインドフルネスの紹介記事を読みながら、これまでの私自身の生活歴や思考してきたことの”たな卸し”に活用させてもらってます。

 「するモード(doing-mode)」と「あるモード(being-mode)」との対比で、古典的な哲学的命題の「Sollen=当為」と「Sein=存在」の確執を思い出しました。カントの観念論あたりまでは圧倒的に Sollen が優位でしたが、近年の実存主義など以降もっぱら Sein が主題化されています。観念論が自己撞着をおこし中空に舞い上がってしまった反省としての批判なんでしょうね。

 「外の世界」での「するモード」では目標が設定しやすいし、そこに至る距離も測りやすい。一方「内面的な世界」では目標設定が抽象的曖昧になりがちで、「ハッピーになりたい」という例のように、目的が無限遠点になってしまう。つまり、無限が定規になってしまうと、今の位置も達成度も判定不能になってしまうんですね。過去も未来も永劫に「ハッピーじゃない」状態に置かれて、すべてネガティヴな世界にはまり込んでしまいます。こうなれば、ほとんど鬱の世界です。

 若いときのエピソードですが、友達と海に泳ぎに出かけました。すぐ対岸に小島が見えて、そこまで泳ごうじゃないかということになった。行きはよいよいで元気いっぱいに泳ぎ着いたが、曇り空で肌寒い天気、ゆっくりと休む暇もなく、すぐに戻るために飛び込んだ。かなり泳いだつもりだが、なかなか元の浜辺が近づいてこない。どれぐらい泳いだのかと振り返ると、すぐ目の前にさっきの小島がある。

 それまで疲労感もなかったのに、その距離感に愕然となった。それこそ目的地の元の浜辺が無限遠点に思われたのです。そのとたんに体全体の力が抜けて、溺れるような状態になった。もうだめだと思ってぶくぶくと頭を水面下に潜らせたときに、できることをやるしかないじゃないかと思った。ゆったりと大きく平泳ぎの手足を動かし、一定のリズムで繰り返すことだけを考えた。

 いわば瞑想で、凝り固まった意識を体の隅々にまで広げていくような形だったと思います。いま手足がちゃんとリズミカルに動いており、間違いなく水をかいており、このままで続ければいずれ岸にたどり着くという安心が体全体にただよってきました。

 これも「あるモード」への切り替えができた例かと思われます。「外の世界」はある意味で Sein そのものであり、あくまでも有限なはずが、「内面の世界」に取り込んだ瞬間に、それを無限問題にしてしまい、どこまでも Sollen の強迫観念に追われ続けることになるのでしょうか。

 「外の世界」は本来的に有限であり「するモード」が機能する世界であって、それに向けての努力は必要なことです。ところが、それが「内面的な世界」になったとたんに無限問題に取り込まれてしまい、機能不全に陥ります。そこで Sein から遊離して Sollen の魔術世界にはまり込むわけです。「あるモード」というのは、いわば Sein に同期するための契機とも言えるのではないでしょうか。「あるモード」の「7つの特徴」とは、まさにそれを示していると思います。
 

>>長岡真意子
November 14, 2014

 佐々木さん、いつも様々気づかされるコメントをありがとうございます!

 こうしてマインドフルネスについてまとめていること、佐々木さんのこれまでの膨大な蓄積の「たな卸し」に少しでも利用していただけるなんて、もったいない言葉、光栄です。

 目標を定め、現在地点からのギャップを埋めようと進む「するモード」というのは、確かに「こうあるべき」という「ゾルレン」に支えられていますね。対して、今この瞬間をあるがままに体験しようとする「あるモード」とは、確かにあるがままの存在をそのまま認めようとする「ザイン」であって。

 「するモード」をそのまま「内面世界」に当てはめ、「目標」を定めようとするなら、「無限遠点」になってしまいがちだというの、なるほどです。そうして、目的地への道程も曖昧となり、どれほど進んでいるかも、自分が今どこでどうしているのかさえもぼやけてしまい、出口のない迷路の中で絶望してしまう。

 海での遠泳の思い出、とてもわかり易かったです。島から岸までの距離感を失い、もうだめだとまさに溺れる瞬間、ゆったりと力を抜き大きく手足を動かし、一かき一かきのリズムの繰り返しにフォーカスすることで、何とかなるかもしれないという安心感に包まれていったと。マインドが一旦陥った「もうだめだ」という状態から、手や足がリズミカルに動いているという事実に気がつき、身体全体へと意識が行き渡ることで、結局、岸に辿りつくことができたのですね。

 よかったです、たどり着かれて。途中ドキドキしましたよ。(笑)

 本当に、この海での出来事、まさしく「するモード」から「あるモード」へシフトしていったともとらえられますね。

>「外の世界」は本来的に有限であり「するモード」が機能する世界であって、それに向けての努力は必要なことです。

 目標を設定してそこへ向かう努力と、今この瞬間をまるごとそのまま捉えるのと、「するモード」と「あるモード」のそれぞれの七つの特徴を自覚しつつ、バランスを取っていけたら、そう思っています。「あるモード」を散りばめると心がけることで、随分と日々が豊かになってきたように感じています。やるべきことが山積みで、忙しく目が回るときこそ、救われますね。

 ありがとうございます。こちら金曜日、朝から子供達のクラスに付き添い、プールです。(笑) 佐々木さん、ゆったりと週末をお楽しみくださいね!

【マインドフルネス】08.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】08.長岡真意子氏との応答

2014/10/16「シンパシーとエンパシーの違い、寄り添うということ」
http://kosodatekyua.com/2014/10/sympathytoempathy-yorisoutoiukoto/

>>Sasaki,Nobuo
October 16, 2014

 「少なくとも」という言い方、ついついよく使ってしまうなあ(笑)

 思うにこれは、論理で心情を説得しようとするスタイルなんですね。古くからあるロゴスとパトスの位相の掛け違い。鬱体験から、「論理で心情はコントロールできない」ということを痛感したはずなのに、対人関係ではついつい陥ってしまう陥穽です。

 本来的なシンパシーなどはできない。たとえば、他人の痛みを、同じように感じることはできない。そんなことできるのなら、戦争も殺人もあり得ないわけです。そこには深い実存の秘密が横たわってるはずです。

 エンパシーは、その気でありさえすればできる。問題は、自然から湧き出るような思いやり(たぶんそれを「愛」と呼ぶのだと思ふ)がないと、なかなか「その気」になれないで、ついつい批評的に対処してしまうことですね。本質的なシンパシーなどできない、という徹底したリアリズムこそが、エンパシーを可能にするんだと思いました。
 
>>Sasaki,Nobuo
October 16, 2014

[補足] 「愛」などと表現したけど、別の言葉に置き換えると、「大我」を実装している状態か、深いところで全体とつながっている安心とか、同じようなことですね。
 
>>長岡真意子
October 18, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます!

 こんなにポジティブな面もあるじゃないと、「善意」だったりするんですよね。私も、相手を励まそうと「でもね、あなたにはこれもあれもあるじゃない」なんてこと言ったりすることあるなあと。これが有効なのは、まずは相手が穴から這い出てからのことですね。そしてこの言葉は、相手を穴から這い出させることになりはしない。

 鬱体験で、「論理で心情はコントロールできない」と痛感されたんですね。私自身本当にきつかった状態にあった時、変化をもたらすのは、論理的な方法や手順を超えた、「感覚」のせめぎあいなのだと感じました。

 対人関係で、「他人の痛みを、同じように感じることはできない」。それでも往々にして、自分は同じように感じてるし「分かっている」と思ってしまうところに、確かに行き詰まりがあるのかもしれません。

 「同じように感じる」でなく、エンパシーは「共に感じる(feeling with people)」。同じではなく、違っているだろうけど、私なりに共に感じているよ、ということなんですね。

 この「同じではない」という前提を「徹底的に」見つめていくことが、確かに、自身の枠内から、全く違うはずの相手を「同じように」コントロールしようという動きを、緩めていけるのかもしれません。

 子育てについても、「この前提」を見詰めていくことが大切だなとしみじみ思います。子供側にも「共感されている」という土台があるのなら、論理的な導きも、その子自身の選択として身に着き、実りあるものになっていきます。

 エンパシーの「その気」は、「愛」や「大我の実装」と呼ばれることのある、小さな自我を超えたものへの眼差し、深いところでの繋がり感、安心感のようなものに支えられる、私自身もそう感じています。まだまだまだ先は遥かに遠いですが。(笑) 少しずつ精進していきます。

 いつもありがとうございます!佐々木さん、よい週末をお過ごしくださいね。
 
>>Sasaki,Nobuo
October 18, 2014

》こんなにポジティブな面もあるじゃないと、「善意」だったりするんですよね。《

 そうそう、相手の善意は痛いほど分かってるんですね。でも鬱状態の励ましは、かえって苦痛にになってしまうんです。高校のときには、友人が様子見にきてくれたけど、会わずに帰ってもらったりした。

 しかし一方では励ましてもらいたいわけです。鬱というのは、そういうダブルバインドにはまり込んでいるのであって、意識が痙攣状態にあるってことですね。

 そういうときにシンパシーは機能しない、むしろエンパシー、すなわち寄り添ってくれてる人が居る、というのが唯一の救いになりましたね。自殺さえしなければなんとかなる、それが鬱から得た唯一の教訓でした(笑)
 
>>長岡真意子
October 19, 2014

 そうだったんですね。きっと頑張って無理をたくさんしたからこそ、そういう状態になっているところ、余計に「張る」ような言葉は苦痛を強めるだけなんですね。周りにもうつ病を体験した友人が何人かいます。もうとにかくだるくて「励まし」がきつくて、と言ってました。

 それでも一方で声をかけてほしいという「ダブルバインド」だと。ほっと気持ちが緩まるよう、ただゆったりと傍で寄り添う、それがいいんですね。

 アラスカは冬至をピークに日照時間が短く、氷と雪に閉ざされた日々が長く続くこともあり、特に冬になるとうつの症状を訴える人も多いんです。他州から来た人など参ってしまうんですね。太陽が恋しいと去る人にも今まで何人か会いました。佐々木さんの言葉、覚えておきます。

 こうして佐々木さんが生きてらっしゃって、言葉をかけていただけること、感謝しています。

 日本は新しい週が始まりますね。こちらは土曜日夜です。ちょっと体力的にきつい日々が続きますが、力抜いていきます。

 佐々木さん、どうぞゆったりと日々お楽しみください!
 
>>Sasaki,Nobuo
October 19, 2014

 ついでだから、昔の話をしてみます。忙しい中、無理なお返事はけっこうですよ。

 鬱状態というのは、一切の判断ができなくなります。極端な話だけど、歩道を歩いていて向こうから人が来る、どちらによけようかギリギリまで判断できない。で、ぶつかりそうになってからどちらかによけると、相手も同じ方によけたりして、ぶつかってしまう。そして、その原因は自分にあると自責して、さらに落ち込んでしまうという下降スパイラルなんですね。

 そんなわけで、自分で判断できない状態になったとき、たまたま信頼できる高校時代の友達がいたので、必要な判断はすべてお前がやってくれ、とか頼んだことがありました(笑)

 まあ、鬱状態というのは、外面的にはほとんど分からないんですね。そんなとこで、家族以外にもそういう風に寄り添ってもらえる人が居るのは、かなりの支えになりました。いま、そいつの父親の日記を、写経でもするつもりでデジタル入力してます(笑)
 
>>長岡真意子
October 20, 2014

 佐々木さん、昔のお話をシェアしてくださってありがとうございます。

 鬱状態では、「一切の判断ができなくなる」ことがあるんですね。そして何とか判断して動いたとしても、少しでもうまくいかないと、自責して落ち込んでしまう。うつ病と診断されたことのある友人達も、普段から責任感が強く頑張り屋で、人を責めるよりも、まず自分の至らなさを思うようなところがあります。

 「外面的にはほとんど分からない」にも関わらず、傍にいて、「判断」までをも引き受けてくれたご友人の存在、心に響きます。佐々木さんが今取り組まれていること、ある哲学者の日記のデジタル化というのは、そんなご友人さんを育てられたお父様のものだったんですね。当時寄り添い寄り添われながら、まさか何十年後かにこんな関係が生まれるとは、想像もされなかったことと思います。

 穏やかに日々コンピューターに向かわれる佐々木さんの姿を想いつつ。ありがとうございます。

 こちら嵐のような一日が、また終わりつつあります。明日から月曜日! 佐々木さんも、良い日々を!

【マインドフルネス】07.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】07.長岡真意子氏との応答

2014/10/11「内奥の安心感に至り持てる力を発揮するために」
http://kosodatekyua.com/2014/10/naiokunoanshinkanniitarimoteruchikarawohakkisurutameni/

>>Sasaki,Nobuo
October 12, 2014

 「一スペース」を置くということへのコメントです。といっても、自分勝手にやってるちょいとした意識操作でなので、笑い流してください。

 「転んでもただで起きない主義」というのが、その一つ。人通りの多い場所などで滑って転んだりした時、恥ずかしいから慌てて起き上がろうとしますよね。で、その慌てた様子を見られてたりすると余計に恥ずかしい(笑) そこで転んだままの低い目線で、地面にお金でも落ちてないかとゆっくりと見回して、やっぱり落ちてなかったかとういう顔をして、平然と起き上がる。この「ひと息いれる」間で、平常の自分に戻れるんですね。

 これは、転んだ時だけではなく、いろんな狼狽する状況が生じた時に、応用できます。お金を探すのがみっともないと思うのならば、ドアのつもりで地面をノックしてモシモシと小声でつぶやいてみるとかね(笑) まあ動転したときなど、なんでも良いから意識に「一スペース」置いてやって、一つの方向へ向けて抜けていく道を用意してやることです。

 元来の小心者ですから、たくさんの人前で話すことが苦手でした。大学ゼミなどで勝手な意見などはいくらでも話し続けられるのに、あまり接点のない人たちの前で話す時、緊張して焦点が定まらず何を言っているのか分からない状態になりやすい。そこで工夫したのが、たくさんの見知らぬ顔のなかで、何でもうんうんと頷いてくれるような人をみつけて、その人に向けて話すという方法です。そういうひとの好い人って、必ず一人ぐらい居てくれるんですね(笑) そんなわけでマイクを持って最初に行う作業は、ゆっくり聴衆を見回して、探りの一言ぐらいをぼそっとつぶやいて、そこでちゃんと反応してくれそうな人を見つけることです。それがはまれば、あとは一時間ぐらいでも話し続けられますね。

 この種の例はいくつも思いつくんですが、はぶきます。飛びますが、現象学の基本概念に「志向的意識」なんてのがありましたね。つまり正常に機能しているときは、「何ものかへの意識」なのに、緊張したり動転したりしてるときって、それが対象へ向わずにぐるぐる回りしてるんですね。マインドがワンダーなのも、そういう状況なのではないでしょうか。筋肉でいえば、痙攣を起こしているような状態です。そこで「一スペース」置くこと、すなわちエポケーですw すると、水が低きに流れるように、自然に意識が流れ出して行きます。

 そのために、深呼吸したり呼吸を整えたり、いろいろあるでしょう。「筋肉を鍛える」とは、日ごろからそのように自然に意識が流れ出すためのパターンを身に着けてしまうということじゃないでしょか。そして、その切り替えに要するのが「一スペース」「一呼吸」の空白じゃないかと思います。

 ほかにも、ヤクザ屋さんと車ぶっつけて、大変な状況をどう切り抜けたか、とか。小学校の時、いつも作文が3行で終わってしまうのをいかに克服したか、とか、いくつかネタがあるんですが、またの機会に(笑)
 
>>長岡真意子
October 14, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます! 笑い流すどころか、現実的にとてもためになります。

 「転んでもただで起きない」、そう思うことで、動転したときに、意識に「一スペース」置き「一つの方向へ向けて抜けていく道を用意」できる。「一スペース置く」には、落とし物を探してる振り、地面をノック!(笑)なども有効と。

 私なりにとてもよく分かります。というのも、もう私自身、ドジはホントよくしてきた方で。

 人前で転んで恥ずかしさに気が動転して慌てて起き上がる時に、鞄をひっくり返しに掴みザーと中身が派手に全て落ち、転がるコインなど追いかけて四つんばいでテーブルの下へ行き、起き上がるときに頭を強く打って・・・とか、バッフェでお皿一杯の料理を持っていて派手に転びそこら中にぶちまけるとか、友人のお子さんの誕生会でケーキを子供達に配る手伝いをしていてケーブルにけつまずき放り投げてぐしゃり・・・とか。もうちょっとどうにも救いようがない状況というか、体験してきました。(笑) 子供達に「こぼさないようにね、気をつけて」と言いながら、だいたい自分が率先してこぼすんですよねえ。(笑)

 ドジを繰り返してきた分、動揺して「より悪くする」ことだけはしないでおこうと少しずつ実践するようになりました。どんな状況でも平然とした顔で立ち上がり、さっさと処理を始めたりするのがいいですね。そのために、「一スペース」置く、なるほどです。すぐに涼しい顔に戻ること、こちらでは人前で感情をあまり出さないようにすることに慣れている方も多く、学びました。すると周りも「今のあの惨劇」は実はあったのかなかったのか、と何事もなく進んでいったり。

 人前で話す時、頷いてくれたりする好さそうな人を見つけて、その人に語りかけるつもりで話す。なるほどです。私自身、平気にべらべら話せる時と、何言ってるんだか分からなくなる時とあるんですが、確かに、ぐるぐる回り始めるマインドを、「誰かの意識とひっかける」ようなイメージでいくと、集中して話し始めることができるように思います。「この人にこの内容を分かってもらおう」と「ぐるぐるから抜ける道」がはっきりすることで、スラスラと話せるように。

 「この種の例はいくつも思いつく」、ヤクザさんと車ぶつけても無事抜けた法、作文三行から続ける法、「一スペース」はさんでのあれこれ工夫、興味あります。 いつか是非お聞きかせください!

 狼狽動揺し、マインドがぐるぐるワンダーするのを、「エポケー」という「思考からフォーカスを移す状態」をはさむことで、本来正常であるはずの「志向的意識」に戻していく。「エポケー」によって、「水が低きに流れるように、自然に意識が流れ出して」いくんですね。「筋肉を鍛える」とは、この流れをよりスムーズに身体化すること。とてもストンと整理できました!

 長い間の様々な体験と思索に基づいた佐々木さんの言葉の数々、いつも多くを気づかされています。ありとうございます。

 こちらも新しい週始まりました。これから二週間ほど、ちょっとチャレンジングなイベントが続くのですが、「エポケー」をはさむこと、心がけていきますね。佐々木さんも、どうぞ良い日々をお送りください!

【マインドフルネス】06.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】06.長岡真意子氏との応答

2014/10/03「七つの姿勢、より自分自身に/ よりその子自身に」
http://kosodatekyua.com/2014/10/nanatsunoshisei-jibungayorijibunjishinni-sonokogayorisonokojishinni/

>>Sasaki,Nobuo
October 3, 2014

 ここの”良き読者”として、自然にマインドフルネスを学んでる感じになってきてますw

 それはさておき、この「七つの姿勢」を拝見して、現象学をかじったころのイメージを思い出しました。もちろん現象学は、「事象そのものへ」という言葉にあるような哲学的態度を主題にしたものですが、実生活の中でもこういう態度は有効だと思いました。その基本的操作が「エポケー」と呼ばれてましたね。エポケーを日常で実践するのに、示された「七つの姿勢」が必要なのだなと思いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC

 現象学の中では、身体性の延長として精神をとらえるメルロポンティなどが近いでしょうか。「(身体)は私よりも私に近く在す」ですもんね(笑)

 仏教だのエックハルトだの現象学だのと、いろんなもんのつまみ食いみたいなコメントで申し訳ない。私の中では、それなりに繋がってるんですけどねw
 
>>長岡真意子
October 4, 2014

 佐々木さん、ここでこうして学びをシェアできること、嬉しいです。読んでいただきありがとうございます!

 現象学のイメージと重なるんですね。学生時代に少しだけフッサールなど読んだこと、佐々木さんの言葉に、記憶の糸を手繰り寄せていました。「エポケー」、なるほどです。「現実に対する判断を留保する」、それが「意識の普遍的構造を捉えるための第一歩」と。
身体論に取り組んだメルロポンティの「(身体)は私よりも私に近く在す」というのも、まさしくですね。マインドフルネスを通し、五感や呼吸を活用しつつ、頭のみから身体に意識を広げていくことを学んでいます。

 様々な角度からの知恵を示していただき、ありがたいです。私の中では(私の場合はそれこそ本当に少しかじっただけですが、笑)俳句を作る感覚と繋がっています。佐々木さん、よい週末を!

>>Sasaki,Nobuo
October 4, 2014 - 2:45

 俳句ですか。そういえば森田療法の中にも、句作を通じて自然と同期する、という実践療法があったように思います。そのむかし、歳時記など買ってきて何句かひねってみたことはあります。すぐに投げ出したけどw

 呼吸にフォーカスし意識を身体に同調させるという操作は、俳句では季語がその経路の役割を担ってると思いました。つまり、季語をぽんと放り出すだけで、やっかいな日常の意味世界から離れて、自然世界を共有してしまえるんですね。

 「哀れ蚊」という秋の季語がありました。はだ寒くなってよろよろと飛ぶ蚊を哀れ蚊と呼んで、昔の人はパチンと叩いたりしなかったそうです。哀れ蚊と言われたとき、同情したりするのではなく、哀れ蚊にすっかり同期、成りきってしまうんです。そういえば自分も哀れ蚊みたいなもんだ、とかねw

 四季の明瞭な日本という風土だからこそ、そういうのが可能だったわけで、外国とかではどうなるか分かりません。そもそも温暖化現象とやらで、かつてのような季節感は薄れつつあります。哀れ蚊どころか、夏場の暑い盛りは木陰で休んでいて、秋にさし掛かるとやたら元気になる蚊には、もはや殺意しか覚えません(笑)

 こうやって、かってな発想をしてみるのも、楽しいもんです。
 
>>長岡真意子
October 5, 2014

 佐々木さん、森田療法では、俳句を不安症や鬱の治療に用いるんですね。俳句は友人に誘っていただき始めたのですが、まずは身の回りの事象をとにかく観ること、そこから言葉を紡いでいく、俳句を通して、いかに何も観ていなかったかを教えられました。

 季語が「意識を体に同調させる」、なるほどです。自身の枠内のみで右往左往していたのが、季語を用いることで、ぽんと周りの世界と繋がる感覚がありますね。

 歳時記を眺める度、季語の表す世界の豊かさに感動します。冷やかか、爽やか、身に沁む そぞろ寒、やや寒、肌寒、朝寒、夜寒、冷まじ、今少し歳時記をめくってみたのですが、秋のひんやりとした体感を表す季語にもこんなにあって。それぞれ微妙に違うんですよね。秋の月を表す季語も好きです。数えてみたら秋の月についてだけで十五語近くありました!
「自分も哀れ蚊みたいなもんだと同期する」、面白いですねー。季語を通して、一体になる。

 気候の変化、本当ですね。歳時記の書かれた時代とは随分と違った様相になってきてますね。こちらアラスカも十五年前に引っ越してきた時に比べ、随分と暖かくなってます。また場所も変われば、風土も随分と変わり、友人達で「アラスカ歳時記」を作ろうかなんていう動きもあります。ムース(ヘラジカ)の角の様子や、晩夏を知らせるヤナギランや。果物や野菜はほとんど他州や他国から運ばれてくるので、スーパーには一年中同じようなものが並び、季節感全くなしですが。蚊に関しては、色々できそうですよ。黒煙蚊(蚊が煙のように群れになっている様)とか。(笑)

 子供達の学校でも俳句を作ってきたりしますが、音節での五七五で、季語無しなんですよ。ショートポエムの感覚ですね。

 徒然と長くなってしまいました。ありがとうございます。今週も始まりました、佐々木さん、良い日々をお送りください!

【マインドフルネス】05.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】05.長岡真意子氏との応答

2014/09/07「すっと寝入る方法、フォーカスのシフト」
http://kosodatekyua.com/2014/09/suttoneiruhouhou-focusnoshift/

>>Sasaki,Nobuo
September 7, 2014

 「頭のおしゃべり」を忘れ去る方法としては、禅修行が採用してる方法でもありますね。安らかに眠ってしまうと、警策がとんできますが(笑)

>>長岡真意子
September 9, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます!
呼吸、五感は、今この瞬間にしかないものですね。集中することで、今に戻ってこられます。

 今学んでいる、「マインドフルネスストレス低減プログラム」の開発者ジョン・カバット・ジン氏は、禅僧に師事した体験と西洋医学を合わせてこのプログラムを開発したんです。

 クラスへ行くたびに、「警策で叩かれたの?」と子供達に恐る恐る聞かれます。(笑)

>>Sasaki,Nobuo
September 10, 2014

 「今この瞬間」に、心と体を同期させようと言うのが禅仏教ですね。自在にその状況に入れることを「さとり」、融通無碍にその世界に遊べる人を「ほとけ」と言うそうです。過去の恨みや妬み、将来の不安や怖れに煩わされずに今に生きる、思えば子供は本来そういうものでした。大人になると言うことは社会性を獲得するということでしょうが、その過程で本来の「あそび」を忘れてしまいます。「子育て」という場面は、親が子供になり、子供が大人になるという、他に代わりのない稀有なフィールドだと思います。ご苦労はあるでしょうが奮闘されることを祈ります。

>>長岡真意子
September 11, 2014

 「さとり」「ほとけ」、短い文にその意味が凝縮され、すっきりと整理された気持ちです。

 子供は無意識に「さとり」、「ほとけ」である部分をもっていて、「社会性を獲得」し忘れてしまったその感覚、大人は意識的に再びそこへ辿り着こうとし。

 「親が子供になり、子供が大人になるという、他に代わりのない稀有なフィールド」である子育て。本当に、子供達と過ごす日々、様々気づかされています。

 日々苦労も尽きませんけどね(笑)、苦労も含めて、楽しんでいる、そんな自分を見出しつつあるように感じています。

 ありがとうございます。今日も良い日をお過ごしくださいね。

【マインドフルネス】04.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】04.長岡真意子氏との応答

2014/11/23『「嫌な気持ち」のメカニズム、うまく付き合うには?』
http://kosodatekyua.com/2014/11/iyanakimochinomekanism-umakutsukiauhouhou/

>>Sasaki,Nobuo
November 23, 2014

 また私の経験を述べることになりますが、「するモード」が妄想ジャングルに紛れ込んだとき、「するモード」の方向を切り替えるという操作をするようになりました。一旦「あるがまま」の現状を認めた上で、いま出来ることだけに集中するというパターンへの切り替えがうまくなったと思います。

 例のヤクザ屋さんとの事故の件でして、長くなりますが笑い話として聞き流してください。車で近くを走っていてT字路で少し出すぎたときに、先方の車が突っ込んで来て少しだけボディをこすりました。ほとんど塗装だけで修復できるような事故でしたが、先方の車からスキンヘッドで刺青したオッサンが降りてきて、これはヤバイと思ったw

 相手の車の後部シートに乗せられて、組の代紋の金箔押した名詞を見せられて(今ならそれだけで暴対法で挙げられる行為)、先方は4人乗ってました。明らかに当られにまわっていたようで、人数が多いほど賠償額が多く取れるからだそうです。保険に加入しているのを確認されたあと、その場は解放されました。

 自宅に帰ってから頭がパニックになりました。これからどれだけ脅迫されるんだろうかとか、保険以上の賠償を要求されるのだろうかとか、先の不安がいっぱい。それと、なぜ当ったんだろうかと、考えてもしょうがない後悔と、後と先のことだけで、まさにプリゼントから遊離してる心理状態なんですね。

 そこで、取り戻せない後悔や対処できない先のことは置いておいて、今出来ることは何かと考えの方向を切り替えました。つまりプリゼントにフォーカスするということで、ここでも、「あるがままを認めよ」という森田療法や参禅の経験が参考になったと思います。

 さいわい賠償関係の交渉は保険会社が対応する契約になっていたので、あとは見舞いとか丁寧な対応だけして、言いがかりのネタを与えないように、とのことでした。少し安心して、あと何か出来ないかと考えた。恐らく電話してきて脅したりするんだろと思うと、電話のベルが鳴るだけでビクんとしてしまう。

 そこで思いついたのが、相手の脅迫電話を録音しておこうということでした。記録を保存しておけば、保険会社の交渉でも役に立つだろうし、警察沙汰になったときにも証拠になるだろう。ホームセンターで簡易の電話録音装置を売っていて、両面テープでペタンと受話器に貼り付けたコードを録音カセット機に繋ぐだけ。500円程度の投資で済んだ。

 こうなると、相手からの脅迫電話が掛かってくるのが待ち遠しい(笑) しかしながら相手もその道のプロ、結局こちらには一度も掛かってこずに、ひたすら保険会社の担当者と交渉にだけに徹して、あとから担当者にきくと、けっこう声を荒げるシーンもあったとか。

 一度だけ、4人がこぞって入院している市民病院に見舞いに行ったけど、暇をもてあまし一人のベッドに集まって花札をやってました。私が顔を出すと、一番下っ端に顎で合図して、鞭打ち固定のコルセットを4人分取りに行かせて、それから形ばかりはめていました。そもそも鞭打ちになどなりそうにもない接触事故だったのに、病院は組関係が牛耳っていたようで、痛いと言えばいくらでも入院を続けさせる状態だった。

 一人一日入院すると治療費が一万円、月30万×4人=120万円、それに慰謝料等で倍額の240万、それを200万にまけてやる、という先方の言い分だったらしいです。しかも乗っていたポンコツ車を新品に買い替えさせられて150万ほど、すべて保険でまかなえたので、保険さまさまでした。まあ、今となっては、すべてが笑い話ですが(笑)
 

>>長岡真意子
November 25, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます!

 病院までも牛耳られた「その道のプロ」、こんなことがあるんですね。フィクションを読んでいるようでした。

 ちょっとした塗装修理ですむくらいの接触事故のはずが、4人の組員の方に囲まれ車の後部座席に乗せられ、まずはものすごい威圧感を与える心理作戦。

 これでもう、過去へ未来への「妄想ジャングル」へようこそ、ですね。今更考えてもしょうがない「なんで〜しなかったんだろう」、いくら気を悩ませたところでどうにかなるわけでもない「もしこんなことになったらあんなことになったら」。「妄想ジャングル」に迷い込みダウンスパイラルまっさかさま、時間もエネルギーも大消耗。

 ここで、「今できる限りのことをしよう」と「するモード」の方向を切り替えられたんですね。その時、プリゼントにフォーカスし、「あるがままを認めよ」といった森田療法や参禅の体験が生かされたと。

 両側にぱっくりと開いた「妄想ジャングル」にはまり込んでしまわないよう、綱の上を歩いていく、その集中力を養うのが、普段の「あるモード」トレーニング、私自身そんなように感じています。そうして妄想ジャングルで消耗しない分、最大限の力をもって「今できる限りのこと」に集中できる。

 そこで保険会社に詳しく対応策を聞き、会話を録音するための電話録音装置を購入し、とにかく具体的現実的に「今できる限りのことをしよう」と行動を起こされていったんですね。今できる限りのことをするなら、「電話がかかってくるのが待ち通し」くもなると。

 病院で退屈そうに花札をされる組員の方々、佐々木さんの姿を見て、コルセットを取りに行き装着。被害をこうむった側としては、全然しゃれになっていませんが、喜劇ですね。

 四人分の入院費プラス新車まで!

 こちらで、「保険会社お抱えの探偵」という職についている知り合いがいるのですが、医療費のクレームをした人物にとにかく張り付くんですね。ギブスやコルセットなしで、颯爽と活動しいている証拠姿を何とか押さえようと。その方がちらっと教えてくれたストーリーを思い出しました。しかし組員さんの、何とも堂々とした態度・・・。

 シェアしてくださってありがとうございます。「するモード」「あるモード」、こうした実際体験の文脈でとらえるのも、またストンと分かり易いですね。こちらも新しい週始まりました。今朝は子供達のクラスでの祝いにどんな食べ物を持ってくるかと親御さん達と相談、すっかり感謝祭ムードです。佐々木さんも、よい週をお送りください!
 

>>Sasaki,Nobuo
November 25, 2014 - 4:50 am | Permalink
 《普段の「あるモード」トレーニング》 これがパニくったときなどに、意外に役に立ってきますね。

 会社勤めしてたときなど、取引先からはクレーム電話、上司からはあれやこれや無茶な指示、下が起こしたトラブルの処理など、一時に集中したときなど、間違いなくパニック状態に陥ります。

 そいういうときに、頭の中で「ちょっと待てよ、お前は何をしてるんだ」という声がしてきます。そうやって「あるモード」にストンと戻れる感覚が、けっこう身についてると感じます。

 こういうときは、一挙に全部出来るわけないのに、一度にやらなくてはと思い込んでパニックになってるんですね。「あるモード」に戻って、いま出来ることは何か、どれを先にすべきか、その優先順位をつけるだけで、スコンと冷静になれます。

 あとは、その順位にしたがって黙々と処理していきます。関係者がヤイヤイ言ってきても、順番に処理してるから待てと、信念を持って言うとおとなしく従ってくれるもんです。まあ、世の中にはイノチを取られるような緊急事態は、そうあるもんでもないですし(笑)

 ヤクザ屋さんとの件でも、電話録音装置をセットしてからは、もうホームズとモーリアリティの心理駆け引きゲームみたいな感覚になってやれましたよ(笑)
 

>>長岡真意子
November 26, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます!

 「取引先からはクレーム電話、上司からはあれやこれや無茶な指示、下が起こしたトラブルの処理など、一時に集中」
こう読むだけで、パニくってしまいそうです。(笑) こういったぎりぎりの時にこそ、普段の「あるモード」トレーニングが役立ってくると。「今できる限りのことに集中する」という「あるモード」にストンと戻ることで、優先順位もはっきりとし、現実的着実に行動していくことができるんですね。

 「信念を持って」説明すると、相手も納得するもの、なるほどです。腹を据え今できる限りのことを着実にやり続けているのならば、「ホームズとモーリアリティの心理駆け引きゲーム」のように、楽しんでしまう余裕も出てくるんですね。

 ビジネスの世界で、米国企業の35パーセントや、オリンピック選手、軍関係者などの間でマインドフルネスが取り入れられているのは、こうした「ものすごいプレッシャーの中で、責任重大な決断を下す必要があったり、結果を出す必要がある」という状況に頻繁に出会うからというのがあるのでしょうね。一瞬にして地に足をつけ、今この瞬間に最大限の力を出すための、普段からのトレーニングとして。同時にストレスを緩和させ持続も可能になる。

 私自身、ビジネス界やオリンピックなどからはかけ離れていますが、「子育て生活の留まることない乱打ハイプレッシャー」の中で、マインドフルネスに随分と助けられています。(笑)

 感謝をこめて。今日も良い日をお送りくださいね。

【マインドフルネス】03.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】03.長岡真意子氏との応答

2014/10/24「毎日歯を磨くようにマインドを整える」
http://kosodatekyua.com/2014/10/mainichihawomigakusyounimindwototonoeru/

>>Sasaki,Nobuo
October 25, 2014
》叩きのめすでもなく、緩み過ぎるでもなく、そのバランスをどうとっていくかだよね《

 私の場合は、「鬱を克服する」とかいう発想はある時点で捨てましたね。むしろ、「鬱とうまく付き合っていく」とか「鬱を手なずける」という方向に考えて、気楽になった。そう考えると力みが抜けて、バランスがとれた付き合いができるようになったと思います。

 つまり、ひとより少し風邪を引きやすい体質みたいなもんだと考えて、引きそうだなと感じたときに適当なケアをして悪化しないようにする。ある時期まで抗鬱剤が手ばなせなくて、常に持ち歩いていた。で、少しおかしいなと思ったら、それを飲んで気配を散らせていたけど、今ではすっかり薬も必要としなくなってます。

 そういう「鬱との付き合い方」の面で言うと、私の場合は森田療法でしたが、マインドフルネスの考え方や実践がとても役に立つと思います。ちょいと呼吸を整えるとか、普段からコツをつかんでいると薬にたよる必要もないし、いざとなればこれで何とかなるという安心感もあります。薬を手放せなかったのも、そういう安心料だったのだと、今では思われますね。

 禅仏教では、心を丹田におさめる、という言い方をしますね。丹田がどこにあるかよく分からないけど、体の重心みたいな場所でしょう。心臓に心があるとか頭で考えるとか、実際よりは頭でっかちで重力バランスが狂いがちなのが人間ですね。さらに、マインドは糸の切れた凧のように勝手に飛翔したりもします。そういう状況で、丹田ないし体の重心にマインドを結びつけて、そこで自在に活動させるような状態が理想だと思われます。

 鬱というのはマインドが極端に振れる状況ですが、通常の状況でも同じでしょう。人のあらゆる生活場面で、マインドフルネスは有効だと思いますよ。子育てなんて、こちらが振れなくても、勝手にあっちこっち振れまくってくれるでしょうし(笑)
 
>>長岡真意子
October 27, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます!

 「治す」ではなく、「鬱とどう付き合うか」と発想を変えたことで、力が抜けていいバランスがとれるようになられたんですね。「風邪を引きやすい体質」というぐらいの捉え方で、風邪をひきそうになると、ちょっと厚めの服を着てみたりお風呂に入って温かいものをいただいて早めに寝たりするように、鬱病もちょっと悪化しそうだなと思うと、薬を飲まれたりとされていたと。なるほどです。

 「体質」とうまくつきあっていく、そう思うと、変えていかなければ!と意気込むよりも、確かにリラックスして向き合えますね。マインドフルネスでも、「治そう」という気持ちは横においておいてくださいというようなことを最初に言われます。逆に「全く効きやしないよ」という姿勢でもなかなか難しいのですが。結果を求めて期待し過ぎず、気持ちをオープンにしているような状態がいいんですね。

 森田療法などを試され、マインドフルネスの呼吸やコツなども、安心料として役に立つと思われるとのこと、記事の友人も佐々木さんの言葉に励まされると思います。

 昨夜ももう一人やってみたいなあという友人と話して、一緒に試してみようということになりました。俳句を作る方達でもあり、わいわいと楽しく取り組んでいきます。

 「頭でっかちで重力バランスが狂いがちなのが人間」、まさしくそう思います! マインドフルネスも、頭がぱんぱんになっているところを、下に下にと下ろしていくようなイメージです。禅仏教では丹田なんですね。確かに普段「腹が据わる」どころか、頭ばかりに重心がいってよろよろと何ともバランスが悪いと感じています。熊野の修験道の方と話していた時、「左足の親指」で考えるんだとおっしゃっていた言葉を思い出すことがあります。マインドフルネスでは歩いている場合は地面や、椅子に座っているならば椅子との「接点」を意識するというようなことを言うことがあるのですが、確かに意識を「接点」へとシフトさせることで、すっと落ち着く感があります。

 「問題を抱えている」場合から、「よりヘルシーに」まで、日常的にバランスをメインテナンスできる術を身につけられたらいいなと思ってます。子育て、本当ですよ、毎日そりゃもう勢い良くぶんぶん振り切れさせてくれます。(笑) そんな中日々、マインドフルネスに随分助けられている、そう実感しています。

 佐々木さん、ありがとうございます! そちら日本は月曜日始まりましたね。こちらは日曜日、今からパンケーキ作ります。良い日々を!
 
>>Sasaki,Nobuo
October 30, 2014

http://logmi.jp/26481
 ”TED”からの抜粋なので、論旨がたどりにくいようですが、面白いことを言ってるように思いました。

 私たちには「経験の自己」と「記憶の自己」とがあって、物事の判断や行動指針にそれらが関与します。で、極端な例外的経験が記憶に残りやすいので、「記憶の自己」に判断させると、偏った決定をしがちになるようです。

 「経験の自己」として、平和で幸福な経験の時間が圧倒的に多いにもかかわらず、ちょっとしたトラブルに悩まされたりすると、それが「記憶の自己」に強くインプットされて、不幸感の方が多く占めたりするということですね。

 これは「飛翔するマインド」を放置して「プリゼントにフォーカス」すると言うのに似ていませんか。せっかく平和で幸福なプリゼントを忘れて、あれやこれや過去や未来の勝手な想像のために悩んだりしてるんじゃないですか、という話として理解してみました。

 「平和は単調で退屈だが、戦争はそれぞれに個性的で刺激的である」というような話を聞いたような気がしますが、同様に「幸福は退屈で記憶に残らないが、不幸な出来事は記憶に残りやすい」ということでしょう。

 恋人たちが、恋愛中の幸せな日々よりも、別れたときの出来事が記憶に強くインプットされるようなもんだけど、そのような「記憶の自己」で一切恋愛をしないという決断をしたら、それこそ不幸な判断になりかねない(笑)

>>長岡真意子
November 1, 2014

 佐々木さん、コメントありがとうございます!

 「長い間幸福について考えあぐねている学者の一人」という心理学行動経済学者のダニエル・カーネマン氏の幸福についての説明、とても興味深かったです。

 幸福を妨げる要因には、「経験の自己」と「記憶の自己」との混同があると。

 楽しく満たされた瞬間がたくさんあったとしても、少しでも嫌な体験が加わると全てが嫌な出来事として記憶に残ってしまうことがある。素晴らしい音楽の最後にとんでもない雑音が聞こえたり、大腸内視鏡検査の実験でもあるように最後に嫌な目にどかんと会ったりするなら、それまでの全ての体験がもう最悪のものとして記憶に残ってしまったり。

 なるほどです、それは確かに、「プリゼント」から離れ、「飛翔するマインド」にがんじがらめになっている状態とも、言えるのかもしれません。

 瞬間瞬間の体験がそのままフェアにとらえられるのではなく、偏った記憶としてゆがめられ、それらが「幸福である/ない」という判断に用いられてしまう。

 確かに氏が言うように、「幸福というのはもっと複雑なもの」なのだと、自らの瞬間瞬間の体験をフェアに眺め直してみる必要があるのかもしれません。

 平和と戦争、幸福と不幸、瞬間瞬間の平和や幸福により気がつき、それらがより「幸福である」という判断に組み込まれていくのならば、また人も社会も変わっていくのかもしれませんね。

 恋愛、本当ですね。確かに体験した瞬間瞬間の喜びを、フェアに眺めて。ポジティブ、ネガティブ、どちらにしてもワンサイドだけをみるのなら、「ファンタジー」でしかなくて。ファンタジーから抜ける時、次へのステップも開けるのかもしれません。

 いつもはっとさせられる言葉の数々、ありがとうございます。今日はハロウィン、長い夜になりそうですよ。そちらは週末ですね、佐々木さん、どうぞゆったりとお楽しみください!
 
>>Sasaki,Nobuo
November 1, 2014

 補足です。幸福と不幸に関する名言、出典が分かったので記しておきます。内容の記憶もあいまいでした。

》「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。『アンナ・カレーニナ』《

 あと、夢についてですが、我々が目が覚めたときに覚えている夢は、目覚めの数秒前に見たものだけで、寝ている間には膨大な夢を見ているのだけれど、起きたときにはすっかり忘れているのだという話も、どこかで聞きました。人間の脳はしっかりしているようで、いろんなとこで欺かれていることも多いようですね。「脳自身の過ちは脳自身では気づけない」といったことは心しておくべきかも知れません。
 
>>長岡真意子
November 2, 2014

 佐々木さん、ありがとうございます!

 『アンナ・カレーニナ』からだったんですね。違う作品になりますが、トルストイの『懺悔』は、私自身学生時代何度も読み直し、心の奥底に響き続けていた作品なんです。最後は「夢」の話で終わっているのですが、とてつもない高い場所でチューブのようなものに横たわっていて、それでも、「大丈夫」だということを覚えておく、というような内容だったと思います。頭ではちんぷんかんぷんだったこの「大丈夫」という感覚が、年月を経、以前よりは感じられるようになったかなと。

 マインドフルネスも、この「大丈夫」といった「戻る場」のようなものを、観念ではなく、呼吸にフォーカスしたりと、感覚として身体化していく作業なのかなとも思っています。

 夢は私自身よく見て覚えている方だと思うのですが、確かに、膨大に見ている中のほんの一部分なのかもしれません。

 「人間の脳はしっかりしているようで、いろんなとこで欺かれていることも多い」

 覚えておきます。点を全体化してしまう粗さ、見つめていきたいです。

 「脳自身の過ちは脳自身では気づけない」

 実感しています。ちょこちょこ軌道修正するには、身体感覚が有効だと。
いつもありがとうございます! 日曜日、お楽しみくださいね。 感謝を込めて。

【マインドフルネス】02.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】02.長岡真意子氏との応答

マインドフルネス
2014/09/22「子育て幻想、幸せ感の平均値と瞬間瞬間の幸せ感と」
http://kosodatekyua.com/2014/09/kosodatenitsuitenogensou-shiawasekannoheikinchitosyunkansyunnkanoshiawasekann/

>>Sasaki,Nobuo
September 28, 2014 - 1:27 am | Permalink

 このグラフはおもしろいですね。思わず、私ぐらいの年齢の日本人で、仕事人間として子育ては妻まかせ、サラリーマンを定年まで続けた男性のグラフを想定しました。その想像される単純さから、このグラフに重ねると皮肉な結果が出そうで笑ってしまった。

 それはさておき、思春期・青年期の振幅は分るとして、子育て期にも大きく振れるのは盲点でした。青年期といえば、大人の仲間入りをして、本格的に「他者」と向かい合うことになる時期。ことに恋愛などは、異性(でなくても良いが)という最も身近な他者経験の場でもあります。いささか無理があるでしょうが、子育て期の子供というのも、母親にとって「最も身近な他者」とは言えないでしょうか。

 「最も身近な他者」という語義矛盾とも思える状況こそ、まさに「幸せ感の振れ幅」を大きくするものではないかと思います。家族という枠組みの中では他者でも他人でもないわけですが、それが一対一で母親と子供が向かい合うとき、そこでは他者としての顔をもちます。なんといっても、子供の重要な仕事の一つは、そういう親から独り立ちして、他者として独立していくことでしょう。その過程での苛立ちが、反抗期として表れるんじゃないでしょうか。親にしても、独り立ちさせるのが目的であっても、一方でそうさせたくないというアンビバレントな情況があるはずです。

 子供は親に対して、一方で甘えるかと思えば、反発したりするでしょう。他方で、親がついうっかりしてしまいそうなのが、子供をダブルバインドにするような言動でしょうか。独り立ちさせようと、自分ひとりでやりなさいと突き放しながら、あれやこれや心配して構いすぎるような状況とかですね。このような「最も身近な他者」と日々直面していれば、それこそ幸福感の振幅が極大するのも無理はないと思われます。

 前に触れたと思いますが、今、さる学者さんの日記をデジタル化する作業をしてます。その人の訳書に、マイスター・エックハルト『神の慰めの書』というのがあるのですが、その中に次のような一節があります。

「神は在(いま)す。神は私よりも私に近く在す」

 この「神」と「私」の位置関係はどうなってるんでしょうか、分らないですね(笑) この「神」の代りに先ほどの「他者」である、恋愛の相手であったり子育て中の子供を入れてみればどうなるでしょうか。これが私のイメージする「最も身近な他者」との関係構造です。目の前で勝手な振る舞いをして迷惑者なのに、「私より大事」な恋人であったり子供であったり、と。

 とまあ、勝手な想像をしてました。冒頭に述べた男性モデルでは、このような他者との遭遇をまったく無しに定年まで過ごしてしまう状況を想定しました。シンプルそのままで定年まで過ごしてしまい、気が付いたら何も残ってなかったというモデルを思い浮かべて苦笑してました。それに比して、女性の人生は見事に分節されている、という言葉をそのまま現したグラフだと思いましたです。でわまた。

>>長岡真意子
September 30, 2014 - 2:47 am | Permalink
佐々木さん、コメントありがとうございます!

 「最も身近な他者」との体験が、ダイナミックな幸福感の振れ幅に関係しているというの、なるほど!です。思春期は「性」を意識することで、またそれまで自分との境界が曖昧でもあった親をより「他者」として意識することで、「最も身近な他者」との葛藤が激しくなる時期。

 そして親となり体験する、子供との関係。「自分の一部のようであり、自分とは全く違う存在」と、日々四六時中密に過ごす子育て期。

 「過干渉」と「ほったらかし」の間を行き来しながら、何とかちょうどいい着地点はないものかと模索し。自立独立をゴールに据えながらも、「自分の一部」のような錯覚から、ついつい自分の枠内に囲ったままにしておきたいと動いていたり。子育てはまさしく「アンビバレントな情況」の中での試行錯誤です。

 マイスター・エックハルト氏の、「私より私に近い存在」と「神」について表した言葉を、思春期の恋愛対象や、子供に置き換えてみる。すると、なぜこうも幸福感がアップダウンするのかと、見えてくるようでもあるというの、とてもストンと納得しました。

 「自分自身より大事な存在が、目の前で迷惑なこともしてくれる」、まさしく! そこに深く自身の存在がえぐられるような落ち込みも体験し、同時に、自身を超え大切に感じるものがあるという深い部分での喜びも味わうことになる。

 「自分自身より大事な存在」、恋愛対象や子供の先に、神学者エックハルト氏の言う「神」といった超越した存在があるなら、「救い」ですね。そうならば、そこに行き着く前で、アップダウンのジェットコースターに乗っている毎日も、ぎゃーと叫びながらも、楽しんでいる自身を見出せるのかもしれません。

 この「子育て期を体験せず定年までサラリーマンの父親」というの、年月と共に変化してきていますね。こちら米国でも、父親が子供と過ごす平均時間は、1965年では一週間に2.6時間だったのに対し、2000年には6.5時間に、専業主夫(stay-at-home father)も十年前に比べると三倍に増えているなんていうデータなどあります(少し前にまとめたものを見返してました)。七十年代には、「オムツなど替えたことがない」という男性がほとんどだったのに対し、今では「オムツを替えたことがない」というのは恥ずかしいという認識が、父親の間にあるとか。

 私自身、父と共に家族で団欒といった思い出は、本当に少ししかありません。それでも成人して随分してから、「直接的に育児に関わらずともどれほど家族のことを思っていたか」というような言葉を父から聞き、はっとさせられたことがあります。密に過ごすということはなかったものの、「自分自身より大事な存在」、そこに確かに「会社」や「組織」の他に、「家族」というものがあった、ただ表され方が違ったんだなと。

 これからは、ますますパートナー共に子育て期のアップダウンを体験するカップルが増えていくのでしょうね。母より父のみでということもあるのでしょう。
佐々木さんのコメントに、子育ての日常の中で、また違った角度から様々眺める機会をいただいています。ありがとうございます。こちらも月曜日始まりました。当たり一面黄金色。まぶしーです。どうぞよき日々をお過ごしください!

>>Sasaki,Nobuo
September 30, 2014 - 5:10 am | Permalink

 コメントへのお返事を見て、これまでの話題との関連を考えてみました。畢竟「最も身近な他者」との葛藤というのは、前回の話題にてらすと、小我と大我との間を行き来する体験に相当するのではないかと思いました。

>>長岡真意子
October 1, 2014 - 2:04 am | Permalink

 他者との葛藤を通し、自分の枠を超え、より大きな自分を見出していく、そう志向していけたら。葛藤の中で、とてつもなく小さな自分、エゴにまみれた自分と付き合いつつ。そんなことを思います。ありがとうございます。佐々木さん、どうぞ今日も良い日をお過ごしください!

【マインドフルネス】01.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】01.長岡真意子氏との応答

(注記)長岡真意子さん主催『ユア子育てスタジオ』より、彼女とのコメント応答を転載させていただきます。五人の子供さんを育てながら、子育ての実践と探求のブログ連載記事です。

 その忙しい子育て生活の中で、自分や子供の健全な心の維持の方法を「マインドフルネス」というメソッドに見つけられているようです。メインの子育てには私にコメントする余地がないのですが、マインドフルネスに関しては、私にも思い当たることが多く何回かコメントさせていただきました。

 やりとりは昨年の今ごろのことですが、ブログでは奥に沈んでしまっているので、備忘録を兼ねてこちらに掲載します。本文については、冒頭にリンクを置きますので、そちらを参照してください。

 「マインドフルネス」については、記事の中で展開されているので自然に理解できるはずですが、日本の禅の考え方にも通じるところが多く、むしろ日本人には解りやすいメソッドではないかと思います。私個人としては、若い時の「鬱病」との対応で非常に役立ったと思っており、その時の体験などをコメントしています。

 なお下記『オールアバウト』でも「子育てガイド」として、実践ガイドを展開されております。
http://allabout.co.jp/gm/gp/1648/

**********
2014/09/13「誰もが手に入れられる幸せへの鍵? マインドを整える習慣」
http://kosodatekyua.com/2014/09/darenidemoteniirerarerushiawasehenokagi/

>>Sasaki,Nobuo
September 17, 2014 - 3:22 pm | Permalink

 マインドフルネスという言葉は初見ですが、おもえば若い時期に鬱状態を経験して以来、ひたすらこういう思考を追い続けていたと思われます。押入れの暗闇にこもって、鬱固有の超ネガティブ思考でもがいてた時、なんとかしようと手に入れたのが、「森田療法」という大正時代に開発されたという古くさい精神療法の本。

 あれもこれも自分が悪いせいだ、という根拠も無い自責の念から逃れようとあがくのだが、より蟻地獄にはまって行く心境の時に、森田の説く「あるがままの自分を認めよ」という言葉に、ほっとする思いがした。まさしく、「ワンダーするマインド」を放置して「プリゼントにフォーカスせよ」ということです。森田博士自身の参禅体験から編み出した療法だということであった。もちろん欝は器質的な病気でもあるので、心の持ち方だけでは快癒せず薬や物理療法も併用したが、精神的な支えになったのは確かです。

 その流れから、禅仏教にはまる時期があった。「大法輪」という佛教雑誌を講読して、部屋で線香たいて座禅の真似事。しかし知れば知るほど、自分に「さとり」なんかとうてい無理という気持ちの方が強くなった。そこであっさり全部おっぽり出して、その次がニーチェだったのです(笑)

 勝手よみのニーチェだから詳細は省きますが、ようするに「勝手気ままにふるまえ!」というメッセージをニーチェから受け取ったわけです。我がままを通せば世間から排除されるという不安はぬぐえず、自然のままに出来るわけも無く、当初は世の中の当たり前に反発するという、意志的な方法でしたが、やっているうちに、思ったほどのバッシングもなく、むしろ面白い人間として相手にされる方が多くなった。

 それまでは、自分でも間違いなく、何の興味ももたらさない人間だと思っていたので、これは痛快な出来事でした。「我がまま」と「自分勝手」とは似て非なる部分があると思っています。我がままは、他人の我がままを許せないのですが、自分勝手は、他人の自分勝手も、しょうがないなあとおおらかに受容れてしまいます(笑)

 つまり、自在にマインドはワンダーしながら、必要とあらばいつでもプリゼントにフォーカスするという手法を、なんとなくデタラメに実践していたわけですね。そんなわけで、いまでは歳をとればとるほど、なんとなく日常を楽しむようになってます。さすがに霞を食べて生きるわけには行きませんが、必要な分だけあれば十分、雲の上で寝ころぶ久米の仙人みたいに、たまには地上の女の太ももを見て落っこちたりするのもいいかな、といった心境で過ごしてます(笑)

 女性は、自分の心と身体の関係が密接で、さらには子育てと、いやでもプリゼントに向き合わされる機会が多いでしょうね。そのぶん、心身のストレスも多いと思います。女性の生涯は、昆虫の「変体」のように、その時期ごとに分節されていると、とある女性が言いました。その状況に合せた耐性を得るための必然なんでしょうね。これからも大変でしょうが、それなりに脱皮分節しながらプリゼントしていってください。

>>長岡真意子
September 18, 2014 - 10:39 am | Permalink

 佐々木さん、コメントありがとうございます!
私が佐々木さんにお会いした二十年ほど前とは、この「超人」ニーチェ時代を謳歌されてからのことだったんですね。当時、様々なことを教えていただき感謝しています。

 「自分勝手」というのは、「我がまま」とは違い、自身と他者の「あるがまま(プリゼント)」を受け入れることにもなり、「自分勝手」に振舞ってみることで、「自在にマインドはワンダーしながら、必要とあらばいつでもプリゼントにフォーカスを実践していたとも言えるかもしれない」というの、なるほどーと思いました。

 「バッシングより、かえって面白いと相手にされた」というの、まさしく!と佐々木さんの当時の様子を思い出します。
そこに至るまでの、「森田療法」や仏教雑誌を読むなど禅仏教にはまられたという若かりし頃の様子、佐々木さんが、そういうところを通られているとは全く知りませんでした。佐々木さんの奥深さの所以を見させていただいた気持ちです。シェアしてくださってありがとうございます。

 米国のマインドフルネスの流れというのは、いわゆる「さとり」とも呼ばれることのある「プリゼントにフォーカスした状態」というのが、「ヒトの心身にとってヘルシーである」という科学的研究に基づいているようです。

 「さとり」というと、どこか遥か遠いところにあるようで、長い間修行を積んだ特別な者のみがたどり着ける境地と感じますが、もし「さとり」を「プリゼントにフォーカスした状態」とするならば、五感や呼吸にフォーカスしてマインドワンダーにはまり込んでない状態に自ら整えるということは、誰もがちょっと集中すればできてしまう。それこそ仕事の合間や台所で料理中やの「リフレッシュメント」として用いていきましょうよというのが、マインドフルネスでもあると感じています。

 宗教的で深遠に感じる「さとり」の世界が、医療機関やカウンセリングの場などで、「よりヘルシーになるために有効」と合理的に切り取られ用いられ。二分間瞑想でプリゼントにフォーカスし、今日も朝からすっきりクリエイティブに仕事に向かいましょうと、現代の流れを引っ張る様々な企業(グーグルやインテルや)が、雇用者にマインドフルネストレーニングを用いていたりもする。

 科学的に効果が証明されたのなら、どんどん使ってみましょうという欧米。対し日本では、やはり長い間歴史を持つ禅思想や「さとり」や「解脱」といった概念が根付いているので、なかなかこう「ポップ」にはいかないかもしれません。

 「このプリゼントにフォーカスすることで心身ともにヘルシーになる」についての科学的データは多くあり(トレーニングを経て何人の○○な症状が何パーセント改善といったもの)、瞑想時の脳の仕組みへの変化などの研究もありますが、ではなぜそうなるのか?
「プリゼントにフォーカスした状態が心身ともにヘルシー」というところまでは、エビデンスが多くあり、それでも後の「ではどうしてか?」の説明部分は、個人的な体験を通した言葉の問題ですね。

 アインシュタインの「ヒトは自身の体験や思考や感情、それは意識の錯覚(optical delusion)のようなものなのだけれど、それらを通し、全体から隔たれている」という言葉などを用いて説明されているのを見かけたりします。「プリゼントにフォーカスした状態」というのは、この「意識の錯覚」から抜け、全体を感じている状態であると。そこにヒト自身のヒーリングパワーもあり、深い安心感を得るソースがあると。

 この「ではなぜそうなるのか?」という問いへは、今のところ「不可知な領域」であるため、こうした宗教的な説明しかできない。ここから、「なんだかとっつきにくい」なども生まれるのでしょうね。

 実践体験を通し私自身は、「ソースに至る深い安心感」という感覚、とても納得しています。

 もらいコメントでとめどなくつらづらと思いを綴ってしまいました。

 「女性の生涯は、昆虫の変体のように、その時期ごとに分節されている」、そうかもしれません。卵から幼虫、さなぎ、成虫。子供が成人するまでというのは、母親はさなぎ期間なのかもしれませんね。ぱーと自ら開くわけでもなく、それでも同時に内側でこつこつと自ら成虫となる準備を続けられる期間でもあり。5人が成人するまで・・・長いですけどね。(笑)

 読んで下さりありがとうございます。佐々木さん、今日もよい夢を!

>>Sasaki,Nobuo
September 18, 2014 - 5:33 pm | Permalink

 「全体から隔たれている」という状況を、佛教では「大我(たいが)」と「小我(しょうが)」という言葉で説明してましたね。われわれが普通に思っている「エゴ・自我」といったものは小我とされます。「全体から隔たれている我れ」ですね。そのエゴを突き詰めていくと、必ず他者との葛藤が現われます。それを調整するのが宗教であったり法(law)であったりするんですが、どちらもなかなか馴染めません。

 そこで佛教では大我というのを持ち出してきます。大我とは、他人も自己も一緒に飲み込んだような我れであって、世界全体とつながっている我れなんですね。仏性とか悟りとかいろんな言葉で言われますが、はてどんなものか経験してない限りさっぱりわからない。もっと単純に、狭いケチな利害に捉われてる我れ(小我)をおっぽり出して、自分勝手にやって出てくるものにその都度対応すればいいじゃないか、と考えるようになりました。固定的な善や悪などないし、その都度のより善なことを選ぶ感性の方が大事だと思いました。

 カッコよく言えば、その都度の今あるがままに同期するってことでしかないんですねw そのときに素晴らしい大我が顕現してくる。思っているよりもっとすごい自分があるってことです。これは事前に説明する方法がないし、その「自分」を信じて遂行していくしかないでしょう。おっしゃるように、実践体験を通し「ソースに至る深い安心感」という感覚を得るしかないでのしょうね。

 もちろん、その結果をトレースすれば、それなりのエビデンスは得られると思います。とまあ、こんなことを考えてたりします。

>>Sasaki,Nobuo
September 18, 2014 - 9:32 pm | Permalink

 日本語サイトでもマインドフルネスの紹介記事が出始めました。ビジネスユースの初歩的紹介のようですが、ご参考までに。
http://blogos.com/article/94737/?p=1

>>長岡真意子
September 19, 2014 - 11:12 pm | Permalink

 佐々木さん、コメントありがとうございます!

 「真我」と子供に名づけた知り合いがいたのを思い出しました。「真我」は「大我」と同じような位置づけと聞きます。仏教では、「世界全体と繋がっている我」こそが、真の我ということになるのですね。

 「小我であるエゴを突き詰めると、他者との葛藤が現れる」、それでも宗教や法がそれらを解決するかというとそうもいかない、そこで仏教では、「大我」という全体と調和した存在が、己の内に本来存在するという世界観が持ち出されてくると。

 一人一人の内に、個人を超え全体と調和する場が本来備わっているという世界観は、私自身感覚的にとてもしっくりきます。古代から様々な宗教のコアにある教えですね。
過去未来と貫く「絶対的な善悪」などなくて、あったとしたら、それは確かに、観念的な思考の中のこと。今瞬間その都度の善による、それが「あるがままに同期すること」でもあり、そこに自分でもびっくりするようなびっぐな大我が現れると。

 この「一寸先の分からなさ」に不安感が生まれもするのですが、確かに、そこに「ソースに至る深い安心感」があるのならば、前にも後ろにも足場の見えない瞬間へと、飛び立っていけますね。

 とても深い感覚を、言葉にしていただいた気持ちです。

 blogosの記事の方、読ませていただきました。同じ筆者の方が、「米財界で禅が主流になった?教育、ビジネス、社会を変える「マインドフルネス革命」の兆し」 Blogos http://blogos.com/article/94073/というようなものも少し前に書かれているのですね。次のこちらでの記事にも少し紹介させていただきました。

 こうして一気にブームのようになってしまうと、すたれるのも一気になってしまうのではないかと思ったりもしますが、マインドフルネス自体は長い歴史を持つもの、波の満ち引きに関係なく、進み続ける人々の群れがあるのでしょうね。
ありがとうございます! 佐々木さん、週末、ゆったりとお楽しみくださいね。

【マインドフルネス】00.長岡真意子氏との応答

【マインドフルネス】00.長岡真意子氏との応答

 「マインドフルネス」という言葉が、ぽつぽつと散見されるようになった。グーグルなどの先端企業が、社員のストレス解消やリラクゼーションに推奨するなどから評判を呼び、日本でもビジネス書籍などから紹介されるようになっている。

 ただし「マインドフルネス」は、本来はビジネス方面だけを目的としたものではなく、むしろ日常生活に瞑想法や呼吸術を採り入れ、生活そのものを捉えなおす思考法であり、ストレスや悩みから解放される生活術でもある。

 こう書くと、ある種の宗教性を感じるだろうし、マインドコントロールというカルトが使う手法を連想する人もいるかもしれない。実際、「マインドフルネス」は仏教、中でも禅仏教がベースになっているとされる。

 「マインドフルネス」という言葉が、ぽつぽつと散見されるようになった。グーグルなどの先端企業が、社員のストレス解消やリラクゼーションに推奨するなどから評判を呼び、日本でもビジネス書籍などから紹介されるようになっている。

 ただし「マインドフルネス」は、本来はビジネス方面だけを目的としたものではなく、むしろ日常生活に瞑想法や呼吸術を採り入れ、生活そのものを捉えなおす思考法であり、ストレスや悩みから解放される生活術でもある。

 そこから、呼吸法・瞑想法などの手法と、あるがままの自身を受容れるという考え方を受けつぎ、一方で、教団や経典などの宗教性を徹底的に取り去って、科学的なデータ検証でその成果を確認されつつあるものである。

 下記リンクは、「マインドフルネス」でアマゾン検索した結果であって、私自身はどれも読んでいないし、どれか特定のものを推奨するわけでもない。実際「マインドフルネス」を実践したこともないのであるが、これまでに私自身が考えて来た思考法、生き方にピッタリのものだったので興味をもったわけである。そのあたりは、長くなるので次項で書いてみたい。
https://www.amazon.co.jp/s/?ie=UTF8&keywords=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9&tag=googhydr-22&index=aps&jp-ad-ap=0&hvadid=82201571927&hvpos=1o1&hvnetw=g&hvrand=2118023228705521813&hvpone=&hvptwo=&hvqmt=e&hvdev=c&hvdvcmdl=&hvlocint=&hvlocphy=9053298&hvtargid=kwd-2061642182&ref=pd_sl_4u0gmgbw0m_e

 高校三年生になるころ鬱状態におちいり、家に引きこもったことがある。その時には物理療法などで回復したのだが、さらに大学生になってから再度、鬱病になった。通院治療を受けながらも、自身でもなんとかしようと書籍をあさったりした。そこで出会ったのが、森田正馬博士著『神経衰弱及強迫観念の根治法』(1958年刊)という書籍で、なんと旧漢字で印刷されている。

 その書籍で「森田療法」なるものの存在を知る。その考え方を一言で示せば「自身のあるがままを認めよ」ということであった。そしてその思考法は、森田博士の参禅体験からえられたものであったという。そこから私は、禅宗に関心を持ち、座禅会に参加するなど禅修行の真似事などもするようになった。

 当時は「鬱病」の明確な規定もなく、単に「神経衰弱」とか呼ばれていた。この本も鬱病そのものを対象にしたものではなかったが、不安神経症なども併発していたので、「あるがまま」の発想は大いに参考になった。そしてその思考こそ、仏教ないしは禅仏教の本質を為す考え方でもあった。

 小さいころから自意識過剰に悩まされた。みんなに好かれたくて他人に合わせようとするのだが、心の内ではエゴがうごめいて、それは当然相手にも分かる。いまから思うと、自己中心のうざい奴と思われていたに違いない。仏教では、そのように表層でただよう狭い自意識を「小我(しょうが)」と呼ぶ。

 一方で、仏教では人間の底にある本質には、みんなと繋がり合っている素晴らしい自分自身があるとする。それを「大我(たいが)」と呼ぶが、通常は小我に被われて現れて来ない。それがエゴとエゴのぶつかり合いの世界で、それぞれがストレスや悩みに取りつかれている世界でもある。

 そのような小我を取り去り、大我を出現させるために、禅宗では禅修行という伝統手法が用意されている。そして修業を積み、阿闍梨などと呼ばれ「悟り」を開いた人とされる。それを「仏」と呼ぶのであり、死んであれこれ悩まなくなった死人を「ほとけさん」と呼ぶのも、ここに一理はあるわけだ。

 しかし、そんな大層な修行生活を凡人が送るわけにも行かない。そのように神格化された「さとり」などに、今はこだわる必要はない。つまるところ、一つのことにこだわり、意識が一カ所に拘泥して硬直化することから、すべての問題が生じているのである。

 鴨長明「方丈記」の有名な冒頭に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とあるように、意識の中を様々な現象が移ろいすぎてゆくが、意識そのものは厳然として流れている、そのような状態が自在自我とでも言うもので、自由奔放に振る舞いながら世間を楽しむことができる。それが「さとり」だと考えれば良いのではないか。

 そこで私は仏教思想から離れた。漱石の「自分本位」を読み、ニーチェの「力への意志」を齧ったりした。それまで、自分自身を排除しようとしていたのだが、逆に、自分自身を前面に出すことを考えるようになった。自我を取り去るのではなくて、自我をより強固にしてステップアップするのだ。

 そうやって、私は徐々にではあるが、自分の言いたいことを言い、自分勝手に振る舞うようになった。最初のうちは、世間から排除されるのかと恐れたが、やってみると何のことはない、かえって世間に受け入れられるようになった。一つの事にこだわりそれに固執し続けるのではなく、その時その時次つぎと関心は移り変わってゆく。子供がオモチャをとり合うように、気まぐれな張り合いはコロコロ変わってゆく。それはいわば、子犬がじゃれ合ってるようなものだ。

 つまるところ、「小我」を取り去って「大我」に至るのではなく、「小我」を気ままに放置して自在に流れさせることによって、一つの事にこだわり続けない自在な流れが現れる。それが、「大我」であったというわけだ。森田博士の言う「あるがままを認めよ」というのは、そういうことであったのかと気が付いた。そのようなことに気が付きだしてからは、これということが無くても、好き勝手に振る舞いながら、歳を経るにしたがって日常が楽しくって仕方がない。

 そういう状況になってから、「マインドフルネス」という言葉と出会った。したがって、マインドフルネスを実行しているという意識は全くない。だが長年、我流でやってきたことが、まさに合理的科学的に実践する方法がそこにあったということである。

 マインドフルネスと出会ったのは、二十年以上前のネットでの知人、長岡真意子氏からであった。ひょんなことから二十年ぶりに、彼女のネットでの活動を知った。彼女は現在、チリ人の夫と5人の子供とともにアメリカで生活しているという。そして5人の子育てをしながら、子育て論を展開している。出産や子育ての過程で、さまざまな困難にぶち当り、そこで「マインドフルネス」と出会って切り抜け、その実践を子育てにも生かしているということである。

*「ユア子育てスタジオ」>http://kosodatekyua.com/profile/
 数年前に「ユア・スタジオ」のコメント欄での彼女との応答は、私のブログに転載してある。お互いの体験に即したマインドフルネス理解は、このブログを読んでもらうのがよいと思われる。
*ブログ「なにさま日記」>http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20151113