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XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】11.「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】11.XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】11.「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」


 最近のSNSでは「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」という言葉が散見される。そのようなテーマで語り合われる場さえ形成されている。「ノスタルジー」は「過去を懐かしむ感情(郷愁・切なさ)」に焦点を当てた言葉で、「レトロ」は「古くて懐かしい雰囲気やデザイン(スタイル)」そのものを指す。

 つまり、ノスタルジーは「心の内面的な感覚」、レトロは「見た目の特徴」というだけで、共通の対象を指している。ここでは、その個別の分野に具体的に当たって、その「内実」にせまってみたい。


昭和ノスタルジーは、1950〜80年代の高度成長期や生活文化を懐かしむ文化で、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』やレトロアイテム(カセット、駄菓子、純喫茶)を通じてブームとなっています。古き良き時代への憧れや「エモい」感覚から、平成・令和世代にも支持され、モノを大切にする精神や温かい人間関係が再評価されています。 

昭和ノスタルジーが愛される理由・要素
レトロブーム(“かわいい”“エモい”): カラフルな食器、純喫茶、フィルムカメラ、駄菓子など、若い世代にとっては新鮮でオシャレな「レトロ」として受容されています。
「古き良き」への憧れ: 平成・令和世代には「モノを大切にする」「シェアする」「周りにやさしい」といった、現代に不足しがちな温かい人間関係や価値観が理想的に映っています。
心安らぐ風景: 昭和の街並みや家族の団らん、地域との繋がり(近所付き合い)が、現代の殺伐とした人間関係へのカウンターとして求められています。
メディアと日常の融合: 『ALWAYS 三丁目の夕日』などの映像作品、昭和歌謡、昭和風の居酒屋など、五感で感じるノスタルジーがブームを牽引しています。 

代表的な昭和ノスタルジーのアイテム・場所
生活雑貨: 花柄の食器、ポータブルカセットプレーヤー、インスタントカメラ、黒電話。
食・場所: 駄菓子屋バー、昭和喫茶、給食食堂、銭湯、スナック。
乗り物・技術: 3輪自動車、ラジオ、白黒テレビ、フィルムカメラ。 

昭和ノスタルジーは「懐かしさ」という感情をメディアやマーケティングがどう作り上げたか、という視点でも研究されています(高野光平著『昭和ノスタルジー解体』など)。 

ノスタルジーとレトロの違いは何ですか?
AI による概要
ノスタルジックは「過去を懐かしむ感情(郷愁・切なさ)」に焦点を当てた言葉で、レトロは「古くて懐かしい雰囲気やデザイン(スタイル)」そのものを指す言葉です。ノスタルジックは心の内面的な感覚、レトロは見た目の特徴という点で異なります。 
1. ノスタルジック (Nostalgic)
意味: 過ぎ去った時間や故郷を懐かしむ、切ない気持ち(郷愁)。
特徴: 心の動き、感情的、個人的な思い出。
使い方: 「夕暮れの街並みにノスタルジックな気分に浸る」「ノスタルジックなメロディー」。 
2. レトロ (Retro)
意味: 復古調。過去のスタイルやデザインを懐かしく好ましく思う様子。
特徴: スタイルやデザインの分類、見た目、形、感情は伴わなくても良い。
使い方: 「レトロな喫茶店」「レトロファッション」「古着(レトロな服)」。 

特徴 ノスタルジック レトロ
焦点 感情・感覚(懐かしさ、切なさ) 見た目・様式(古風なデザイン)
主体 心の動き(内面) スタイル、アイテム(外面)
ニュアンス 郷愁、感傷的 懐かしい、古風、おしゃれ

その空間にいて「寂しさや懐かしさ」を感じたら:「ノスタルジックな場所」
その空間の「古い家具やデザイン」がおしゃれなら:「レトロな場所」
レトロなものが、人々をノスタルジックな気持ちにさせるという関係性で使われることも多いです。 

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2.昭和時代の概要
昭和時代は1926年から1989年までの64年間であり、特に第二次世界大戦後の復興と高度経済成長が中心的な出来事でした。
この時期、日本は様々な社会、経済、文化的な変革を経験し、工業化と都市化が急速に進展しました。
戦後の混乱を経て、人々は新しい生活様式を受け入れ、国全体として豊かさを追求する方向へと進みました。

昭和30年代は
「シンプルライフ」とも呼ばれ、家庭へのテレビや冷蔵庫といった電化製品の普及が著しく、人々の生活スタイルに革命をもたらしました。
これにより、情報の取得が容易になり、食生活の質も向上しました。
シンプルな生活を楽しむ価値観が根づき、都市部では人々がより効率的に生活を送るようになりました。

昭和40年代に入ると、日本は世界的な経済力を持つ国としての地位を確立しました。
この時期は、バブル経済の範囲内でさらなる経済成長が見られ、特徴的には消費文化が発展し、贅沢品の需要が増加しました。
新たな技術革新や、効率的な生産体制が構築され、国民の生活水準を大きく向上させました。

▶参考記事:昭和リバイバル:日本の懐かしい昔の魅力を探る
昭和リバイバル:日本の懐かしい昔の魅力を探る
1926年から1989年にかけての昭和時代は、日本の黄金時代としばしば称されます。この期間は昭和天皇の在位期間全体にあたり

しかし、昭和時代後半に至ると、バブル崩壊が始まり、経済的な停滞期に突入しました。
この厳しい状況においても、当時に培われた技術革新や経済戦略は、その後の産業のイノベーションや発展に寄与する重要な基盤となりました。
経済の停滞が人々の生活にも影響を及ぼしましたが、その一方で新たなアイデアや改革へとつながる契機ともなりました。

昭和時代はまた、政府による社会保障制度の整備が進んだ時期でもありました。
これにより、医療、教育、福祉の分野で公的サービスが充実し、国民の生活を支える福祉国家の基盤が設けられました。
現在の日本社会における福祉制度の多くは、この昭和時代に築かれた成果であり、今もなお社会の重要な支柱として機能しています。

3.社会的規範の特質
昭和時代の日本は「事前規制型社会」として知られ、個人の自由よりも社会的規範やルールが重視されました。
この時代、あらかじめ定められた行動様式や道徳基準は、個人に対して強い影響力を持ち、規制の中で個々の行動が形成されました。
これにより、昭和の社会は個々の選択肢が狭められる傾向があり、特に集団内での適応が求められました。

男女の役割分担は昭和時代の社会規範の中でも特に顕著でした。
男性は主に家庭を支える働き手として位置づけられ、女性は家庭を守る存在とされることが当たり前の価値観でした。
このような性別による役割が根強く残っている背景には、家族や職場における社会的期待が影響しており、これが現在においても依然としてその名残を感じさせる要因となっています。

昭和時代の職場環境は、終身雇用制度と年功序列に基づくものであり、これが集団主義を強調する文化を生み出しました。
個々の従業員は、企業や社会全体の調和を保つために、自らの意見や発言を控えがちであり、これが職場におけるコミュニケーションの仕方にも影響を与えました。
集団の和を重んじる風潮が浸透していたため、個々の自由な意見表明は後回しにされることが多かったのです。

昭和時代の職場では、飲み会などの社交イベントが重要視され、これが同調圧力を生む一因ともなりました。
上司や同僚とともに過ごす時間を通じて、組織の一員としての意識や忠誠心を育むことが求められ、時には業務以外の時間が仕事の一部とみなされることもありました。
このような社交文化は、個人よりも集団の利益が優先される風潮を助長していました。

現代のリベラルな価値観と対比すると、昭和の社会規範は非常に保守的でした。
規制のなかで形成された社会の陰陽のバランスは、個人の自由を抑制しつつも、一定の安定を生む要因ともなっていました。
このような価値観は、急激な社会変化に直面する現代において、どのように克服され、適応されているのかを考察する必要があります。

4.昭和の文化価値
昭和時代は、日本が戦後復興から高度経済成長を経て、多様な文化が花開いた時代として位置づけられます。

この激動の時期には、映画や音楽、アートが急速に発展し、全国的なエンターテインメントが盛んになりました。

人々は新しい文化に触れ、生活スタイルも豊かになり、特に1950年代から1970年代にかけては、現代の基盤となる多くの文化が育まれました。

昭和時代の魅力:その特徴と文化を探る
このブログでは、昭和時代の特徴や魅力について、経済発展、文化変化、テクノロジー進歩、社会変革という観点から詳しく解説します

近年、昭和レトロのブームが様々な場面で顕在化しています。

昭和時代の映画やデザインの懐かしさが現代人に新しさを感じさせる要因となり、ファッションやインテリア、食文化に至るまで、当時の様式が再評価され熱い支持を受けています。
現代でも「昭和らしさ」がトレンドとなり、様々なメディアや商品でその影響を見て取ることができます。

昭和文化は、現代の若者世代にとって新しいアイデンティティ形成の一助となっています。
当時の歴史的事件や文化の特性を学ぶことで、自身のルーツや文化的背景を再認識し、共感を呼ぶ要素として機能しているのです。
このようなノスタルジーは、若者たちの価値観にも影響を与え、アイデンティティを多様化させる助けとなっています。

昭和の文化が再評価される中で、高品質さや独自性を重視する傾向が顕著になっています。
消費者は、現代の大量生産による画一化された商品の流行に対抗し、品質の高い昭和の商品に目を向けるようになりました。
このような流れは、持続可能性を意識した消費行動とも言え、昭和の価値観が現代に生かされていることを示しています。

昭和末期の建築物やデザインは、現代の世代によって再発見の対象となっています。
これらの遺産はレトロな価値観として評価され、保存や再生が求められています。
日本の近代史における独自の文脈から、昭和の建築やデザインは社会的記憶の一部として再評価され、文化的な資産としての重要性が増しています。

5.日常生活の風景
昭和30年代は、家電製品の普及によって家庭生活が大きく変容しました。
この時期、テレビや冷蔵庫、洗濯機が広まり、家事の負担が軽減されるとともに、日常生活が便利で快適なものとなりました。
一方で、電化製品の存在は生活の質を向上させると同時に、自然との共存という価値観も保持されていました。
これにより、家族は技術の進化を享受しつつ、自然の摂理を尊重する姿勢を示していました。

昭和30年代の主婦は、洗濯や料理などの家事をトライアルとエラーを繰り返しながら効率化に努めました。
特に、家電の普及により、洗濯機や炊飯器の利用が進む一方で、手間のかかる伝統的な家事も残されていました。
この時代の主婦たちは、限られた時間の中で家事と子育てを両立させるため、自ら工夫し、時には地域での助け合いが重要な役割を果たしていました。

また、割り箸の普及や調理用の簡易家電の進化は、家庭内での労働時間を著しく削減しました。
その結果、主婦たちは家事に費やす時間が減り、家族とのコミュニケーションや趣味を楽しむ余裕が生まれました。
このように、家電製品の進化は、単なる作業の効率化にとどまらず、家庭生活全体の質を向上させる要因となったのです。

家庭内ではテレビが中心的な娯楽とされ、家族団らんの象徴となりました。
夕食を共にしながら、家族全員が同じ番組を視聴する時間は、コミュニケーションの質を高め、一体感をもたらしました。
このようなテレビの影響は、家族の絆を深め、昭和の文化としての特異な価値を形成しました。

都市化が進む昭和30年代において、公共交通機関の発展は通勤時間を短縮し、都市部での生活が活発化しました。
特に、通勤することが一般的な社会構造になった結果、仕事と家庭の両立が求められるようになりました。
このように、昭和の社会は、経済成長に伴う時間や空間の利用方法の変化を反映しており、現代社会にも多くの影響を及ぼしています。

6.現代社会への影響
昭和時代には、終身雇用や年功序列が大きな価値観として根付いていましたが、現在ではそのモデルが変容しつつあります。
企業はグローバル化や技術革新の波にさらされ、従来の安定した雇用を提供することが難しくなっています。
そのため、フリーランスや転職といった新しい働き方が見直され、その柔軟性に注目が集まっています。
人々は、自らのキャリアをよりコントロールすることを選び、より良い働き方を模索しています。

昭和レトロの魅力は、デジタル社会の中でアナログの温もりを求める現代人に受け入れられています。
特に昭和のデザインやファッションは、そのシンプルさと独自の美しさが再評価され、懐かしさから新たな人気を博しています。
これにより、昭和の文化が現代のライフスタイルにもたらすインスピレーションを多くの若者が受け取り、再解釈しているのです。
このような流れは、昭和の価値観を重視する動きと相まって、アナログ的な感覚が新たな文化を生み出していることを示しています。

集団主義は昭和時代の特徴的な価値観であり、職場文化や家庭内でも重要な役割を果たしていました。
人々はしばしば「空気を読む」ことが求められ、自らを制限することが多かったのですが、現代では個人主義とのバランスを模索する動きが見られます。
この変化により、個々の声がより尊重される環境が形成され、自己表現の重要性が高まっています。
結果的に、職場においてもチームの中で個々の意見や感情が受け入れられるようになりつつあります。

現代のストレス社会では、昭和時代に根付いた伝統的な家庭のイメージが再評価されています。
多忙な生活の中で、家族とのつながりや穏やかさを求める人々が増加し、昭和時代の柔らかい人間関係が魅力として浮かび上がっています。
そのため、昭和の家庭文化はリラクゼーションや心の安らぎをもたらす要素として、現代の生活においても重要な位置を占めていると言えるでしょう。

昭和のエンターテイメントやファッションは現代のクリエイターたちにとって重要なインスピレーションの源となっています。
昭和に流行した漫画やアニメ、映画は、新たな作品のテーマやスタイルに影響を与え続けており、時代を超えた魅力を持っています。
このような文化の再評価は、過去の遺産を現代に繋ぎ、新たな文化創造の熱を生み出す重要な要素になっているのです。

7.昭和時代を再考する
昭和時代は、日本の近代化の礎を築いた特異な時期でした。
この期間(1926-1989)には、戦後の復興と経済成長が顕著で、国家の国際的地位を確立するための重要な教訓が多く残されています。
特に、戦後の社会改革や経済政策は、現在の社会システムに反映されています。
その後に続く時代における価値観の形成に寄与したとも言えるでしょう。

昭和の社会政策や経済システムは、現代の日本に多大な影響を及ぼしています。
特に戦後の高度経済成長期に導入された「日本型経営」という仕組みは、企業の運営スタイルを変革し、社会的期待や役割の見直しを促進しました。
この流れは、今でも企業文化や労働環境に色濃く残っており、持続可能な社会を目指す上での課題ともなっています。

昭和の文化的遺産は、単なる懐かしさを超えた重要な資源です。
例えば、昭和30年代から40年代にかけて普及した電化製品やライフスタイルは、現代の生活に多くの影響を与えています。
これらの遺産は、新しい価値観やアイデアのインスピレーションを生み出し、創造性あふれる社会の形成に寄与する可能性を持っています。
昭和時代の歴史を振り返ることで、私たちは現代社会の課題に対する洞察を得ることができます。

特に、社会における人々の繋がりや協力の重要性は、現代の孤立感や対立の解消に役立つ教訓を提供します。
この側面を探求することで、過去の価値観や生活様式から学び、今後の社会づくりに活かすことが可能なのです。

昭和文化のリバイバルは、単なるトレンドではなく、持続可能な未来を見据えた文化的資源と位置付けられています。
オリジナルの質の高さが評価され、現代のデザインやライフスタイルに再解釈されることで、地域社会の活性化や新たなビジネスモデルの創出にも貢献しています。
昭和ならではの価値観を再考することで、新たな社会の可能性を探ることができるのです。

昭和生まれの習慣や文化は、現代の日常生活に色濃く残っており、日本国民の多くがハマった沼だと、言えなくもないのではないでしょうか。
その証明が、この時代に登場した商品や習慣が、多くの人々に親しまれ、今でも現役で活躍している事実からも、判断可能だと考えられます。

例えば、インスタントラーメンやレトルト食品、お菓子などは、昭和の時代に登場し、現在でも、多くの家庭で、食卓に上っています。
これらの商品は、忙しい現代人にとって、手軽で、便利な、食事選択肢として位置づけられ、特に、働く世代に愛されています。

また、昭和生まれの代表的なスナック菓子や飲料も、今なお、変わらぬ味で、販売されており、世代を超えて、人気を博しています。

さらに、昭和時代に根付いた習慣としては、団らんの際の家庭内での食事や、友人とのお茶会などが挙げられます。
これらの習慣は、コミュニケーションの一環として、今でも、重要視されています。
様々な家庭で受け継がれ、時代を越えて、新しいカタチで続いているのです。

こうした背景から、昭和生まれの習慣や商品は、ただの懐かしさだけでなく、今の生活においても、重要な役割を果たしている(ハマった沼)と考えても、差支えないと言えないでしょうか。
また、こうした商品や習慣は、商業的成長も促進しており、昭和生まれの文化を、次世代に伝える役割も担っています。

最近の流行としては、昭和のレトロブームや、復刻版商品の人気があり、当時の風味やスタイルを再現した商品が、若い世代にも、受け入れられています。
これにより、昭和の文化が、新たな形で再評価され、現代の生活においても、重用され続けています。

■昭和生まれの習慣と現代の定番商品
1.概要
昭和の時代に培われた習慣は、今なお、多くの日本人に、受け継がれています。
特に、インスタントラーメンやレトルト食品といった便利な食品は、現代の多忙なライフスタイルにぴったりとマッチし、家庭の食卓を支えています。
また、お菓子や飲料といった昭和のヒット商品も再び注目され、消費者の心を掴んでいます。
昭和の名残は、生活の中の多くの「定番」として根強く存在し続けています。

具体的な商品に目を向けると、昭和生まれの名物お菓子が今でも多くのファンに選ばれています。
例えば、「エンゼルパイ」のような懐かしいお菓子は、昭和の子供たちにとって特別な存在で、今でも親しまれています。
昭和から続く製品は、その品質や味の良さから、世代を超えて多くの人々の生活になじんでいます。
このような商品は、単に食べ物としてだけでなく、文化的なアイコンともなっています。

昭和時代に作られた電化製品も、今なお家庭で使用されています。
その多くは、シンプルなデザインと堅牢な構造で、長持ちすることで知られています。
洗濯機や冷蔵庫といった基本的な家電は、時代を問わず利用されており、昭和の味わいを感じられる商品として、生活に溶け込んでいます。
また、これらの製品の多くは、現代のデジタル製品に取って代わられながらも、その核となる機能は変わらず、安定した人気を保ち続けています。

昭和の影響は、製品や食品にとどまらず、現代の消費文化にも大きく根付いています。
消費者は、昭和を思い起こさせる懐かしい商品に対して特別な愛着を持つことが多く、レトロ商品や昭和リバイバル商品が人気を集めています。
このような現象は、昭和生まれの商品が単なる懐かしさを超えて、現代のライフスタイルに新たな価値を提供していることを示しています。

昭和に流行した懐かしの青春ソング、アーティスト、アニメ・ゲームコンテンツなどに関連したコンサートやイベントへの参加に積極的

2.昭和生まれの代表商品
インスタントラーメンは、1960年代に、日本で初めて販売されて以来、食文化の一部となりました。
手軽に調理できる特性から、ビジネスパーソンや学生を中心に、多様な層に支持されています。
その後も、具材のバリエーションや味付けの多様性が進化し、国内外での販売も拡大。
特に、今や海外でも、
「ラーメン」の人気は根強く、即席食品としての定番として、広く愛用されています。

1961年に、森永製菓によって発売されたエンゼルパイは、当初から、多くの消費者の心をつかみました。
チョコがけのビスケットに、マシュマロを挟んだこのお菓子は、当時は、贅沢な存在で、子供たちにとって、特別な、ご褒美でした。
時が経つにつれ、世代を超えて愛される存在となり、記憶に残るお菓子の一つとして、今なお、広く親しまれています。

1975年に登場した明治の「きのこの山」は、アイデアとデザインの独自性で、人気を博しました。
小さなきのこの形を模したチョコスナックは、食感の多様さと共に、その可愛らしさからも評価されています。
現在でも、パーティースナックやおやつとして親しまれ、新しい商品が登場する中で、レトロな魅力を持ったお菓子として息づいています。

また、日々の生活に不可欠な金鳥の渦巻やアイラップなど昭和生まれの日用品は、今もなお、高い支持を得ています。
これらの製品は、効率的な使い方や使い勝手の良さから、多くの家庭で重宝されています。
現代の高機能な商品もありますが、シンプルで使いやすい昭和のデザインは、時代を超えて、愛され続ける理由の一つなのです。
金鳥の製品に見られるように、使う人々に寄り添った製品は、今も多くの支持を集めています。

3.現代に残る習慣
昭和時代に誕生した様々な家庭用品は、今日でも、私たちの日常生活に、欠かせない存在です。
例えば、インスタントラーメンやレトルト食品は、調理の手間を省き、忙しい現代人にとって、非常に、便利な製品です。
これらは、今でも、幅広い世代に親しまれ、家庭の食卓を支えていることから、昭和から続く文化的な遺産として、意義があります。
また、洗濯機や冷蔵庫といった生活必需品も、昭和に導入されてからというもの、生活スタイルの基本となっています。

お菓子に関しては、昭和から続くいくつかの名作が、令和の時代でも、新鮮さを保ち、再評価されています。
有名なエンゼルパイやカントリーマアムは、単に懐かしいだけでなく、多様なフレーバーやパッケージデザインで、新しい魅力を提供し続けています。
これにより、世代を超えた親しみをもたらし、過去と現在をつなぐ架け橋となっているのです。
お菓子の楽しみ方もまた、個々の思い出とリンクしており、記憶を蘇らせる重要な役割を果たしています。

音楽と文化においても、昭和の影響は依然として強力です。
特に、昭和の名曲やアーティストがSNSを通じて再評価され、多くの若者の間で流行しています。
昭和レトロ・ノスタルジー消費セグメントは、ヒット曲のカバーやリバイバルコンサートを通じて、世代間のつながりを創出しています。
それにより、多くの人々が当時の文化に触れ、過去の美しさを再発見する機会を持つことができるのです。

4.昭和時代の消費文化
戦後、日本は急速な経済成長を遂げ、その中心には、消費文化の浸透がありました。
家庭には、冷蔵庫やテレビ、洗濯機などの電化製品が導入され、生活様式は根本的に変化しました。
この高度経済成長期において、便利さと豊かさを求める動きが加速し、特に、食品や飲料市場の成長が顕著でした。

食文化の多様化が進み、便利なインスタント食品や缶詰、レトルト食品が普及し、多くの家庭で、日常的に利用されるようになりました。

消費文化の初期の象徴とも言えるモダンガールは、1920年代から1930年代にかけて、欧米の文化やファッションに憧れる人々の存在を示しています。
この時代は、大正デモクラシーの影響を受け、自由で、華やかなライフスタイルが広まりました。
しかし、1929年の大恐慌や続く戦争によって、消費文化は、一時的に停滞し、多くの人々が、物資の不足を経験しました。

この時期の消費に対する憧れは、戦後の経済成長期に再燃することになります。
昭和時代に生まれた多くの雑貨やおもちゃが、近年、再び注目を浴びています。
ノスタルジックな価値が認識され、これらの製品は、新しい世代にも受け入れられています。

特に、昭和時代に、人気を博したお菓子や玩具は、今もなお「定番」として、多くの家庭で親しまれており、レトロブームが続いています。
このトレンドは、単なる懐かしさを超え、昭和の生活文化を再評価する動きとして広がっています。

5.現代社会への影響
昭和時代に登場した食品や文具、家庭用品は、現代の消費者にとっても懐かしく、愛着が持たれています。
特に、インスタントラーメンやレトルト食品といった「定番」商品は、時間が経過しても、その便利さと味から、多くの支持を得ています。

このノスタルジアの感情は、単なる過去の回顧ではなく、現代の生活における文化的なつながりを生み出し、昭和生まれの商品たちは、今もなお、多くの人々に求められ続けています。

最近、昭和文化をテーマにしたイベントや商品が増加し、世代を超えて広く支持されるようになりました。
例えば、昭和を背景にした音楽フェスやファッションイベントは、多くの人々が参加し、その魅力を再発見する場となっています。
これにより、昔の懐かしい商品や文化が現代に甦り、若い世代とも、共有されることで、新たなコミュニティの形成にもつながっています。


昭和の時代に培われたものづくりの精神は、現代のSDGs(持続可能な開発目標)やサステナビリティ意識と深く結びついています。
この時代の製品は、機能性だけでなく、デザインや環境への配慮がなされていたため、今日は、その価値が再評価されています。

リサイクルやエコな商品が注目を集める中で、昭和の伝統的な工芸や手作りの商品は、現代においても、持続可能性を考えた消費の一環として、大切にされる存在へと成長しています。

6.未来への展望
昭和のものづくり精神は、単なる品質の高さに留まらず、消費者とのコミュニケーションを大切にする文化を育んできました。
特に、インスタントラーメンやレトルト食品など、時代のニーズに応じた商品は今でも人々の日常に溶け込んでいます。
これらの製品は、昭和の消費文化の象徴であり、当時の技術やアイデアが今も生き続けていることを示しています。
今もなお、毎日の生活の中で多くの人々が 愛用していることからも、その価値は明らかです。

デジタル技術の急速な進化は、昭和生まれのアイコンや商品に新しい命を吹き込み、現代の若者たちにとっての新たな文化的価値を創出しています。
例えば、昭和時代のキャラクターをテーマにしたアプリやゲームが人気を集めており、視覚と触覚で楽しむ体験が提供されています。
このような取り組みは、単なるレトロブームを超え、デジタルとアナログの融合によって新たな世代にアプローチしている点が特徴です。

次世代への伝承は、過去の文化や価値観を尊重し、持続可能な社会を形作るために不可欠です。
昭和におけるものづくりや消費文化の多様性は、現代社会でも重要な要素として受け継がれています。
昭和の子供たちが育んだお菓子や雑貨の数々は、今も多くの人に愛され、次世代にも引き継がれています。
これにより、自らの文化に誇りを持ち、持続可能な未来に貢献する姿勢が育まれています。


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】10.戦後昭和の音楽流行シーン(2)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】10.戦後昭和の音楽流行シーン(2)


3. 1970年代
 グループ・サウンズのブームが商業ベースに飲み込まれるように終息したあと、代わって、それまで影に隠れていたフォークソング・シンガーが表舞台に登場した。彼らは商業ベースに乗るのを嫌ったため、単独ライブやフォークコンサートなどでの活動が主であった。

 関東を中心に、大学生などのアマチュアグループが、曲を自作し自演すると形でフォークソングを歌って、「カレッジフォーク」と呼ばれていたが、関西では、米のプロテストソングや反戦フォークの影響を受けて、更にメッセージ性の強いフォークを歌い、「関西フォーク」と呼ばれた。

 しかし、学生運動が沈静化するとともにメッセージ性はうすれ、反戦フォークから、恋愛や友情、日々の生活を歌うフォークが前面に出るようになった。これらはラジオ番組や深夜放送を通じて全国の若者に拡散し、加えて、シンガーソングライターとしてのシングルアーティストも多く登場した。


 70年代前半には、吉田拓郎や井上陽水らが登場し、フォークソングが熱狂的なブームとなった。「神田川(かぐや姫)」、「結婚するって本当ですか(よしだたくろう)」、「学生街の喫茶店(ガロ)」など、青春や日常を歌った叙情的な名曲が数多く誕生した。 

 そして70年代後半にもなると、よりポップでロック調のサウンドへ進化し「ニューミュージック」と呼ばれ出だした。フォークソングを基調にしつつ、ロックやポップスの要素を取り入れ、都会的で内省的な歌詞と洗練されたサウンドが特徴で、シンガーソングライターの台頭により、商業ベースと一線を画すアルバム志向の作品が多く制作された。 

 荒井由実(松任谷由実)、吉田拓郎、井上陽水、チューリップ、オフコース、サザンオールスターズ、山下達郎、竹内まりやなど、シンガーソングライターやバンドが中心となり、作詞・作曲を自身で行うスタイルが定着し、アルバムの売り上げが重視されたが、メディア(テレビ ラジオ 雑誌)の影響力が強まった。 

フォークソング代表的アーティスト

・60年代 カレッジフォーク/関西フォーク
ザ・フォーク・クルセダーズ - 「帰って来たヨッパライ」で一世を風靡https://www.youtube.com/watch?v=WW-DkzvSZoU
高石友也 - 反戦歌などを歌ったフォークの草分け
岡林信康 - 「フォークの神様」と呼ばれる存在

・70年代フォーク/ニューミュージック(黄金期)
吉田拓郎 - 日本のフォークシーンを変えた第一人者
井上陽水 - 圧倒的な歌唱力と作詞能力
泉谷しげる - フォークの神様 岡林信康に続くエネルギー
かぐや姫(伊勢正三、南こうせつ、山田パンダ)- 「神田川」などの名曲

アリス(谷村新司、堀内孝雄)- 叙情的なバラード
さだまさし - 物語性の高い名曲
松山千春 - 北海道出身の熱い歌声
イルカ - 代表曲「なごり雪」
海援隊 - 武田鉄矢率いるフォークグループ
紙ふうせん - 元・赤い鳥
あがた森魚 - 代表曲「赤色エレジー」
五つの赤い風船 - 関西フォークの雄

 70年代は歌謡曲・ポップスの世界では、沢田研二らによる「歌謡ポップス」の黄金時代であり、サザンオールスターズ、ゴダイゴらによって「ポップス/ニューミュージック」が融合してヒットを多発した。

 アイドル歌謡では、ピンク・レディー、キャンディーズ、山口百恵、桜田淳子、森昌子ら、歌って踊れるスターが登場して大人気に。フォーク・ニューミュージックでも、井上陽水「心もよう」、アリス「涙の誓い」、中島みゆき「わかれうた」など、シンガーソングライターによる情緒的でポップな楽曲がヒットした。

70年代の代表的な歌謡曲・ポップス名曲

・1970-1974年(歌謡曲の黄金期)
また逢う日まで / 尾崎紀世彦 (1971)
17才 / 南沙織 (1971)
喝采 / ちあきなおみ (1972)
恋のダイヤル6700 / フィンガー5 (1973)
あなた / 小坂明子 (1973)

・1975-1979年(ニューミュージック・ポップスの台頭)
木綿のハンカチーフ / 太田裕美 (1975)
微笑がえし / キャンディーズ (1978)
プレイバックPart2 / 山口百恵 (1978)
透明人間 / ピンク・レディー (1978)
いとしのエリー / サザンオールスターズ (1979)
銀河鉄道999 / ゴダイゴ (1979)
異邦人 / 久保田早紀 (1979) 

 1980年代になると、バブル景気を背景に、より洗練された都会的なサウンドや、個性の強いアーティストが登場し、音楽メディアもデジタル化されたCDが主流となる。ニューミュージックも、やがて「シティ・ポップ」呼ばれるようになり、さらに1990年代以降には、グローバル化とともに、日本の音楽も海外に広がり出し、「J-POP」という言葉が一般化するようになった。

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】09.戦後昭和の音楽流行シーン(1)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】09.戦後昭和の音楽流行シーン(1)


 戦後昭和の時期の流行歌は、その時代の空気を大きく反映している。大きく3つのフェーズに分けて、その時代の変遷を振り返ってみよう。

1. 終戦直後〜1950年代
 敗戦直後の焼け野原から立ち上がろうとしてる人々に、ラジオから明るく軽快なリズムが流れ、明日への希望を抱かせる曲が鳴り響いた。

・「リンゴの唄 」(1945年/並木路子)
 戦後ヒット曲の第1号で、「並木路子」の明るい歌声は、敗戦に打ちひしがれた人々を元気づけた。戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年)で歌われた。

・「東京ブギウギ」(1947年/笠置シづ子)
 「ブギの女王」と呼ばれた「笠置シヅ子」よって、爆発的なヒットをもたらされた。明るく歌って踊れる笠置シヅ子は、戦中は演技を制限されたが、終戦によって解き放たれた大スターであった。

・「青い山脈」(1949年/藤山一郎/奈良光枝)
 石坂洋次郎作の青春小説が原作で、1949(s24)年に原節子主演の映画「青い山脈(映画)」が製作され、同時に発表された同名の主題歌(西條八十作詞/服部良一作曲)とともに大ヒットとなった。新しい時代の幕開けを象徴する、軽快で爽やかな青春賛歌であった。

・「君の名は」(1953年/織井茂子)
 NHKのラジオ連続ドラマが社会現象になり、放送時間になると銭湯の女湯が空になるという伝説が生まれた。冒頭に「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」とのセリフが入り、このテーマ曲が流れる。

 1953年には松竹で、岸恵子と佐田啓二の共演で映画化されると大ヒット、「すれちがい」「真知子巻き」などの流行語を生んだ。脚本、小説、作詞のすべてを「菊田一夫」が手がけた。作曲は「古関裕而」で、放送版の歌は高柳二葉だが、映画とレコードは「織井茂子」によって吹き込まれた。

 ほかにも戦前から活躍していた歌手が多く、岡晴夫「憧れのハワイ航路」、近江俊郎「湯の町エレジー」、藤山一郎「長崎の鐘」、田端義夫「島育ち」、菅原都々子「月がとっても青いから」、菊池章子「星の流れに」などのヒット曲が生まれた。

・「三人娘」
 三人娘は、若い女性歌手の「美空ひばり」「江利チエミ」「雪村いづみ」の人(3人とも1937年生まれ)を指し、のちにこの3人にあやかって何組も登場したので「元祖三人娘」と呼ばれることがある。
 「元祖三人娘」は抜群の歌唱力と個性を持ち、1950年代の日本歌謡界・映画界で絶大な人気を誇って。1955年の映画「ジャンケン娘」などの共演作で一世を風靡し、現代のアイドルグループの先駆け的な存在となった。

「美空 ひばり」… 「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」
「江利 チエミ」… 「テネシー・ワルツ」「酒場にて」
「雪村 いづみ」… 「想いでのワルツ」「マンボ・イタリアノ」
https://www.youtube.com/watch?v=MCeevNO2DDQ&list=RDMCeevNO2DDQ&start_radio=1

2. 1960年代
 高度経済成長とテレビビジョンの普及で、テレビが茶の間の主役となり、洋楽の影響を受けた新しいスタイルの楽曲が登場した。テレビの浸透とともに、テレビ歌謡・青春歌謡が黄金期を迎えた。

・「上を向いて歩こう」(1961年/坂本九)
 「SUKIYAKI」としてアメリカでリリースされ、全米ビルボード1位を獲得し、世界に知れわたった。

・「恋のバカンス」(1963年/ザ・ピーナッツ)
 ジャズの4ビートを生かした、歌謡曲としてはかつてなかったほどのスウィング感に満ちあふれた楽曲。「バカンス (vacances)」というフランス語が、日本で流行語となった。

・「こんにちは赤ちゃん」(1963年/梓みちよ)
 高度成長期の家庭の幸せを象徴するような一曲。NHKテレビの人気番組『夢であいましょう』の今月の歌コーナーにて紹介され、梓みちよはこの曲で第5回日本レコード大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。


・「いつでも夢を」(1962年/吉永小百合 橋幸夫)
 橋幸夫と吉永小百合のデュエットで、第4回日本レコード大賞受賞曲。翌年に橋と吉永の主演によるドラマ映画『いつでも夢を』が公開され、ヒット曲からの映画化作品となった。

・「高校三年生」(1963/舟木一夫)
 舟木一夫のデビュー曲で、舟木の代表曲となった。「青春歌謡」ブームを牽引した橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の3人は、学園ものや叙情的な曲でアイドル的な人気を誇り、「青春歌謡  御三家」と呼ばれた。

・「君といつまでも(1965年/加山雄三)」「お嫁においで(1966年)」
 若大将シリーズは、加山雄三主演青春映画の大ヒットシリーズとなった。「若大将」は加山の愛称ともなり、上記の曲は加山主演青春映画の中で歌われた。

 60年代後半には、ベンチャーズやビートルズの来日があり、エレキギターブームやロックバンドブームが起った。それらの影響下で、素人グループが雨後の筍のように登場して、ジャズ喫茶・ゴーゴー喫茶などを中心に活動した。これらは「グループ・サウンズ(GS)」と呼ばれ、やがてTVやレコードなどの商業ベースに取り込まれていった。

 1967(s42)年から1969(s44)年)にかけての最盛期には、300を超えるグループがあったといわれる。ブームは短期に収束したが、解散後のメンバーたちは様々な音楽場面で活躍し、以降の音楽シーンに大きな影響を及ぼしている。

・タイガース(沢田研二)
・スパイダース(堺正章、井上順、かまやつひろし)
・テンプターズ(萩原健一)
・ワイルド・ワンズ(加山雄三のサポートも)
・ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

代表的な曲
「君だけに愛を」(ザ・タイガース)

「バン・バン・バン」(ザ・スパイダース)

「想い出の渚」(ザ・ワイルド・ワンズ)

「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)

「ブルー・シャトウ 」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】08.テレビの黄金期と消費生活への反映

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】08.テレビの黄金期と消費生活への反映


 テレビジョンのカラー放送は1960(s35)年に始まったが、1964(s39)年の東京五輪を契機に本格化し、1970(s45)年大阪万博の前後から爆発的に普及した。1973(s48)年にカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回り、1970年代後半にはほぼ全家庭に普及するようになった。

 1970年代には、カラーテレビの普及で番組も大きく変化し、バラエティ豊かな番組構成へ移行し、家族団らんの「お茶の間テレビ」文化が一般化した。映像が鮮やかになり、バラエティやドラマの表現力が向上、ニュースやスポーツ中継の臨場感が増し、視聴時間は1975年頃にピークを迎えて、家族で夕食後や土曜夜に番組を楽しむ習慣が定着していった。 

 学生運動や政治闘争が沈静化する中、番組はアイドル・コント・ホームドラマ中心の明るい娯楽へシフト。「シラケ世代」といわれた若者層にも響く、日常や人情を描く作品が増えた。10代のタレントがテレビで活躍する場が拡大し、アイドルブームが本格化する。

*ホームドラマ・家族もの
 TBSの『ありがとう』(平岩弓枝脚本/石井ふく子プロデュース)は、ドラマ史上最高視聴率50%を越え「お化け番組」と呼ばれた。『時間ですよ』(久世光彦演出)、『寺内貫太郎一家』(向田邦子脚本)など、下町人情やギャグを交えた温かい家族像が人気で、さらには山田太一・倉本聰・向田邦子らの脚本で、現実の家族の暗部や心の空洞を描く深みのある作品(例:『岸辺のアルバム』1977年)へ進化してゆき、ドラマの黄金期を形成した。 

*バラエティ・コント番組
 公開収録の笑いが全盛で、TBS『8時だョ!全員集合』(ザ・ドリフターズ)、フジ『コント55号の世界は笑う』、そして萩本欽一の『欽ちゃんのドンとやってみよう!』は素人を起用した参加型で大ヒット。関西発の視聴者参加番組(『プロポーズ大作戦』など)も全国区になった。 

*アイドル・音楽番組
 『スター誕生!』は萩本欽一司会の公開バラエティで、歌とコントを披露する場が豊富で、子どもたちが真似する文化を生みだした。新人オーディションコーナーでは、山口百恵、桜田淳子、森昌子(花の中三トリオ)らアイドルを輩出する。

*子ども向け・特撮/アニメ
 『仮面ライダー』シリーズ、『ウルトラマン』、『ドラえもん』など特撮・アニメが家族視聴の中心。ロボットものや魔法少女ものも活況。


*報道・その他
 あさま山荘事件(1972年)のライブ中継で視聴率89.7%を記録するなど、リアルタイム報道の影響力が拡大。時代劇のニューウェーブやスポーツ中継も充実。

 1970年代はテレビが「情報と娯楽を同時に届ける」メディアとして国民生活を変えた時期で、政治色が薄れ、明るい家庭向けコンテンツが増えた一方で、後半には家族のリアルな葛藤を描く作品も登場し、視聴者の意識を反映。視聴率競争が激しく、「お化け番組」が次々生まれ、「家族で共有するテレビ」のピークで、テレビの黄金時代を形成した。 


 1970年代のテレビCMは、テレビの家庭普及とカラーブームに乗り、キャッチーなコピー・有名タレント起用・印象的な音楽が特徴で、社会現象になるほど話題となった。視聴率の高い番組と連動し、家族で共有される文化が強かった時代である。

話題・流行したCM
*「モーレツからビューティフルへ」(富士ゼロックス)
シンプルで印象的なコピーが流行語に。仕事の激しさから美しさへのシフトを表現し、企業イメージ向上に大きく貢献しました。

*「男は黙って」(サッポロビール)
三船敏郎が出演。男らしさを象徴する力強い演出で、ビールCMの定番スタイルを確立。1970年代の男性像を反映した話題作。 

*マンダム「う〜ん、マンダム」
チャールズ・ブロンソン出演。海外セレブを起用した大胆な演出と低音のセリフが男性向けCMの象徴となり、強烈なインパクトを残しました。

*「いい日旅立ち」キャンペーン(国鉄 現JR)
心温まる映像と主題歌が融合し、旅行ブームを後押し。

*「お正月を写そう」(フジカラー)
家族の思い出を呼び起こす情感豊かな作品。

 1970年代のCMは、経済成長期の明るさや家族の日常を反映して、タレント起用(アイドル・海外スター)が活発化し、広告賞で高評価の作品が多数生まれた。政治色が薄れ、娯楽性が高いものが人気を集め、テレビ番組と同じく「お茶の間」で繰り返し話題になった。 

Ⅰ【文学コラム】37. 『小野小町と小町伝説について』(文学部レポート)

Ⅰ【文学コラム】37. 『小野小町と小町伝説について』(文学部レポート)

 

『小野小町と小町伝説について』(S47年度前期、国文学特殊講義レポート/23歳)

 なぜ小野小町を取り上げるか、ということから始めようと思う。


小野小町という名を聞いて、まず私の頭に浮ぶのは絶世の美女というイメージである。何々小町と言えば美女の代名詞となっており、いつの世の男性にとっても憧れの対象となった女人像であろう。そしてこの理想の女性像は、決して良妻賢母とか貞女の鏡といったもう一方の理想的女性像とは結びつかない。その結びつかないところが魅力の所以である、と私には思われる。小野小町という名は、世慣れた男をニタリと喜ばせ、純情な青年の心をときめかせるような魅力をもっているのである。そして、私の中のミーハー精神もまたその魅力に感応した、というわけだ。これが、ここで小野小町について愚考してみようとする動機である。

 「をのゝこまちは、いにしへの衣通姫[そとおりひめ]の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり。」

 これは古今集仮名序に紀貫之が記している有名な一節である。古今集撰者としての貫之は、ここではもちろん小町の歌そのものについて述べているのであって、必ずしも容色について云々しているわけではあるまい。しかし素直な気持で読んでみると、どうしても小町は美女でなければならないというような響きが感じ取れないだろうか。「衣通姫」というのは、躯[からだ]の色が衣を通して光り輝くほど美しかったのでその名が付いたと言われているそうだから、この当時の美女の代名詞だったと解することができる。その衣通姫にたとえられる小野小町が、実のところ醜女であったということになれば、小町の歌そのものがグロテスクな様相を帯びてきて具合の悪いことになるのではないだろうか。また、「いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり」とある「よきをうな」とは、「美き女」という字を充てるのが適当な気がする。やはり小野小町という女性は、「美[よ]き女[をうな]」でなくてはいけないのである。

 一方、小町の歌才については、貫之が六歌仙の一人に挙げているという事実だけで十分であろう。したがって、「才色兼備の女人」という小町のイメージが成立していたと推定してよいと思われる。多くの小町伝説が後世に語られるようになったその原動力を、私はこのイメージに求めたいと思う。それはまた、初めに書いた小野小町という名の持つ魅力として、現代の我々の空想力を刺激するのである。

 種々の小町伝説が形成される原動力は想定された。次に問題となるのは、その原動力が展開していく方向を規定したものは何かということである。結論的に言うと、その方向付けに重要な作用をしたものとして、古今集その他に残されている小野小町自身の歌を挙げたい。要するに、才色兼備の女人というイメージを結んだ小野小町の魅力が原動力なり、彼女自身の歌がその展開を方向付けた、という乱暴な仮説を立ててみたわけである。

 以上によって、このあと私に残された仕事は明らかになってきた。巷間に残されている種々の小町伝説なるものを、何らかの形で歌人小野小町の歌と結びつけてみせるという仕事である。ところが遺憾ながら、私にはその能力もないし根気もない。したがって、以下の文章は実証的研究とは程遠い出鱈目な考察となってくることと思われるので、その点は予め御了承いただきたいものです。

 まず、小町の歌を手っ取り早く片づけてしまおう。と言っても、歌の出来栄えについては私に云々する資格がない。ここで問題とするのは、その内容についてである。さて、数少ない小町の歌を内容的に見ると、次のような三つの系統のものが見出せる。

(A)遂げられぬ想いを嘆く歌。
(B)我が身の容色の衰えを悔む歌。
(C)言い寄る男をうまく受け流す歌。

 分類Aの例。
うたたねに恋しき人をみてしより 夢てふものは頼みそめてき

 分類Bの例。
花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに

 分類Cの例としては、安倍清行とのやり取りを挙げておこう。
  あべのきよゆきの朝臣
つゝめども袖にたまらぬ白玉は 人をみぬめの涙なりけり
  返し 小町
おろかなる波だぞ袖に玉はなす 我はせきあへずたぎつ瀬なれば

 なお、この小町の返し歌については、抑制しえぬ激しい恋心を詠んだものとする説があるが、それではこのやり取りの妙味がなくなってしまう。ここはやはり、小町の機知が清行の戯れの求愛歌を、白々しい間の抜けたものにしてしまった、という所に解釈の焦点を置いておきたい。

 以上に例として挙げた三つの歌からだけでも、小町と言う女人像が朧げに浮び上がってくる。試みにそれを考えてみよう。

 何よりもまず、絶世の美女という但し書きがある。それだけでも、世の男性としては小町に対して好意的にならざるを得ない。花の色の衰えを悔むにしても、これが醜女であれば、何と浅ましい女だということになる。ところが絶世の美女ということになると発想の展開の仕方が、ぜんぜん異なってくる。容色だけにしか頼ることのできない女の性[さが]の哀しさ、という同情的な方向に考えが向いていくのである。

 男を突っぱねるにしても、そこに機知の閃[ひらめ]きがあるだけに、決して非情な女とは映らない。その突っぱね方で、多少の冷酷さを感じさせる程きっぱりした調子であるいことで、むしろ第三者的立場に在る男にとっては痛快であり、よりいっそう魅力をつのらせるものである。

 このような驕慢とも思える強さを示す女性が、いったん恋に身を置く立場に陥ると、夢をも頼みとするような弱々しい女に変貌する。この落差が、小町の読者たる男性諸氏を一挙に小町ファンに仕立て上げてしまう。少なくとも、多少ロマンティックな要素を持った男性であれば、まずはひとたまりもないであろう。あとは、各自の頭の中にある具体的な美女のイメージをそれに当てはめて、空想のおもむくままに楽しめばよいというわけである。

 いづれにしても、空想の展開するのに十分な条件は整ったことになる。かくして、様々な空想を経て種々の小町伝説が流布することになったとしても、そこに不思議はないであろう。

 今から、種々の小町伝説を取り上げて先に分類した歌と結びつける作業に移るわけであるか、残念なことに私の手元にはほとんど資料がない。たった一冊だけあることはあるのであるが、それが資料として利用するには甚だ心もとないものである。手の内を見せてしまうことになるが、ここでその唯一の資料、というよりも種本[たねほん]に近いものとして利用しようとする書物を紹介しておきます。

 吉行淳之介著『小野小町』がそれである。これは、著者自身「戯作」と称する作品で、週刊誌上に連載された小説である。小説である以上、それを資料として用いるということ自体に問題があるのであって、そこから生じる誤りの責任は当然私の方にある。しかしまあ、そんな堅いことを言っても仕方がないので、この小説で取り上げられている伝説を引用させていただきます。なお、この小説における著者の解釈はすこぶる興味深いので、この点に関しても大いに頼らさせていただくことになります。

 まず有名な、深草少将百夜通いの伝説を取り上げよう。言い寄る深草少将の心の誠を試みるため、小町が少将に百夜通いすることを課す、という噺である。この説話はかなりすんなりと、分類Cの系統の歌からくる小町につながる。この説話に於いては、小町は少将に惚れられた強い立場にあり、結局少将は百日目の晩に雪の中で倒れるという、悲劇とも喜劇ともつかない落ちになっている。

 ところで、前出の吉行氏の小説の中では、藻之瀬[ものせ]二郎説なるものが紹介されている。著者吉行氏が古本屋で見つけた『小野小町』という書物の著者が藻之瀬二郎であり、その書物からの引用という形で吉行氏の小説に書き込まれているのが藻之瀬説である。その藻之瀬説に於いては、小町と少将のやり取りが、全く別の方向へすこぶる面白く展開されているのであるが、長くなるのでここでは省略せざるをえない。なお、この藻之瀬二郎とその著書なるものは、小説の中では明言されていないが吉行氏自身のでっちあげではないか、と私見する次第である。

 次に取り上げるのは、いわゆる髑髏[どくろ]伝説なるものである。簡単に紹介すると、落魄窮死した小町の髑髏が行きすがりの旅人に語りかけ「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ 小野とはいはじ薄[すすき]生ひけり」という歌を詠む、といった筋書きである。誰のものとも判別できない髑髏の眼窩から薄が生い出ているという荒涼たる風景は、容色の衰えを悔む分類Bの系統の歌を延長した線上にあり、しかもその最極点に位置するものであろう。

 これに類似したもので落魄した小町の後日譚の系統の説話はかなり多くあるようである。なぜ絶世の美女であった小野小町が、このような老醜をさらす説話に登場しなくてはならなかったのか。これはかなり興味深い問題だと思われる。後世の仏教的無常観や儒教観が何らかの作用を及ぼした、ということは十分に考えられることである。しかしそれだけでは納得しきれないような要素が残るように思われる。私は次のように考えてみたい。

 小野小町は絶世の美女ということになっている。ありふれた平凡な男女にとっては、とうてい手の届かない位置にあるのである。そこで、これでは癪だから何とか自分たちのレベルにまで引きずり降ろしてやろう、いうことになる。つまり、「美人美人と言うけれど婆[ばばあ]になれば皆同じ」という糞リアリズム的発想へと行きつくのである。この発想が逆に働くと、最初から自分たちとは比較不可能な神様の位置にまつり上げてしまうことになる。その例が御伽草子に見られるようである。「小町草紙」という説話で、小町という色好みの遊女が実は如意輪観音の化身であった、という噺である。まるで古典落語の世界のような、荒唐無稽でユーモラスなこの噺は、私の好みに合いそうなので一度原文にあたってみたいと思っている。

 最後に、分類Aに属する歌、つまり遂げられぬ想いを嘆く歌に結びつく伝説を取り上げようと思うのであるが、なかなか適当なのが見当たらない。やむを得ず、鎖陰伝説なるものに登場願うことになった。これは伝説というより俗説と呼ぶのが適当なもので、噺の筋書きも何もありはしない。要するに、小町は鎖陰であったという俗説である。鎖陰とは吉行氏の説明を引用させてもらうと、「要するに男性と交わることが不可能な陰部構造」ということが分かればよろしいとのことである。ちなみに、糸を通す穴のあいていない針を小町針と呼ぶのは、この俗説に由来するらしい。

 想いが遂げられないで夢を頼みにしている歌など、フロイト流の分析でも用いれば何とか鎖陰伝説にこじつけられそうである。また、「想いが遂げられない」という意味を適当に解釈すれば、もっと直接的に結びついてしまう。しかしここで重要なのは、如何なる過程を経てこの俗説が形成されたのか、という問題である。この点については吉行氏の絶妙な解釈があり、私もその見解に賛成なのでここで簡単に紹介しておこう。

 小野小町は絶世の美女であり、また歌才にも秀でていた。いわば、当時における才色兼備の大スタアであったのである。となるとファン気質としては、特定の人物にスタアを独占させないためには、女性としての肝心な部分を抹消してしまえ、ということになる。こういうプロセスで、小町の躯から局部が消え失せた。(もちろん、人々の観念上に於いてである)以上が吉行氏の解釈である。このようにして形成された俗説は、小町自身が詠んだ歌とも微妙に結びつけられて流布されていったのである。

 いわゆる小町伝説として総称されているものは、必ずしも起源を歌人小野小町にもつものばかりではなく、全く異なった起源に発するものも多いということである。しかしながら、その区別が判然とせずに、小町伝説として小野小町に結びつけて伝えられてきたからには、やはりそれなりの結びつく要素があったからであろう。とすれば、その結びつきに視点をあてて、その糸をたぐってみるという作業にも、それなりの意味を与えることができる。そのような観点から、このレポートを書くに至った次第である。もっとも、かなりデタラメな作業ではありましたが……。

 なお、前記の書以外に、目崎得衛著『在原業平・小野小町』(筑摩書房刊・日本詩人選6)を参考にさせていただきました。

「千年前の女流詩人“小野小町”」
https://www.youtube.com/watch?v=G_EoYCxJwMY