このブログを検索

Ⅲ【社会時事コラム】14.経済学部卒だけど・・・

 【社会時事コラム】14.経済学部卒だけど・・・


 一応「神戸大学 経済学部卒」となっているが、実際には半分近くを文学部で単位を取って、経済や経営は必須教科程度しか取っていない。入学時は資本論全巻を買い込むほど意気込んでいたが、教養課程での退屈な授業や、専門課程に上がる前の長期間の学校封鎖などで、本格的な経済学部専門課程での講義を受けるころには、すっかり経済に興味を失っていた。

 しかも一年近くの学園封鎖中を京都ですごし、高校の旧友たちと交友するうちに、すっかり文学にはまってしまった。大学の講義が始まり専門課程の経済学部の講義が始まっても、文学部に行って単位をとることが多かった。

 もちろん経済や経営の必須科目もあって、なかでも「経済原論」は最重要科目だった。原論は前期・後期に4単位づつ、つごう8単位だったが、これは内容が面白く真面目に取り組んだので、いまでも講義ノートを残してある。まあ、経済学部でまともに学習したのは、この「原論」だけぐらいだ。

 基本テキストは「経済学教材(北野熊喜男 編)」だったが、内容的には、ノーベル経済学賞のポール・サミュエルソンの「経済学教科書」をベースにしたものである。
この「教材」や「教科書」は、何度も下線を引いて熟読した。

 神戸大の経済はほとんどが「近経(近代経済学)」で、マル経はまったくなかった。サミュエルソンに代表される近代経済学分野では、いわゆる均衡理論で「新古典派総合」と称されていた。新古典派「ミクロ」均衡理論にケインズ派「マクロ」理論を組み込んだ「総合」ということだった。

 「経済原論」では、前期講義でミクロ理論、後期でマクロ理論を中心に取り上げられた。大雑把にいうと、「ミクロ分野」では、それぞれの市場で、需要と供給の均衡によって「土地(地代)」・「労働(賃金)」・「資本(利子)」のミクロ経済三要素が決まり、そこに「マクロ分野」での、「金融財政」などによる貨幣資金の投入によってマクロ経済拡大がなされる、という筋書きである。

 こまかな話はすべて忘れたが、このような原論での基本的な均衡理論の考え方は身にしみついた。現在の経済動向なども、この基本にそって考えると、なんとなく分かるのだ。ということで、神大経済学部で学んだのはこれだけ、まあ世の中は何とかなる(笑)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】11.「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】11.「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」


 最近のSNSでは「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」という言葉が散見される。そのようなテーマで語り合われる場さえ形成されている。「ノスタルジー」は「過去を懐かしむ感情(郷愁・切なさ)」に焦点を当てた言葉で、「レトロ」は「古くて懐かしい雰囲気やデザイン(スタイル)」そのものを指す。

 昭和ノスタルジーは、1950〜80年代の高度成長期や安定成長期の生活文化を懐かしむ文化で、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」やレトロアイテム(カセット、駄菓子、純喫茶)を通じてブームとなっている。古き良き時代への憧れや郷愁の感覚から、平成・令和世代にも支持され、モノを大切にする精神や温かい人間関係が再評価されている。 
https://www.youtube.com/watch?v=Ub6_DgXLq_w

 昭和時代は1926年から1989年までの64年間であり、特に第二次世界大戦後の復興と高度経済成長が中心的な出来事だった。この時期は戦後の混乱を経て、さまざまな社会、経済、文化的な変革を経験し、工業化と都市化が急速に進展し、人々は新しい生活様式を受け入れ、国全体として豊かさを追求する方向へと進んだ。

昭和30年代
 物質的な豊かさを手に入れながら、地域の人と人とのつながりを大切にする暮らしが残っていた転換期だった。 家庭ではテレビや洗濯機や冷蔵庫といった電化製品の普及がすすみ、人々の生活スタイルに革命をもたらした。

「昭和36年」

1.住まいと家事の変容
・ 住宅の洋風化が進展し、公団住宅などが登場。和風木造住宅でも、洋風家具をそろえた応接間が作られた。
・家事の近代化がすすみ、洗濯機や電気炊飯器や電気冷蔵庫といった電化製品が普及して、大きく家事負担が軽減された。
・買い物は近隣の商店街や公設市場で、魚屋・八百屋など、ほとんどが対面販売だったが、一部、レジを導入したセルフ販売形式も始まった。 

2. 子どもの遊びと学校
・近所の大人が、通学を見守り、子どもに声をかけ、時には叱るなど、子供を育む地域社会が残っていた。
・三角ベース、メンコ、ビー玉、缶蹴り、土管など、手作りの遊びが主流で、女子もゴム飛び、ままごと、人形あそびなど元気に遊んだ。
・ほとんどが地域の公立小・中学校にかよい、高校進学率は約5割、中学卒業後に就職する者も多かった。 

3. 社会と技術の進化
・メディアの登場: 白黒テレビが普及し、街頭テレビから家庭テレビへ変化。
・交通手段: 路面電車が主要な移動手段(下駄がわり)として活躍。
・街の活気: 神社のお祭りや商店街の大売り出しなどで、活気づいていた。 

昭和40年代
 物質的な豊かさを追求しつつ、地域コミュニティがまだ色濃く残る、活気ある時代だった。 カラーテレビ、クーラー、自動車の「3C」が普及し、都市化と核家族化が進行した高度経済成長期で、万博(s45年)や沖縄返還(s47年)などがあり、文化的には、インスタント食品や外食産業が発展し、若者文化(アイビー、ジーンズ)が花開いた。 

1.家電の普及と暮らしの変容
・3Cの普及: カラーテレビ、クーラー(クーラー)、自動車(Car)が一般家庭に急速に普及し、生活の快適性が大幅に向上。
・住宅事情: 団地やマンションなどの集合住宅が増加し、核家族化が進む。

2.食生活の革命
・インスタント食品: インスタントラーメンなどが食卓に浸透し、食の簡素化・多様化が進む。
・外食産業の勃興: ファミリーレストランなどが登場し、外食が特別なものではなくなる。

3.若者文化とファッション
・アメリカンカルチャー: ジーンズが若者の定番アイテムとなり、アイビーファッション(ボタンダウンシャツ、チノパン)が流行。
・個性の表現: 学生服の着崩しなど、個性を重視する潮流が生まれる。

4.エンタメと流行
・テレビ・音楽: テレビゲームはまだ登場前だが、テレビ番組や歌謡曲が娯楽の中心。

5.社会の変化
・人口動態: 昭和42年に総人口が1億人を突破し、都市化がピークに達する。
・大型イベント: 大阪万博(1970年)開催により、未来志向の空気が漂う。 

昭和50年代以降
 高度経済成長期を経て、人々の生活が「便利」になる一方で、都市化が進み、核家族化が進行した時期でもあった。モノが溢れ始め、消費文化が成熟した時代で、さまざまな家庭電化製品があふれ、食の欧米化やファミリーレストランの普及、アイドルブームや住宅事情の変化(団地生活)など、現代の日本的なライフスタイルが確立された時代であった。

・食文化:ファミリーレストランなど外食文化が一般化し、家庭の食卓では洋食メニューが増え、インスタントや冷凍食品の利用が進んだ。
・家電・趣味:カラーテレビが各家庭に普及し、歌謡番組(「ザ・ベストテン」など)やアニメが子供から大人まで共通の話題となった。また、「スペースインベーダー」などのテレビゲーム(ゲームセンター)が大ブームとなった。
・住宅・生活:「団地」と呼ばれる中高層住宅が建ち並び、ダイニングキッチン(DK)という間取りが家庭の標準的なスタイルになった。
・レジャー・流行:山口百恵やピンク・レディーなど、アイドルブームが起きて、マイカーでのドライブ、ボーリング、海水浴、キャンプなど、アウトドアー・ライフが楽しまれた。 

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】10.戦後昭和の音楽流行シーン(2)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】10.戦後昭和の音楽流行シーン(2)


3. 1970年代
 グループ・サウンズのブームが商業ベースに飲み込まれるように終息したあと、代わって、それまで影に隠れていたフォークソング・シンガーが表舞台に登場した。彼らは商業ベースに乗るのを嫌ったため、単独ライブやフォークコンサートなどでの活動が主であった。

 関東を中心に、大学生などのアマチュアグループが、曲を自作し自演すると形でフォークソングを歌って、「カレッジフォーク」と呼ばれていたが、関西では、米のプロテストソングや反戦フォークの影響を受けて、更にメッセージ性の強いフォークを歌い、「関西フォーク」と呼ばれた。

 しかし、学生運動が沈静化するとともにメッセージ性はうすれ、反戦フォークから、恋愛や友情、日々の生活を歌うフォークが前面に出るようになった。これらはラジオ番組や深夜放送を通じて全国の若者に拡散し、加えて、シンガーソングライターとしてのシングルアーティストも多く登場した。


 70年代前半には、吉田拓郎や井上陽水らが登場し、フォークソングが熱狂的なブームとなった。「神田川(かぐや姫)」、「結婚するって本当ですか(よしだたくろう)」、「学生街の喫茶店(ガロ)」など、青春や日常を歌った叙情的な名曲が数多く誕生した。 

 そして70年代後半にもなると、よりポップでロック調のサウンドへ進化し「ニューミュージック」と呼ばれ出だした。フォークソングを基調にしつつ、ロックやポップスの要素を取り入れ、都会的で内省的な歌詞と洗練されたサウンドが特徴で、シンガーソングライターの台頭により、商業ベースと一線を画すアルバム志向の作品が多く制作された。 

 荒井由実(松任谷由実)、吉田拓郎、井上陽水、チューリップ、オフコース、サザンオールスターズ、山下達郎、竹内まりやなど、シンガーソングライターやバンドが中心となり、作詞・作曲を自身で行うスタイルが定着し、アルバムの売り上げが重視されたが、メディア(テレビ ラジオ 雑誌)の影響力が強まった。 

フォークソング代表的アーティスト

・60年代 カレッジフォーク/関西フォーク
ザ・フォーク・クルセダーズ - 「帰って来たヨッパライ」で一世を風靡https://www.youtube.com/watch?v=WW-DkzvSZoU
高石友也 - 反戦歌などを歌ったフォークの草分け
岡林信康 - 「フォークの神様」と呼ばれる存在

・70年代フォーク/ニューミュージック(黄金期)
吉田拓郎 - 日本のフォークシーンを変えた第一人者
井上陽水 - 圧倒的な歌唱力と作詞能力
泉谷しげる - フォークの神様 岡林信康に続くエネルギー
かぐや姫(伊勢正三、南こうせつ、山田パンダ)- 「神田川」などの名曲

アリス(谷村新司、堀内孝雄)- 叙情的なバラード
さだまさし - 物語性の高い名曲
松山千春 - 北海道出身の熱い歌声
イルカ - 代表曲「なごり雪」
海援隊 - 武田鉄矢率いるフォークグループ
紙ふうせん - 元・赤い鳥
あがた森魚 - 代表曲「赤色エレジー」
五つの赤い風船 - 関西フォークの雄

 70年代は歌謡曲・ポップスの世界では、沢田研二らによる「歌謡ポップス」の黄金時代であり、サザンオールスターズ、ゴダイゴらによって「ポップス/ニューミュージック」が融合してヒットを多発した。

 アイドル歌謡では、ピンク・レディー、キャンディーズ、山口百恵、桜田淳子、森昌子ら、歌って踊れるスターが登場して大人気に。フォーク・ニューミュージックでも、井上陽水「心もよう」、アリス「涙の誓い」、中島みゆき「わかれうた」など、シンガーソングライターによる情緒的でポップな楽曲がヒットした。

70年代の代表的な歌謡曲・ポップス名曲

・1970-1974年(歌謡曲の黄金期)
また逢う日まで / 尾崎紀世彦 (1971)
17才 / 南沙織 (1971)
喝采 / ちあきなおみ (1972)
恋のダイヤル6700 / フィンガー5 (1973)
あなた / 小坂明子 (1973)

・1975-1979年(ニューミュージック・ポップスの台頭)
木綿のハンカチーフ / 太田裕美 (1975)
微笑がえし / キャンディーズ (1978)
プレイバックPart2 / 山口百恵 (1978)
透明人間 / ピンク・レディー (1978)
いとしのエリー / サザンオールスターズ (1979)
銀河鉄道999 / ゴダイゴ (1979)
異邦人 / 久保田早紀 (1979) 

 1980年代になると、バブル景気を背景に、より洗練された都会的なサウンドや、個性の強いアーティストが登場し、音楽メディアもデジタル化されたCDが主流となる。ニューミュージックも、やがて「シティ・ポップ」呼ばれるようになり、さらに1990年代以降には、グローバル化とともに、日本の音楽も海外に広がり出し、「J-POP」という言葉が一般化するようになった。

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】09.戦後昭和の音楽流行シーン(1)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】09.戦後昭和の音楽流行シーン(1)


 戦後昭和の時期の流行歌は、その時代の空気を大きく反映している。大きく3つのフェーズに分けて、その時代の変遷を振り返ってみよう。

1. 終戦直後〜1950年代
 敗戦直後の焼け野原から立ち上がろうとしてる人々に、ラジオから明るく軽快なリズムが流れ、明日への希望を抱かせる曲が鳴り響いた。

・「リンゴの唄 」(1945年/並木路子)
 戦後ヒット曲の第1号で、「並木路子」の明るい歌声は、敗戦に打ちひしがれた人々を元気づけた。戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年)で歌われた。

・「東京ブギウギ」(1947年/笠置シづ子)
 「ブギの女王」と呼ばれた「笠置シヅ子」よって、爆発的なヒットをもたらされた。明るく歌って踊れる笠置シヅ子は、戦中は演技を制限されたが、終戦によって解き放たれた大スターであった。

・「青い山脈」(1949年/藤山一郎/奈良光枝)
 石坂洋次郎作の青春小説が原作で、1949(s24)年に原節子主演の映画「青い山脈(映画)」が製作され、同時に発表された同名の主題歌(西條八十作詞/服部良一作曲)とともに大ヒットとなった。新しい時代の幕開けを象徴する、軽快で爽やかな青春賛歌であった。

・「君の名は」(1953年/織井茂子)
 NHKのラジオ連続ドラマが社会現象になり、放送時間になると銭湯の女湯が空になるという伝説が生まれた。冒頭に「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」とのセリフが入り、このテーマ曲が流れる。

 1953年には松竹で、岸恵子と佐田啓二の共演で映画化されると大ヒット、「すれちがい」「真知子巻き」などの流行語を生んだ。脚本、小説、作詞のすべてを「菊田一夫」が手がけた。作曲は「古関裕而」で、放送版の歌は高柳二葉だが、映画とレコードは「織井茂子」によって吹き込まれた。

 ほかにも戦前から活躍していた歌手が多く、岡晴夫「憧れのハワイ航路」、近江俊郎「湯の町エレジー」、藤山一郎「長崎の鐘」、田端義夫「島育ち」、菅原都々子「月がとっても青いから」、菊池章子「星の流れに」などのヒット曲が生まれた。

・「三人娘」
 三人娘は、若い女性歌手の「美空ひばり」「江利チエミ」「雪村いづみ」の人(3人とも1937年生まれ)を指し、のちにこの3人にあやかって何組も登場したので「元祖三人娘」と呼ばれることがある。
 「元祖三人娘」は抜群の歌唱力と個性を持ち、1950年代の日本歌謡界・映画界で絶大な人気を誇って。1955年の映画「ジャンケン娘」などの共演作で一世を風靡し、現代のアイドルグループの先駆け的な存在となった。

「美空 ひばり」… 「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」
「江利 チエミ」… 「テネシー・ワルツ」「酒場にて」
「雪村 いづみ」… 「想いでのワルツ」「マンボ・イタリアノ」
https://www.youtube.com/watch?v=MCeevNO2DDQ&list=RDMCeevNO2DDQ&start_radio=1

2. 1960年代
 高度経済成長とテレビビジョンの普及で、テレビが茶の間の主役となり、洋楽の影響を受けた新しいスタイルの楽曲が登場した。テレビの浸透とともに、テレビ歌謡・青春歌謡が黄金期を迎えた。

・「上を向いて歩こう」(1961年/坂本九)
 「SUKIYAKI」としてアメリカでリリースされ、全米ビルボード1位を獲得し、世界に知れわたった。

・「恋のバカンス」(1963年/ザ・ピーナッツ)
 ジャズの4ビートを生かした、歌謡曲としてはかつてなかったほどのスウィング感に満ちあふれた楽曲。「バカンス (vacances)」というフランス語が、日本で流行語となった。

・「こんにちは赤ちゃん」(1963年/梓みちよ)
 高度成長期の家庭の幸せを象徴するような一曲。NHKテレビの人気番組『夢であいましょう』の今月の歌コーナーにて紹介され、梓みちよはこの曲で第5回日本レコード大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。

・「いつでも夢を」(1962年/吉永小百合 橋幸夫)
 橋幸夫と吉永小百合のデュエットで、第4回日本レコード大賞受賞曲。翌年に橋と吉永の主演によるドラマ映画『いつでも夢を』が公開され、ヒット曲からの映画化作品となった。

・「高校三年生」(1963/舟木一夫)
 舟木一夫のデビュー曲で、舟木の代表曲となった。「青春歌謡」ブームを牽引した橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の3人は、学園ものや叙情的な曲でアイドル的な人気を誇り、「青春歌謡  御三家」と呼ばれた。

・「君といつまでも(1965年/加山雄三)」「お嫁においで(1966年)」
 若大将シリーズは、加山雄三主演青春映画の大ヒットシリーズとなった。「若大将」は加山の愛称ともなり、上記の曲は加山主演青春映画の中で歌われた。

 60年代後半には、ベンチャーズやビートルズの来日があり、エレキギターブームやロックバンドブームが起った。それらの影響下で、素人グループが雨後の筍のように登場して、ジャズ喫茶・ゴーゴー喫茶などを中心に活動した。これらは「グループ・サウンズ(GS)」と呼ばれ、やがてTVやレコードなどの商業ベースに取り込まれていった。

 1967(s42)年から1969(s44)年)にかけての最盛期には、300を超えるグループがあったといわれる。ブームは短期に収束したが、解散後のメンバーたちは様々な音楽場面で活躍し、以降の音楽シーンに大きな影響を及ぼしている。

・タイガース(沢田研二)
・スパイダース(堺正章、井上順、かまやつひろし)
・テンプターズ(萩原健一)
・ワイルド・ワンズ(加山雄三のサポートも)
・ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

代表的な曲
「君だけに愛を」(ザ・タイガース)

「バン・バン・バン」(ザ・スパイダース)

「想い出の渚」(ザ・ワイルド・ワンズ)

「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)

「ブルー・シャトウ 」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)