Ⅲ【社会時事コラム】15.神大紛争を記録する
「神戸大学ニュースネット委員会」に配信されたネットニュースで、『「神大紛争」とは何だったのか? 吹き荒れたストと封鎖』という記事を見つけた。すでに風化しつつある当時の状況を、これをもとに振り返っておきたい。
1968年から69年にかけて、半年以上にわたる大学紛争と封鎖の期間の記録だが、私自身の経験を中心に記述する。私は、1968年4月に神大経済学部に入学した。受験から解放され、神戸の大学近くに下宿し、新天地でのどかな学園生活を楽しんだ。
あれやこれや積極的に活動し夏休みをむかえたが、京都の実家に帰省しぶらぶらしているうちに、二度目の鬱を発症し、夏季休暇が終わっても登校できない状態だった。秋口になって、やっとのことでふらふらと登校したが、一年生の後期はすでに半分近く終わっており、出欠を取る体育の授業に出ると、残り全部出席しても単位は取れないといわれ、卓球をして遊んで帰ったりした。
前期の間からすでに学園紛争の種は燻っていたが、活動の中心となった住吉寮でさえ、新入生歓迎の寮祭でダンパとかやって楽しんでいた。御影の山手にある住吉寮は、近年にできた新築だったが、あちこちにベタベタ張り紙があった。
「住吉寮」は、新入生を中心に1,2年生が入寮することになっており、寮の先輩の活動家たちには、格好のリクルート(オルグといった)の対象だった。そして、当時問題になっていた身近な「寮費値上げ問題」から火が付いた。
さらに、同じく1,2年生が学ぶ「鶴甲キャンパス」の教養部が、最初の拠点となった。新築の校舎は張り紙だらけになり、ペンキのタテカン文字で、べったりとスローガンが書かれた立て看板が、キャンパスの入り口に並んだ。一部の学生は教室を占拠し、また学生の主張を支持する声明を発表した講師の教官も出てきた。
秋口に登校しだすと、鶴甲キャンパスの雰囲気はガラッと変わっていた。入り口前広場では、ヘルメットにタオルでマスクをした学生が、ハンドマイクでアジ演説を続けていた。大体この手は、オルグされたばかりの新入りが練習代わりにやらされる。
そうこうしている12月の始めに、「六甲台本館」にあった本部事務所が、学生に占拠された。そして教養部をはじめとして、各学部の学生自治会が無期限ストライキを決議し、年明けには次々と封鎖されていった。
私はというと、大学は封鎖され講義もないので、ほとんど神戸に行くこともなく、京都でぶらぶら過ごしていたが、そのうち、高校時代の友達とともに、文学にはまりこんでいった。
関東で炎上していた学園紛争は、1月18日に東大本郷キャンパスに機動隊が投入されピークを迎える。安田講堂に籠城する学生と機動隊との激しい攻防が展開されたが、すでに関心を失いつつあった私は、その様子をぼんやりとテレビで眺めていた。当時の状況は下記ブログに詳しく書いている。
「'60・'70年安保闘争/大学紛争メモ」
やがて、大学自治会主催の「教養部学生大会」が六甲台大講堂で開かれて(69/02/03)、私も久しぶりに登校して参加した。その時の様子を記した雑記帳のメモも、上記から読めるようにしてある。稚拙な文章だが、当時の雰囲気ぐらいはつかめると思う。
集会は議論にもならず、各セクトの罵声の応酬だけで終わり、結局「スト続行」が決まっただけですっかり幻滅した。当時の私の立ち位置は、野坂昭如が名付けた「心情三派」というのに近い、「ノンポリ全共闘シンパ」というところだったが、以後すっかり関心を失い、ひたすら京都の仲間と文学にはまっていった。その分、最も本を読んだのもこの時期になる。
東大安田講堂事件のようなドラマチックな展開はなかったが、唯一、機動隊と一般学生と活動家が一堂に会したのは、7月12日に開催された須磨区の高倉山造成地での全学集会だった。「全神大人結集集会」という名目で、大学側が紛争解決を目指したものだが、須磨駅に押し掛けた一般学生と活動家たちは、おおむね「集会阻止」で集結していた。
冒頭の「神大ニュースネット」の記事によると、大学側で紛争収拾の先頭に立ったのが、戸田義郎 経営学部教授で、紛争開始直後に病気辞任した八木弘学長(法学部)に代わり、学長代行(学長事務取扱)に就任して、精力的に動いた。
上記記事から概略引用すると、
>大学本部および法・経済・経営学部(六甲台第1)、教養部(鶴甲第1)、文学部、工学部(六甲台第2)などの校舎が次々と、机やロッカーでバリケードが張られ封鎖されていて、紛争の構図は「大学側」対「学生側」といった単純な構図から迷走。
>ノンポリ(学生運動に参加しない)の学生もいた一方で、様々なイデオロギーをバックに
したセクトもからみ、さらに他大学からの活動家の介入、暴力(ゲバルト)も横行したため複雑な様相を見せた。
>こうしたなか混乱の中、1969年3月の卒業式、4月の入学式も中止となった。
>1969(昭和44)年7月12日、須磨区高倉山の団地造成地で、5000人の学生・教職員が参加して全学集会「全神大人結集集会」が行われた。
>この集会は大学側が解決を目指して企画したものだったが、一部学生の妨害とヘリコプターの騒音などで、約10分で打ち切られた。
この辺の全学集会の記述はほぼ省かれていて、私が見たものとはいささか異なっている。過去に書いたブログから再録する。
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駅の改札を出て、さてどうするかと見まわしていると、両側からガッシと腕を固められて、さあ行きましょうと、造成地に向けて坂道を駆け上る。両脇には、薄汚いTシャツ、ジーパンのブスねーちゃん、仕方なしに、デモ隊の先頭に立って会場まで登りつめることになった(笑)
六甲山系を削って造成途中のむき出し赤土の会場は、さながら西部劇の舞台、入り口には屈強な機動隊ががっしり固めていて、両側から挟まれて一列縦隊のみで入場を許された。何をするまでもなく、機動隊に崖っぷちに追い込まれて万事休す。
会場でぐるりとUターンさせられて、帰るならこちらと誘導され、機動隊にサンドイッチにされながら一人づつ場外に出される。あいつら汚いから、傷がつかないように、両側から腹にパンチや尻キック、眼鏡学生の眼鏡をチョップして落とす。
ということで、眼鏡と折りたたみ傘を失って、一般ノンポリ学生としての私の”闘争”は終焉した。そのときの議決(学長声明を読み上げただけ)とかで、学園封鎖は解除とされ、機動隊導入で簡単に大学は元に戻った。
かくして、大学2年生の夏休み明けから授業が再開された。それまで、自分はほとんど単位を取ってなかったので、教養部(1.5年間)で留年するつもりだったが、封鎖中の教室で、学生が「出席簿を焚火にして暖をとった」とかで、数枚のレポートだけで単位が取れてしまった(笑)
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われわれの隊列は、ほとんどノンポリ一般学生で、ヘルメットもゲバ棒ももっていない。したがって、会場の崖っぷちで回れ右して帰されたが、ゲバヘルの活動家グループには対応が違っていたようだ。
当時の神戸新聞の記事には、、高倉山の団地造成地の赤土むき出しの崖に追い込まれた学生たちが、さらに追い詰められて崖からずり落ちている写真が残されている。
いずれにせよ、急造の演題に学長代行が立っているのをチラっとみただけで、「スト解除」の声明を読み上げたのも見ていない。
>夏休みの最中の8月8日、神戸大は封鎖解除に踏み切った。教職員の手によってまず経済学部・経営学部・法学部、教育学部、教養部の封鎖解除が行われた。
>最後の勧告が出された後、バリケードが次々に撤去されていった。同日中に文学部、理学部、工学部の封鎖も解除された。そして9月以降、各学部で講議が始まり、学内は平常に戻っていった。
ということで、おしまい。あの紛争はいったい何だったんだろうか(笑)