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XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】04.戦後唯一の娯楽としての映画ブーム

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】04.戦後唯一の娯楽としての映画ブーム


戦後の日本における映画ブーム(いわゆる「映画の黄金時代」または第二の黄金期)は、主に1945年の敗戦後から1960年代初頭にかけて起こった現象です。特に1950年代後半がピークで、当時の国民にとって映画は圧倒的な大衆娯楽の王様でした。映画ブームの規模(数字で見るピーク)1958年(昭和33年):日本全体の映画館入場者数(観客動員数)が約11億2,745万人に達し、これが戦後最大の記録。当時の日本人口が約9,000万人程度 → 国民1人あたり平均約12回/年映画館に通っていた計算(赤ちゃんや高齢者含む)。
実質的に映画を見られる年齢層だと、月1回以上は映画館に足を運ぶ人が非常に多かった。

製作本数も急増し、1960年には邦画だけで547本(史上最多)を記録。
主要6大映画会社(松竹・東宝・大映・新東宝・日活・東映)が量産体制を敷き、二本立て上映が全国で定着。

この時期は「どんな作品でも客が入る」と言われるほどで、映画会社は「産めよ増やせよ」の大量生産時代でした。なぜ戦後すぐにこんなブームが起きたのか?戦後の精神的空白と娯楽需要の爆発
敗戦・焼け野原・食糧難・混乱の中で、映画は「嫌な現実を忘れられる」数少ない娯楽だった。
GHQ占領下の初期(1945〜1952年頃)  最初は『そよかぜ』(1945)+主題歌『リンゴの唄』が大ヒットし、復興のシンボルに。
時代劇は一時禁止されたが、1952年のサンフランシスコ講和条約で独立回復 → 時代劇が解禁され大ブームに。

1950年代の国際的評価と国内多様化  黒澤明『羅生門』(1951・ヴェネチアGP)、『七人の侍』(1954)
溝口健二『雨月物語』『山椒大夫』
衣笠貞之助『地獄門』(1954・カンヌGP)
→ 日本映画が世界的に注目され、自信回復。
国内ではメロドラマ(『君の名は』1953)、怪獣映画(『ゴジラ』1954)、時代劇、青春映画、社会派ドラマなどジャンルが多様化。

メディアミックスと社会現象
『君の名は』はラジオ→映画→主題歌→真知子巻きファッションと、社会現象を巻き起こした代表例。

代表的なヒット作(1950年代中心)『君の名は』(1953) — 戦後最大級のメロドラマブーム
『七人の侍』(1954)
『ゴジラ』(1954)
『宮本武蔵』シリーズ、東映任侠映画の原型
『忠臣蔵』各種バージョン
『明治天皇と日露大戦争』(1957-58) — 超大作で記録的ヒット

なぜブームが終わったのか?1953年にテレビ放送開始 → 1959年の皇太子御成婚、1964年東京オリンピックでテレビが急激に普及。
1960年代半ばには映画観客数がピークの1/3以下に激減し、映画産業は斜陽化へ移行しました。戦後復興期の日本人の「生きるエネルギー」と「現実逃避の欲求」が、映画というメディアに一気に集中した、まさに「時代そのもの」を映したブームだったと言えます。
今見ても『羅生門』『東京物語』『七人の侍』などは世界的に評価が高い名作揃いですね。

詳細


戦後にヒットした洋画は?

戦後の日本(主に1950年代~1960年代初頭)で大ヒットした洋画(外国映画)は、邦画が圧倒的に強かった時代ですが、それでもいくつかの超大作や名作が記録的な興行収入を叩き出しました。特にハリウッドのスペクタクル大作やミュージカル、ディズニーアニメが人気を集めました。当時は配給収入(興行収入の前身指標)でランキングされ、邦画が上位を独占する年が多かった中、洋画は3位~10位以内に食い込む形でヒットしていました。ピークの1958年頃でも洋画のシェアは全体の約24%程度でした。戦後日本で特に大ヒットした洋画の代表例(1950年代中心)『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind, 1939/日本公開1947年・再上映複数回)
戦後すぐの1947年に大ヒットし、1950年代にも再上映で記録的動員。配給収入で数億円規模の超ロングラン。戦後の混乱期に「壮大な恋愛叙事詩」として女性を中心に爆発的人気でした。
『ベン・ハー』(Ben-Hur, 1959)
チャールトン・ヘストン主演の超大作。11部門アカデミー賞受賞。日本では1960年公開で、当時の洋画史上最高レベルの興行収入を記録(配給収入で数億円超)。戦車レースシーンが圧倒的で、映画館が満員御礼の社会現象に。ebay.com


(上の写真は当時の日本公開時のチケット・パンフレット・ポスター。黄色基調の派手なデザインが特徴的です)

『ローマの休日』(Roman Holiday, 1953)
オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペック主演。1954年日本公開で大ヒット。ロマンティックコメディの金字塔として、女性ファンが殺到。ヘップバーンのショートヘアが「オードリーカット」として流行。

『シェーン』(Shane, 1953)
アラン・ラッド主演の西部劇。1953-54年頃に日本で大ヒット。西部劇ブームの火付け役の一つ。

『地上最大のショウ』(The Greatest Show on Earth, 1952)
セシル・B・デミル監督のサーカス大作。1953年日本公開で興行収入上位(『君の名は』に次ぐレベル)。

『白雪姫』(Snow White and the Seven Dwarfs, 1937/日本公開1950年頃再上映)
ディズニーアニメの先駆け。戦後すぐから子供から大人まで大ヒット。1950年代も再上映で健闘。

『砂漠は生きている』(The Living Desert, 1953)
1955年頃に日本で異例の大ヒット。ディズニーの自然ドキュメンタリーで、2位にランクインする年も。

『ジャイアンツ』(Giant, 1956)
ジェームズ・ディーン、エリザベス・テイラー主演。1957年頃日本公開で上位ランクイン。ディーンの遺作として話題に。

1960年代に入ると…テレビ普及で映画全体が苦戦する中、洋画も徐々に勢いを増し始めますが、戦後ブーム期のピークは1950年代です。

代表的なものは:
『ティファニーで朝食を』(1961) — オードリー・ヘップバーン再び大ヒット。
『サウンド・オブ・ミュージック』(1965) — ミュージカルとして記録的ロングラン。

戦後すぐはGHQの影響でハリウッド映画が大量流入し、邦画が追いつくまでの「洋画黄金期」でもありましたが、1950年代中盤以降は邦画が完全に逆転。洋画は「スペクタクル大作」や「ロマンス・ミュージカル」で勝負していました。




XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】03.戦後のショービジネス

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】03.戦後のショービジネス


*1947.1.15/ 新宿帝都座5階劇場で、初の額縁ヌードショーが開演される。

 東京新宿の帝都座で日本初のヌードショーが上演された。舞台上に設けられた額縁の中で、裸体の女性が数十秒間ポーズをとるだけだったが、 これまで禁じられていたヌードということで多くの観客が殺到した。「名画ショー」と称して、秦西名画の「ヴィーナスの誕生」などに見立てた構図でポーズをとった。やがて、浅草の常盤座などで本格的なストリップが上演されるようになり、全国に広がっていった。


*1947.8.1/ 新宿・帝都座で初演された空気座による「肉体の門」の大ヒットは、その後の演劇に大きな影響を与えた。

 戦後のパンパン(米兵などを相手にした娼婦はこう呼ばれた)風俗を描いた田村泰次郎作の小説「肉体の門」は、大きな話題を呼び、帝都座で新宿空気座によって初演されると、やがて1,000回を超えるロングランとなった。「肉体の解放こそ人間の解放である」というテーマが受け入れられたのかどうか、その後何度も映画化やドラマ化された。

 私も中学生のころ、納屋に転がっていた本を見つけて盗み読みした覚えがある。戦後すぐの粗悪な紙で製本されており、しかも旧字体旧仮名遣いでの印刷だったが、一向に苦にならなかった。


 映画作品としては、1964年の鈴木清順による作品を観た。野川由美子や松尾嘉代がパンパン仲間として出演し、過激な役柄を演じた。なかでも、パンパングループが一頭の生きた牛を盗んできて、みんなでさばいて食べるシーンは壮絶に印象に残っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E4%BD%93%E3%81%AE%E9%96%80_(1964%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


*1947.9.-/ 笠置シズ子が梅田劇場で「東京ブギウギ」を歌い、爆発的なブギ人気が起こる。

 笠置シヅ子は戦前から活躍していたが、当時の軍国主義下でステージは様々な制限を受けた。しかし戦後になると、歌って踊れるスターとして一躍ブームとなり、「ブギの女王」として一世を風靡した。服部良一作曲による「東京ブギウギ」が大ヒットすると、次々と「大阪ブギウギ」「買物ブギ」などのブギものをヒットさせて、「ブギの女王」と呼ばれた。

 のちに天才少女歌手と呼ばれる美空ひばりも、笠置シヅ子の物真似でデビューしたほどで、ひばりが登場するまではスーパースターとして芸能界に君臨した。私が子供のころテレビで観た笠置シズ子は、すでに歌を封印しており、大阪弁を話す不細工なおばさんとして、ドラマのわき役で登場する程度であった。


Ⅸ【歴史コラム】15.【日米開戦の背景】

 


 【歴史コラム】15.【日米開戦の背景】


 【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-3
 

◎日米開戦
*1941.7.25/ 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
*1941.8.1/ ルーズベルト大統領が、対日石油輸出を全面禁止とする。
*1941.11.26/ ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
*1941.12.8/ 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 

 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。

 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。

 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。

 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第2次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻していたにもかかわらず、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第3次近衛内閣を組閣する。

 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を10月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否される。戦争の決断を迫られた近衛は、妥協策による交渉に道を求めたが、東条英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。

 18日東条内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東条を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東条も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。

 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。

 日米交渉決裂の結果、東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた(マレー作戦)。

 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された(真珠湾攻撃)。
 

(追記2022/01/22)
 ハルノートの事実上の起草者は財務次官のハリー・ホワイトで、彼は戦後ソ連のスパイとして告発されて自殺している。ルーズベルトの周囲にはスターリン指揮下のコミンテルンのスパイが張り巡らされており。ルーズベルト自体が、容共主義者でレイシストだった。かくして彼をして、日米開戦を推進する状況が整っていた。

 一方で、日本の近衛首相も公家の血を引きながら、「貧乏物語」で有名な社会主義者 河上肇に学ぶため京都帝大に転学するなど、社会主義的な思想に馴染んでおり、首相となった近衛の周囲には、やがてゾルゲ事件で死刑となる尾崎秀実や、戦後は社会党顧問になった社会主義者 風見章など、コミンテルンの息のかかったスパイが内閣の中枢に絡んでいた。

 スターリンは、ヒトラードイツの侵略を想定しており、東方の満州を支配している日本と対立しないために、日ソ中立条約を結び、さらに日本を南進させる工作を、ゾルゲなどを通じて進めていた。他方で、アメリカにも日米開戦に向けさせるようにルーズベルト周辺に工作員を侍らせた。

 かくして、真珠湾攻撃の情報を得ながら、無視して攻撃させたルーズベルトは、日米開戦にこぎ着け、さらに念願のヨ-ロッパ戦線に参画するのに成功した。そして、東方戦線の憂慮を消すのに成功したスターリンは、すべての戦力をナチスドイツとの西部戦線に投入できたわけだ。

 スターリンの指揮下のコミンテルン恐るべし、という話が、ソ連崩壊やソ連の戦時中の暗号電信を解読したヴェノナ文書などで、徐々に明らかになりつつあるようである。
 

(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍のアメリカ文化とパンパン風俗

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍のアメリカ文化とパンパン風俗


 敗戦後、連合国軍によるGHQの創設とともに、進駐軍として米兵を主とする多くの連合国兵が日本各地に駐留するようになった。そして進駐軍の駐留基地を中心として、多くの米国文化が日本にも普及しだした。

 ジャズをはじめとした米音楽やダンスが広まり、東京・大阪などの大都市に「米兵向けダンスホール」が急増(1946年頃には東京だけで200軒以上)。ここではルンバ、タンゴ、フォックストロット、ジルバ(ジルバ=ジャイブの日本風呼称)が盛んに踊られた。


 日本人ダンサー・バンドマンが米兵相手に演奏・ダンス指導を行い、生計を立てるようになった。有名な例では、後の大物ミュージシャン(服部良一、淡谷のり子、笠置シヅ子など)がこの時期にジャズやブギウギに深く関わっていて、また、美空ひばりとともに「三人娘」として売り出した江利チエミや雪村いずみは、進駐軍のキャンプ巡りでジャズなどをマスターした。

 戦後唯一の娯楽とされた映画界でも、GHQによりチャンバラ映画が禁止され、「アメリカ映画普及」のための配給窓口会社「CMPE(Central Motion Picture Exchange)」が東京に設立された。それにより、アメリカ映画を中心とした「洋画」ブームがおとずれた。


 進駐軍の兵士が利用する「進駐軍クラブ」により、「最新の英米の文化」がもたらされた。当時のアメリカで流行の「スウィング・ジャズ」がもたらされるとともに、クラブで提供された「ビールやウィスキー」などの洋酒が、従来の日本酒や焼酎にとって代わり、急激に普及した。


 戦後の食糧困窮時期には、GHQにより「学校給食への食糧援助」が行われ、アメリカでの余剰品や家畜飼料用の小麦や脱脂粉乳が充てられて、「パンを主食」とする食習慣が導入された。そして一般家庭にも、「食事の洋風化」が浸透した。

 その一方で、敗戦直後の混乱期の風俗文化では、「パンパン」と呼ばれる米兵相手の街娼が街中にあふれた。生活のツテをもたない若き戦争未亡人や、爆撃で焼け出された元令嬢までも、止むを得ず街頭に立ったという。

 また、GHQの公娼廃止指令により戦前からの公娼制度が廃止されると、「特殊飲食店」として表向きは飲食を提供しつつ、実質的に売春婦を配置する施設が急増し、これらは「赤線」と呼ばれた。さらに、風俗営業法の認可を得ず闇営業する地域は「青線」とされた。


 このような昭和戦後の風俗文化は、「売春防止法」の成立で規制されることなり、特殊飲食店は、さらに「マントル嬢」「ソープ」「ファッションヘルス」といった多様な形態へと変遷していった。 



XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化


 「カストリ復刻版(s50年刊)」という雑誌が手元にあった。「カストリ雑誌」とは、戦後焼跡闇市の時期、雨後の筍のように発刊された粗悪な作りの雑誌の総称である。戦後の食糧不足時代、駅裏などの闇市で売られた粗悪な焼酎や怪しげな密造酒などを「カストリ酒」と呼び、同様に粗悪乱造され、エロ・グロ・ナンセンスを売りにした雑誌を「カストリ雑誌」と呼んだ。

 「三合も飲めば潰れる」と言われたカストリ酒にかけて、カストリ雑誌も「三号」も続けば良いというダジャレからそう呼ばれた。カストリ雑誌によく登場する当時の流行語らしきものを、ランダムに挙げてみると当時の世相がイメージされてくる。「カストリゲンチャー」「リンタク」「デンスケ」「裏口営業」「エロショウ」「モク拾い」「ピロポン」「パンスケ」e.t.c

 これらの文物が世間に見られた時代の大衆文化は、「カストリ文化」とも呼ばれ、それは「戦後闇市文化」でもあった。カストリ雑誌のブームは1946(昭和21)~ 1949年(昭和24年)頃と言われ、意外に短く終焉して行った。それは朝鮮特需が始まり、やっと物も行きわたり出し、敗戦のどん底から復興の兆しが見えてきたことと並行していた。

 この時期に活躍した写真家 林忠彦著「カストリ時代/レンズが見た昭和20年代」では、まさしく時代の空気を映し出した写真が多く見られる。林は当時の文士を切り取った写真でも有名である。

 太宰治、坂口安吾、織田作之助など「無頼派」とも呼ばれた彼らは、まさしく、この時代と格闘し討ち死にしたような作家生涯を送った文士である。当方は生まれて間もない時期だったので、当時の状況を知る由もないが、何故か彼らの生きた時代が懐かしく思える。

 当時の闇市で怪しげなカストリ酒を飲んで頓死したひとりの文学青年を悼んで、友人の若き詩人が記した一片の詩がある。

 「死にたい奴は死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」
ひたすら生きることへの切迫感のただ中だからこその、無二の親友への追悼詩である。

Ⅷ【生活文化コラム】14.【資生堂男性化粧品 MGギャラック】

【生活文化コラム】14.【資生堂男性化粧品 MGギャラック】


 めずらしい「MGギャラック」のポスター。資生堂男性化粧品で一世を風靡した「MG5」と「ブラバス」だが、その間に挟まれて短命で終わったのがMGギャラック。MG5の団次郎、ブラバスの草刈正雄はイメージが定着しているが、それらに比べるとMGギャラックの二瓶正也は影が薄い。
 わたしは昭和43(1973)年に資生堂に入社して、京都(販売)支社に配属された。MG5でばっちり整髪して支社での入社式にのぞんだのだが、階段でベテラン美容部員の集団とすれ違うとき、クッサ~という声が聞こえた。

 資生堂男性整髪料と言えばMG5としか知らなかったが、その時にはすでにブラバスなどが発売されていて、MG5は安物のランクに入っていたようだ。入社早々、いきなり美容部員集団の洗礼を受けた図であったのだ。

 入社式の帰り道、さっそく資生堂化粧品店に飛び込んで、ワンランク上のMGギャラックを買った。すでにブラバスも発売されていたが、MG5との価格差が大きく、その中間の価格帯にカネボウのエロイカやマンダムなどが発売されて、隙間を侵食されつつあった。そこで、その価格帯でMGギャラックを発売したのだった。

 しかし草刈正雄を起用して本格的にブラバスのCMが展開されると、ブラバスへの移行が進み、MGギャラックの使命は終わって杯盤となった。よって、MGギャラックを使った世代は極めて少ないと思われる。ギャラックを使った人がいたら手を挙げてくれ、アッピールするチャンスは二度とこないぞ(笑)

Ⅶ【サブカル関連コラム】15.【大衆芸能と伝統芸術】

 【サブカル関連コラム】15.【大衆芸能と伝統芸術】


 戦前昭和の芸能界の出来事を書いてたら、コメント欄で以外に面白い展開になった。ある種の「大衆芸能論」としても読めるので、収録しておく。

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『Get Back! 30's / 1937年(s12)-2』
○7.3 [東京] 浅草に国際劇場が開場。松竹少女歌劇団が国際東京踊りを上演する。
○9.- [東京] 益田喜頓・川田晴久・坊屋三郎・芝利英が「あきれたぼういず」を結成する。
○11.12 [京都] 松竹から東宝に移籍した俳優林長二郎(長谷川一夫)が、暴徒に切りつけられ、左顔面に重傷を負う。
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Satomi Koike 浅草と言えば...「伝助劇場」

佐々木 信雄 晩年にはTVに出てたから知っている。子供心に、どう見てもテレビ向きの芸ではないと思えた。すでにクレージーキャッツのコントなどに馴染んでいたので、デンスケは古い芸に思えた。やはり芝居小屋でやってなんぼの芸なんだな。これはエノケンなどにも言える。

ロス 恭子 いや、それは当時の佐々木さんが若かったからだと思う。伝助を舞台で知ってた人達はTVでも充分に楽しんでたと思う。伝助劇場の時は知らない人が何人も見に来てたもの。

佐々木 信雄 だから、舞台あっての芸、ということ。

ロス 恭子 漫才だってそうじゃないの??

ロス 恭子 ドリフの芸も舞台をそのままTVにしてたじゃん。8時だよ全員集合!なんて、ゴールデンタイムよ。

佐々木 信雄 漫才はエンタツアチャコの時代で、ラジオ放送でも聞かれるようになった。その後も、どんどんテレビ用に進化していった。

佐々木 信雄 ドリフなど、完全にテレビ用の大道具仕掛けで成り立っていた。あれは、観客が居なくてもなりたつコント仕立てだ。

ロス 恭子 伝助もそうだったよ! 強いて言えば、年末よく見る宝塚なんかと同じ。宝塚ほどつまらない芸はないと思っちゃうけど。。。


佐々木 信雄 宝塚も、入れ込んだファンの熱気があって成り立つ舞台、テレビで放映されても白けるわ(笑)

ロス 恭子 それはもの凄く言える!! あんなのにTV電波使うのはもったいない。

佐々木 信雄 元来、歌舞伎もそうだが、フリークなファンが醸し出す熱気の元で成り立つわけで、NHKがTV中継するのは「伝統芸」としてだけ(笑)

ロス 恭子 歌舞伎ねぇ。。。あれこそTVじゃダメよね。


でも、アップも撮れるから良いのかもしれないけどね。。。

佐々木 信雄 ほかの事しながら何となくTVをつけてる一般家庭では、歌舞伎も宝塚も、ほぼ関心ないのだなw

ロス 恭子 私は初めてベルばらをTVでやるからと、どんなものか観てみたのよ。観てるうちに腹が立ってしまった。だからなんとなくじゃない。で、もう二度と見ないな。

佐々木 信雄 テレビで観る価値があるのは、能の舞台の放映ぐらいかな。あれは一種の仮面劇で、舞台が「絵」として成り立つようになっている。舞台だけでは、微妙な仕草や能面の「表情」など、見えないないものが、テレビではアップで映し出される。



ロス 恭子 あ!それは同感したい!でもね、やっぱり能はあの踏み込んだときの反響音がないとダメよ。できれば野外がいい。
 渋谷にある能楽堂には、仕事で(舞台の中の修復作業ね)何度か行ったことがあるけど、素晴らしかった。野外ならもっと良かろうにと思ったものだわ。観世能楽堂のこと、今は引っ越してしまったけど、松濤という高級住宅街の真ん中にあった。

佐々木 信雄 能の舞台は、中学校の卒業研修とかで、京都岡崎の能楽堂でサワリだけ見学した。60年近く前だから、何一つ憶えておらん(笑)

ロス 恭子 今こそお金払ってでも観るべきよ!

佐々木 信雄 ニキビづらの中学生に見せても、馬に見学させるようなもんだw

ロス 恭子 ねぇ、京都にいるんだから、文楽観てきたら?あれもただの人形劇じゃないよ!いいんだわ、すごく。。。

佐々木 信雄 それが判るようになるには、30回ぐらいは足を運ばなくてはならん、めんどいわw

ロス 恭子 能が好きかも知れないと思うなら、きっとのめり込めるから、すんなり分かると思う。。。3回だな。

佐々木 信雄 歌舞伎も、学生のころ南座のマネキを観ただけ。それも3階最奥のチープ席、フランス革命のジャコバン党員になった気分だったわw

ロス 恭子 私もこっちでオペラをそういう席で観た!なんか、右手の拳を上げたくなる座席よね。。。

佐々木 信雄 崖の上から覗き込む感じだなw

ロス 恭子 それ!! でもね、パリのオペラ座では、オペラよりもシャガールが観たかったから得得した気分だった。

佐々木 信雄 エノケンもそうだが、舞台と観客との応答があって成り立つ芸。

佐々木 信雄 モーパッサンがフローベルに師事した時の話。

 丘の上にあるフローベルのアトリエに、毎日、同じ石畳の道をテクテクと通う。で、お茶飲み話し程度の雑談をして帰るのが日課だった。

 唯一フローベルが指示したことは、毎日通って来る石畳の道のことを、毎日書け!
 毎日同じ石畳だが、いざその様子を書くとなると、その日ごとに光線の具合とか、微妙に違っているのに気付く。

 能や文楽など、既に伝統芸能とされているものは、それぐらいに入り込まないと、さっぱり分らないと思う。今んとこ、分かるためのモチベーションがないから、テレビでたまに眺めるだけだな(笑)

佐々木 信雄 わりとまともな芸論とゲイ論の展開だ(笑)

Satomi Koike 江戸時代は役者は舞台がはねると売春しとったな、歳若い男なんぞは坊主に買われたり、金持ちの年増女に買われたり

佐々木 信雄 ホスト養成所みたいなもんやw

Satomi Koike 今の芸能界も売れるまでは枕営業は公然の秘密だし

佐々木 信雄 TVは商品展示のギャラリーみたいのもんだなw




Satomi Koike
 最近はネットアイドルとか地下アイドルとかご当地アイドルなんて言うのもいるしね