Ⅲ【社会時事コラム】16.「旭丘中学事件」再考
「京都 旭丘中学校偏向教育事件(1953.4.29)」(あれやこれやblog)
調べてみると、検索エンジンやAIの進化により、より多くの関連情報が見つかった。上記記事の「捕集」として追記しようと思ったが、かなり長くなるので「再考」として、この独立した記事にした。参考記事を読みだすと、次々と新しい記述が見つかり、読むだけで多大な時間を使ってしまったw
この校歌は、私の学生生活で唯一ちゃんと憶えた歌だ。何か事あるたびに、生徒手帳にきざまれた校歌の歌詞を見ながら歌わされたので、いやでも憶えてしまった。戦後の新制中学校らしく、明るくテンポの良い歌詞と曲なので今でも頭に浮かんでくることがある。この曲が生まれた過程にふと興味をもって、XのAI Grokにたずねてみた。
すると、なんと旭丘事件の中心教諭の一人、「寺島洋之助」教諭の手による作詞作曲だと知った。旭丘中の沿革なども含まれるので、以下 長いが引用しておく。
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(Grok AIによる)
京都市立旭丘中学校の校歌は、1950年(昭和25年)10月13日に制定されました。作詞・作曲はいずれも当時の同校教員だった寺島洋之助氏によるものです。
1947年(昭和22年)5月5日:京都市立待鳳中学校として創立(待鳳小学校内に併設)。
1948〜1949年:分離独立や新校舎への移転・開校式を経て、現在地に落ち着く。
1950年1月1日:校名を「京都市立旭丘中学校」に改称。
1950年10月13日:校歌および校章を制定。
校歌制定は、校名変更後間もなく、学校の基盤が固まる時期に行われました。歌詞は「かがやく丘に草もえて」「比叡の風に友をよぶ」「みとせのゆめのゆりかごよ」「旭丘に光あれ」など、学校の立地(丘)や比叡山、希望・理想・友情・未来への願いを歌った内容です。画像の歌詞と一致しています。
寺島洋之助氏は同校の教員で、作詩・作曲の両方を手がけています。後に1953〜1954年の「京都旭丘中学事件」(教育方針をめぐる対立事件)で中心的な存在の一人となり、懲戒免職処分を受けましたが、校歌はその事件より前(1950年)に作られたものです。
事件関連の記録や講演などで「寺島洋之助が作った校歌」と明確に言及されており、事件中も「校歌も歌えなくなる」といった話が出るなど、学校の象徴として認識されていました。
公開されている学校沿革史や公式情報では、「制定した」という事実と日付は確認できますが、公募の有無、歌詞・曲の具体的な起草過程、委員会での検討、生徒・保護者の関与などの詳細な記録はほとんど見当たりません。
戦後直後の新制中学校設立期によくあったように、教員が自ら作詞・作曲して学校のアイデンティティを固める形だった可能性が高いです。学校公式サイトの校歌ページも沿革の一部として掲載している程度で、制作エピソードの詳細は記載されていません。
(以下 略)
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次に、この「寺島洋之助」教諭がどんな教師だったのかに、興味がわいた。寺島教諭に関した記事はあまりみつからなかったが、もう一人の「山本正行」教諭に関するものがあった。これは書籍として出版されてるもので、山本教諭の奥さんも共著者となっているが、リンク先で読めるのは目次項目だけである。
もう一冊、旭丘中学校事件が詳しく書かれたであろう「旭丘中学校の記録」という出版物があり、これも紹介だけで内容は読めない。しかし、事件の三教諭が、当時の生徒たちに囲まれたにこやかな写真が掲載されていた。
*終戦後に新制中学校となった各校の教諭たちは、戦前の軍国主義教育に携わった教師たちが排除されたため、校長・教頭など幹部をふくめて、20代から30代の若い教育者が多数だった。
三人のうち「北小路昂」教頭は、その立場上一番のリーダーと思われがちだが、実際には寺島教諭が、自分の担任する三年生のクラスで始めた活動が起点となっている。北小路昂教頭は、教職員組合の幹部でもあり、組織活動を熟知したリーダーとして請われたようである。
北小路昂教頭に関する逸話で、もっとも興味深いのは、これかも >1960年代の学生運動(全学連・中核派)において最高幹部として活動した「北小路敏」の実父にあたります。
この息子の「北小路敏」は、紫野高で私の大先輩にあたるようだ。京大の経済に進んだ秀才なんだろうけど、蛙の子は蛙ではなく大蝦蟇でありましたw
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(Grok AIによる)
北小路昂(きたこうじ たかし、表記は「昴」とされることもあります)は、昭和時代に活躍した京都の教育者であり、政治家です。
戦後、教育界や社会運動において大きな波紋を呼んだ「京都旭丘中学事件」の中心人物の一人として知られています。
主な経歴と人物像
• 旭丘中学校の教頭へ
1949年(昭和24年)に京都市立旭丘中学校の教諭となり、1953年(昭和28年)には教職員組合(組合系)の支持による「教員選挙」という独自の形で教頭に選出されました。同校で独自の民主主義教育を実践しました。
• 京都旭丘中学事件
当時の教職コミュニティや教育方針を巡り、京都市教育委員会や一部の親(保守系)との間で激しい対立が発生しました(旭丘中学事件)。市教委から下された他校への転任内示を拒否したことなどをきっかけに「偏向教育の主導者」とみなされ、1954年(昭和29年)に懲戒免職処分を受けました。
• その後の活動
免職後は、京都府民主医療機関連合会(民医連)の事務局長や保育園の園長を務めたほか、政治の世界に転身して京都府議会議員も務めました。1965年(昭和40年)に57歳で没しています。
• 家族
1960年代の学生運動(全学連・中核派)において最高幹部として活動した北小路敏の実父にあたります。
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ほかに、次の動画は、事実関係を主に比較的中立的に作成された、AI動画かと思われるが、全体像を把握するには分かりやすいかも。
「京都旭丘中学事件」(youtube動画)
こちらもyoutube動画だが、私と同年代(団塊世代)のオバサン二人が、46年振りに旭丘中を訪れる動画で、懐かしい在籍時の校舎風景などが見られる。当時の正門は東に面していて、坂道を登ってたどり着く。現在は、西側の北山通り(十二間通と呼んだ)に面したところが正門になっているが、当時は畑ばかりで何もなかった。
最後に、旭丘事件を再考した長論文である。事件当時の状況が詳しく書かれていて、もっとも参考になった記述だが、教職員組合関係で書かれたもので、組合員教師側の視点に立っているので、その点は承知しておく必要がある。
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(AI による概要)
李伽耶による論文 「京都旭丘中学事件」再考―事件発生前の校内言論空間に着目して―は、1953年から1954年にかけて発生した同事件を、事件発生前の生徒や教員による校内の言論空間の視点から再検討している。
教職員組合による指導が生徒を政治的枠組みに組み込む一方で、生徒たちは多様な意見を交わす言論空間を自主的に維持しようとしていたが、保護者らの介入により変容していった。論文の詳細は、J-STAGEから閲覧可能である。
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事件前の「校内言論空間」について、主導教師側と学校側と父兄側と、それらに巻き込まれて行く生徒の視線を中心に論じられている。生徒会・学校新聞・文芸部など、それなりのしっかりした見解が述べられており、これが当時の中学生おどろかされる。
事件当時者とされた三教諭たちが、生徒たちに親しまれる熱血教師でもあったのが意外だった。その様子から、校歌の作者が寺島教諭だったという意外性にも、当時の空気を知ることで納得できたのであった。





























































