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XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】07.少年雑誌と漫画の世界

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】07.少年雑誌と漫画の世界

 1955年にGDPが戦前水準を越えると、翌年の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言した。60年安保が終わり池田内閣が始まると、所得倍増計画を発表し、政治から経済の季節へと移った。以降、10年以上に渡った高度経済成長期には、生活水準の飛躍的向上に伴い、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの「三種の神器」が普及し、大量消費社会が到来した。

Ⅶ【サブカル関連コラム】16.【つげ義春の訃報】

Ⅶ【サブカル関連コラム】16.【つげ義春の訃報】


 つげ義春の訃報が伝えられた。 「ねじ式」「沼」「 紅い花」など芸術性の高い前衛漫画で知られ、国際的にも高く評価されていた「つげ義春」が、2026年3月3日、 誤嚥性肺炎のため88歳で死去したという。

 つげ 義春は1937(s12)年生まれで、18歳で「貸本雑誌」でデビューしたが、その後1967年に月刊漫画雑誌「ガロ」で「ねじ式」を発表、多くの読者・文化人に衝撃を与えた。私自身は「ガロ」のさほど熱心な読者ではなかったが、その評判は気になっていた。

 1960年前後は、「少年サンデー」「少年マガジン」といった少年向け週刊誌が発刊され、漫画誌の移行期であり、少年向けの漫画家が多く誕生した。一方で、テレビの誕生で紙芝居が廃れて、紙芝居画家の多くは「貸本漫画」に移行していて、「影」「街」などホラーやサスペンスの「劇画」が隆盛しつつあった。
 「ガロ」は1964年、貸本漫画の編集者 長井勝一と漫画家 白土三平により発刊された。白土のスケールの大きな作品「カムイ伝」を連載するのが、創刊の最大の目的だったが、同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。

 「ガロ」は、先見性と独自性で一時代を画し、それまで無かった個性的な漫画家たちが集い、それらの作風は「ガロ系」と呼ばれた。それまでの少年漫画と異なり、より高い年齢層の青少年に読まれて、新しい「青年漫画雑誌」というジャンルを切り開いた。

 当初の「ガロ」は、白土の「カムイ伝」と水木の「鬼太郎夜話」の2本柱で展開されたが、そこにつげ義春が登場すると、その幻想性、叙情性の強い哲学的作風により、さらに「ガロ」の世界を拡大した。

 つげ義春の漫画は、商業的な娯楽漫画とは一線を画し、暗い叙情、ユーモア、不安、疎外感を静かに描き、全共闘世代などにもガロは熱狂的に支持された。漫画史に画期をなし、寡作ながら作品の芸術性は国内外で高く評価されている。映画化や全集刊行も多数あり、近年は欧米での翻訳・再評価も進んでいるという。


つげ義春 代表作
『ねじ式』(1968年):夢のような超現実世界を舞台にした前衛的な短編。迷路のような不条理な物語で、漫画表現の革新として衝撃を与え、「つげブーム」を巻き起こした。シュルレアリスム的と評されることが多い。

『紅い花』(1967年):少女が大人になる瞬間を叙情的に描いた作品。夏の日の情感が美しい。

『沼』『李さん一家』『ゲンセンカン主人』『もっきり屋の少女』など:うらぶれた温泉や漁師町を舞台に、暗い情念や日常の不条理を織り交ぜた短編群。

『無能の人』(1980年代):主人公の「無能さ」や貧困・挫折を淡々と描いた私小説風連作。


Ⅺ【おもいつき歳時記】06.【七夕】

Ⅺ【おもいつき歳時記】06.【七夕】


 「端午の節句」(5月5日)は、男子の成長と健康を願い、鎧・兜・鯉のぼりなどを飾る日である。菖蒲を飾り、その強い香りで厄を払う「菖蒲の節句」とも呼ばれ、菖蒲湯に入る風習もあり、男子の将来の立身出世を祈る。

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】06.高度経済成長と大衆文化

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】06.高度経済成長と大衆文化


 1955年にGDPが戦前水準を越えると、翌年の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言した。60年安保が終わり池田内閣が始まると、所得倍増計画を発表し、政治から経済の季節へと移った。以降、10年以上に渡った高度経済成長期には、生活水準の飛躍的向上に伴い、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの「三種の神器」が普及し、大量消費社会が到来した。

 1960年代後半には、新三種の神機(3C)と呼ばれたカラーテレビ・クーラー・自動車が急速に普及し、家事の省力化と、家庭内で娯楽を楽しむ生活様式が定着した。所得が倍増し、9割の国民が中流意識を持つようになり、「一億総中流」社会が形成された。このように、経済的な豊かさが、文化の主役を「特別なもの」から「誰もが享受できるもの」へと変貌させた。

 大衆文化の広がりには、家庭の中心に据えられたテレビの影響が圧倒的だった。TVによるドラマ、アニメ、バラエティが、全国共通の話題になり、学校でも生徒の間の話題はもっぱらテレビ番組で、観ていないと話題についていけなくなるほどだった。

「ALWAYS 三丁目の夕日」

 若者が大衆文化の前線に登場し、音楽・映画・ファッションで若者文化が花開いた。音楽では、ビートルズの影響などからロックブームが起き、一方で反戦歌などからフォークが導入された。それらが日本的に融合して「グループサウンズ」などが誕生し、「受け取る音楽から自分たちが作る音楽へ」と変貌していった。

 ファッション界でも、雑誌やテレビのCM主導で「アイビー族」「アンノン族」が登場し、ミニスカート、ジーンズが一般的な普段着となり、既製服メーカー(アパレルメーカー)が送り出す安価でファッショナブルなアパレルを身に着けた、カジュアルで個性的な若者ファッションが街中にあふれた。

 さらに消費・レジャーの拡大で、旅行(ディスカバージャパン)、外食(ファミレス/回転寿司の登場)などで娯楽支出が増加、「モノの豊かさ」から「心の豊かさ」やライフスタイル重視へ移行が見え始めた。 

 このような「大衆社会」の進展にともなって、一方で、画一化・消費至上主義批判もなされるようになり、テレビによる意識の均質化、公害・過密問題、伝統の希薄化などがさけばれた。それらへのイラダチは、過激な「学生運動」にも反映され、一方では無関心・無気力な「しらけ世代」が現れた。

◎時代の変遷を示す流行語
*「重厚長大」から「軽薄短小」へ(花形産業)
*「モーレツからビューティフルへ」(1970年/富士ゼロックス)
*「大きいことはいいことだ」(1967年/森永製菓)
*「となりのクルマが小さく見えます」(1970年/日産サニー)
*「のんびり行こうよ おれたちは」(1971年/モービル石油)


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】05.草創期のテレビ文化

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】05.草創期のテレビ文化


 1953年2月1日、NHKがテレビ本放送を開始。8月28日には民放のトップを切って日本テレビ ( NTV )が本放送を開始した。テレビジョンは日本でも戦前から研究が進み公開実験放送を行うまで来ていたが、太平洋戦争のために中断を余儀なくされ、テレビの実用化は1946年の研究解禁を待つことになる。

 この開始の年すでにNHKでは、「ジェスチャー」「のど自慢素人演芸会」「大相撲中継」「NHK紅白歌合戦」などの番組を始めており、日本テレビでも「プロ野球巨人戦」が中継された。しかし、当初の受信契約者の多くはアマチュアによる自作の受像機、ほかは海外から輸入の受像機、国産初はシャープ製で175,000円、当時の会社員給料の数年分相当であったという。

 読売新聞社の総帥正力松太郎は政界への影響力を行使して、最初の民放テレビ「日本テレビ」を開局にこぎつけたが、広告を収入源とする民放では視聴者数の確保が第一。そこで「街頭テレビ」の設置を推進し、力道山のプロレス中継などで大観衆を集めた。当時はビデオテープが高価で、スタジオドラマやバラエティ番組はほとんどが生放送、スポーツ中継も当然生中継しかなかった。その他、ニュースや劇場映画や外国輸入テレビ映画などは、もちろんフィルム撮影のものだった。

 自身のテレビ体験から振り返ると、街頭テレビを直接に見た記憶はない。商店街の電気店などはラジオ工作キットなどを扱っているところが多く、その技術で自作のテレビを制作して店頭で放映して観せていたのが、最初のテレビ体験だった。次に普及し出したのはうどん屋などの大衆食堂、これは当然客寄せのためで、数十円のうどん代だけ持って観に行った記憶がある。

 その次の手段は、近隣で先にテレビの入った家に観せてもらいに行くこと。電話もそうだったが、当時に先にテレビの入った家は、ある種のノブレス・オブリージュ(高貴者の義務)ということで、電話の取次ぎはもちろん、テレビを観に来た子供たちを追い返すことはなかった。ただし、たいていは意地の悪いバカ息子とかが居て、こちらが観ているチャンネルをガシガシャと変えるのであった。

 そして自分たちの家にもテレビが手の届く状況になったが、自分の家ではなかなか買ってくれない。ほとんど周りの家に入ったが、こいつところだけには負けないと思っていた近所の遊び仲間とこが、商店街の抽選一等賞を当てて先に入れられたのは悔しかった。


 さすがに、テレビ受像機の中に人が入っていろいろ演じていると信ずるものはなかったとおもうが、テレビの醸し出すリアル感はすごいものであった。のちのカラーテレビでは、プロレス中継での流血画像を観て、ショック死した老人がいたというのが話題になった。
 
 アメリカからの輸入物テレビ映画も多く放映されていて、「名犬ラッシー」だの「ローハイド」など、ジャンルに拘わらず何でも観たものだが、観せてもらいに行っていた向かいの家の婆さん曰く、「最近の外人さんは日本語がうまいねぇ(笑)」。テレビは一般大衆が家庭で観るので、劇場映画と異なって、外国TV映画もすべて声優による吹替だった。

 1950年代後半から高度経済成長が本格化すると、テレビは「三種の神器」(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)のひとつとして数え上げられた。1959年の皇太子(現上皇)ご成婚のパレード中継で一気に普及し、家族でテレビを囲む家庭団らん風景が当然となった。

 1960年代に入ると視聴時間が急増、ラジオを抜いて家庭の主な娯楽メディアとなり、それまで娯楽の主役だった映画を抜いて、映画産業の衰退を引き起こした。子供たちはテレビにかじりつき、「テレビが子どもに悪影響を及ぼすのでは」という懸念も持ち上がった。

 子供だけでなく大人までもが低俗な番組を見て喜ぶ様子を、社会評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」と名付けて、一躍流行語となった(「総」をつけたのは作家松本清張)。テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう、という意味合いの言葉で、テレビの負の側面をあぶりだした。

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】04.戦後の娯楽としての映画ブーム

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】04.戦後の娯楽としての映画ブーム


 敗戦後、庶民の楽しみとして映画ブームがおこった。1945年の敗戦後から1960年代初頭にかけて、当時の国民にとって映画は圧倒的な大衆娯楽の王様だった。

 主要な国内映画会社が、各社の特徴を打ち出し制作された映画は、各社の系列映画館を中心に、二本立て上映されるようになり、これが全国で定着した。焼け野原・食糧難・混乱の中での戦後の精神的空白を埋めるべく、映画は夢を与えてくれる数少ない娯楽だった。


 1950年代には、黒澤明『羅生門』、溝口健二『雨月物語』、衣笠貞之助『地獄門』が海外映画祭で受賞するなど、 日本映画が世界的に注目され、自信回復した各社は競って大作を作るようになった。


 国内各社からは、邦画史に残る名作が次々に生み出された。『東京物語』(1953/松竹)、『君の名は 』(1953/松竹)、『七人の侍』(1954/東宝)、『ゴジラ』(1954/東宝)、『宮本武蔵』 (1961/東映)、『忠臣蔵』(1958/大映)など、次々と大ヒット作品が上映された。


 一方、洋画では、『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind, 1939/日本公開1947)、『ベン・ハー』(Ben-Hur, 1959)、『ローマの休日』(Roman Holiday, 1953)、『シェーン』(Shane,  1953)、『ジャイアンツ』(Giant, 1956)、『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany’s1961)などなど、ハリウッド映画の名作が洋画館で上映され話題を呼んだ。

 しかし、1953年にテレビ放送が開始され、1959年皇太子御成婚、1964年東京オリンピックなどでテレビが急激に普及すると、映画館への客足は遠のき、1960年代半ばには映画観客数は激減、映画産業は斜陽化へ移行してしまった。



XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】03.戦後のショービジネス

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】03.戦後のショービジネス


*1947.1.15/ 新宿帝都座5階劇場で、初の額縁ヌードショーが開演される。

 東京新宿の帝都座で日本初のヌードショーが上演された。舞台上に設けられた額縁の中で、裸体の女性が数十秒間ポーズをとるだけだったが、 これまで禁じられていたヌードということで多くの観客が殺到した。「名画ショー」と称して、秦西名画の「ヴィーナスの誕生」などに見立てた構図でポーズをとった。やがて、浅草の常盤座などで本格的なストリップが上演されるようになり、全国に広がっていった。


*1947.8.1/ 新宿・帝都座で初演された空気座による「肉体の門」の大ヒットは、その後の演劇に大きな影響を与えた。

 戦後のパンパン(米兵などを相手にした娼婦はこう呼ばれた)風俗を描いた田村泰次郎作の小説「肉体の門」は、大きな話題を呼び、帝都座で新宿空気座によって初演されると、やがて1,000回を超えるロングランとなった。「肉体の解放こそ人間の解放である」というテーマが受け入れられたのかどうか、その後何度も映画化やドラマ化された。

 私も中学生のころ、納屋に転がっていた本を見つけて盗み読みした覚えがある。戦後すぐの粗悪な紙で製本されており、しかも旧字体旧仮名遣いでの印刷だったが、一向に苦にならなかった。


 映画作品としては、1964年の鈴木清順による作品を観た。野川由美子や松尾嘉代がパンパン仲間として出演し、過激な役柄を演じた。なかでも、パンパングループが一頭の生きた牛を盗んできて、みんなでさばいて食べるシーンは壮絶に印象に残っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%89%E4%BD%93%E3%81%AE%E9%96%80_(1964%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)


*1947.9.-/ 笠置シズ子が梅田劇場で「東京ブギウギ」を歌い、爆発的なブギ人気が起こる。

 笠置シヅ子は戦前から活躍していたが、当時の軍国主義下でステージは様々な制限を受けた。しかし戦後になると、歌って踊れるスターとして一躍ブームとなり、「ブギの女王」として一世を風靡した。服部良一作曲による「東京ブギウギ」が大ヒットすると、次々と「大阪ブギウギ」「買物ブギ」などのブギものをヒットさせて、「ブギの女王」と呼ばれた。

 のちに天才少女歌手と呼ばれる美空ひばりも、笠置シヅ子の物真似でデビューしたほどで、ひばりが登場するまではスーパースターとして芸能界に君臨した。私が子供のころテレビで観た笠置シズ子は、すでに歌を封印しており、大阪弁を話す不細工なおばさんとして、ドラマのわき役で登場する程度であった。