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Ⅲ【社会時事コラム】16.「旭丘中学事件」再考

Ⅲ【社会時事コラム】16.「旭丘中学事件」再考

「京都 旭丘中学校偏向教育事件(1953.4.29)」(あれやこれやblog)

 「京都旭丘中学事件」については、上記で詳述した。ただその後、私の在籍していたときの校歌の作者(作詞作曲とも)が、偏向教育に関わって免職になった3教諭の一人だと聞いて、より詳しく知りたくなった。

 調べてみると、検索エンジンやAIの進化により、より多くの関連情報が見つかった。上記記事の「捕集」として追記しようと思ったが、かなり長くなるので「再考」として、この独立した記事にした。参考記事を読みだすと、次々と新しい記述が見つかり、読むだけで多大な時間を使ってしまったw

 まず、きっかけとなった校歌の作者について。

 この校歌は、私の学生生活で唯一ちゃんと憶えた歌だ。何か事あるたびに、生徒手帳にきざまれた校歌の歌詞を見ながら歌わされたので、いやでも憶えてしまった。戦後の新制中学校らしく、明るくテンポの良い歌詞と曲なので今でも頭に浮かんでくることがある。この曲が生まれた過程にふと興味をもって、XのAI Grokにたずねてみた。

 すると、なんと旭丘事件の中心教諭の一人、「寺島洋之助」教諭の手による作詞作曲だと知った。旭丘中の沿革なども含まれるので、以下 長いが引用しておく。

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(Grok AIによる)
 京都市立旭丘中学校の校歌は、1950年(昭和25年)10月13日に制定されました。作詞・作曲はいずれも当時の同校教員だった寺島洋之助氏によるものです。

・学校の沿革と制定の時期
1947年(昭和22年)5月5日:京都市立待鳳中学校として創立(待鳳小学校内に併設)。
1948〜1949年:分離独立や新校舎への移転・開校式を経て、現在地に落ち着く。
1950年1月1日:校名を「京都市立旭丘中学校」に改称。
1950年10月13日:校歌および校章を制定。⁠

 校歌制定は、校名変更後間もなく、学校の基盤が固まる時期に行われました。歌詞は「かがやく丘に草もえて」「比叡の風に友をよぶ」「みとせのゆめのゆりかごよ」「旭丘に光あれ」など、学校の立地(丘)や比叡山、希望・理想・友情・未来への願いを歌った内容です。画像の歌詞と一致しています。

・作成者について
 寺島洋之助氏は同校の教員で、作詩・作曲の両方を手がけています。後に1953〜1954年の「京都旭丘中学事件」(教育方針をめぐる対立事件)で中心的な存在の一人となり、懲戒免職処分を受けましたが、校歌はその事件より前(1950年)に作られたものです。
 事件関連の記録や講演などで「寺島洋之助が作った校歌」と明確に言及されており、事件中も「校歌も歌えなくなる」といった話が出るなど、学校の象徴として認識されていました。⁠

・作成過程の詳細について
 公開されている学校沿革史や公式情報では、「制定した」という事実と日付は確認できますが、公募の有無、歌詞・曲の具体的な起草過程、委員会での検討、生徒・保護者の関与などの詳細な記録はほとんど見当たりません。
 戦後直後の新制中学校設立期によくあったように、教員が自ら作詞・作曲して学校のアイデンティティを固める形だった可能性が高いです。学校公式サイトの校歌ページも沿革の一部として掲載している程度で、制作エピソードの詳細は記載されていません。
(以下 略)

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 次に、この「寺島洋之助」教諭がどんな教師だったのかに、興味がわいた。寺島教諭に関した記事はあまりみつからなかったが、もう一人の「山本正行」教諭に関するものがあった。これは書籍として出版されてるもので、山本教諭の奥さんも共著者となっているが、リンク先で読めるのは目次項目だけである。

「旭丘中学事件からの伝言 山本正行先生をしのぶ」(旭丘中学事件の教育を語る会 著) 
https://www.bunrikaku.com/book1/book1-913.html

 もう一冊、旭丘中学校事件が詳しく書かれたであろう「旭丘中学校の記録」という出版物があり、これも紹介だけで内容は読めない。しかし、事件の三教諭が、当時の生徒たちに囲まれたにこやかな写真が掲載されていた。

 組合活動や共産党の活動に熱心な、堅苦しそうなオヤジを想像してたが、みんな*若々しく、生徒たちからも好かれている様子に映っている。副タイトルも、寺島教諭が作詞した校歌にある「旭丘に光あれ」である。

*終戦後に新制中学校となった各校の教諭たちは、戦前の軍国主義教育に携わった教師たちが排除されたため、校長・教頭など幹部をふくめて、20代から30代の若い教育者が多数だった。

【旭丘に光あれ:資料・旭丘中学校の記録】1978

 三人のうち「北小路昂」教頭は、その立場上一番のリーダーと思われがちだが、実際には寺島教諭が、自分の担任する三年生のクラスで始めた活動が起点となっている。北小路昂教頭は、教職員組合の幹部でもあり、組織活動を熟知したリーダーとして請われたようである。

 北小路昂教頭に関する逸話で、もっとも興味深いのは、これかも >1960年代の学生運動(全学連・中核派)において最高幹部として活動した「北小路敏」の実父にあたります。

 この息子の「北小路敏」は、紫野高で私の大先輩にあたるようだ。京大の経済に進んだ秀才なんだろうけど、蛙の子は蛙ではなく大蝦蟇でありましたw

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(Grok AIによる)
 北小路昂(きたこうじ たかし、表記は「昴」とされることもあります)は、昭和時代に活躍した京都の教育者であり、政治家です。

 戦後、教育界や社会運動において大きな波紋を呼んだ「京都旭丘中学事件」の中心人物の一人として知られています。

主な経歴と人物像
• 旭丘中学校の教頭へ
1949年(昭和24年)に京都市立旭丘中学校の教諭となり、1953年(昭和28年)には教職員組合(組合系)の支持による「教員選挙」という独自の形で教頭に選出されました。同校で独自の民主主義教育を実践しました。
• 京都旭丘中学事件
当時の教職コミュニティや教育方針を巡り、京都市教育委員会や一部の親(保守系)との間で激しい対立が発生しました(旭丘中学事件)。市教委から下された他校への転任内示を拒否したことなどをきっかけに「偏向教育の主導者」とみなされ、1954年(昭和29年)に懲戒免職処分を受けました。
• その後の活動
免職後は、京都府民主医療機関連合会(民医連)の事務局長や保育園の園長を務めたほか、政治の世界に転身して京都府議会議員も務めました。1965年(昭和40年)に57歳で没しています。
• 家族
1960年代の学生運動(全学連・中核派)において最高幹部として活動した北小路敏の実父にあたります。

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 ほかに、次の動画は、事実関係を主に比較的中立的に作成された、AI動画かと思われるが、全体像を把握するには分かりやすいかも。

「京都旭丘中学事件」(youtube動画)


 こちらもyoutube動画だが、私と同年代(団塊世代)のオバサン二人が、46年振りに旭丘中を訪れる動画で、懐かしい在籍時の校舎風景などが見られる。当時の正門は東に面していて、坂道を登ってたどり着く。現在は、西側の北山通り(十二間通と呼んだ)に面したところが正門になっているが、当時は畑ばかりで何もなかった。

「京都市立旭ヶ丘中学校を46年振りに」(youtube2011/02/23 1965年卒?)

*グラウンドの端には、校歌の碑までしつらえられていた。「昭和34年卒業生寄贈」とあるが、もちろん私の在学時にはまったくなかった。


 最後に、旭丘事件を再考した長論文である。事件当時の状況が詳しく書かれていて、もっとも参考になった記述だが、教職員組合関係で書かれたもので、組合員教師側の視点に立っているので、その点は承知しておく必要がある。

「京都旭丘中学事件」再考―事件発生前の校内言論空間に着目して―(教育学研究 第92巻 第3号 / 2025年9月)

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(AI による概要)
 李伽耶による論文 「京都旭丘中学事件」再考―事件発生前の校内言論空間に着目して―は、1953年から1954年にかけて発生した同事件を、事件発生前の生徒や教員による校内の言論空間の視点から再検討している。

 教職員組合による指導が生徒を政治的枠組みに組み込む一方で、生徒たちは多様な意見を交わす言論空間を自主的に維持しようとしていたが、保護者らの介入により変容していった。論文の詳細は、J-STAGEから閲覧可能である。

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 事件前の「校内言論空間」について、主導教師側と学校側と父兄側と、それらに巻き込まれて行く生徒の視線を中心に論じられている。生徒会・学校新聞・文芸部など、それなりのしっかりした見解が述べられており、これが当時の中学生おどろかされる。

 事件当時者とされた三教諭たちが、生徒たちに親しまれる熱血教師でもあったのが意外だった。その様子から、校歌の作者が寺島教諭だったという意外性にも、当時の空気を知ることで納得できたのであった。

Ⅳ【食と文化コラム】16.「コーヒーはブラックで・・・?」

 Ⅳ【食と文化コラム】16.「コーヒーはブラックで・・・?」


 間違って豆のままのコーヒーを買ってしまった。仕方なしに、放うってあったコーヒーミルを引っ張りだしてきてゴリゴリ、ということで優雅なコーヒータイムを(笑)

 コーヒー スノッブ "coffee snob"という英語スラングがあるようだ。>コーヒーに強いこだわりを持ち、産地や抽出方法などにうるさい人、または「自分はコーヒーをよく分かっている」と通ぶって一般的なコーヒーを見下す傾向がある人を指すスラング< ということらしい。

 自分はスノッブというほど、コーヒーにこだわりがあるわけではない。パソコンに向かって過ごす時間が多いので、その合間に飲むぐらいであるが、一日に3・4杯は飲むことになる。インスタントで済ませていた時期は長かったが、いまは、挽いたレギュラーコーヒーを紙ドリップで淹れて、ブラックのままでお茶のように飲んでいる。

「コーヒーブレイク」BGM を聞きながら、どうぞ
 子供のころ、コーヒーというと「コーヒー牛乳」のことだと思い込んでた。あとコーヒーガムかな、それらがコーヒーの味かおりを代表していたのだが、高校生ぐらいになって、仲間と喫茶店徘徊をするようになって、これがコーヒーかと初めて知ったのだった(笑)

 大学で神戸に下宿したとき、ひとりで暇を持て余し、ちょいとコーヒーに凝ってみた。最初はネルドリップ(まだ使い捨て紙ドリップは無かった)が、やがて、コーヒーサイフォン一式をそろえ、さらに豆から挽くためドイツ製のコーヒーミルまで買い込んだ。コーヒーカップはロココ調w

 下宿部屋で深夜に、床の絨毯の上でゴリゴリやっていると、下宿のオバサンが、死体でも挽いているのかと怪しんで覗きに来た(笑) それほど鼻や舌の感度がいいわけでもないので、コーヒー 一杯のためのこんな煩雑な作業が面倒くさくなってきた。とくにサイフォンを分解して洗うのが大変で、結局はインスタントになってしまったw

 コーヒー豆を挽くのと同じように、「お茶を挽く」という言葉もある。こちらは転じて、慣用句として、仕事が無くて暇をもてあますときなどに使う。かつて、芸者や遊女などに客が付かないときは、暇をつぶすために茶を挽かせたからだという。

 コーヒーの起源については、エチオピアのヤギ飼いの少年が、山腹に実る赤い実がをヤギが食べて、興奮して飛び跳ねることに気づいた、という話が有名である。いずれにせよ、北アフリカのエチオピアで食されたりしていたらしい。

 やがてアラビア半島に伝わり、「アラビカ種」という名称からもその歴史が類推される。そこからさらに、ヨーロッパなどに広がったとされており、ヨーロッパ人がインドや南米や東南アジアの植民地に栽培させて、全世界に広がった。

 主に亜熱帯地域に栽培されているが、さほど高温多湿は必要とせず、むしろ寒冷差があり乾季と雨季に分かれている地域が最適である。日本に入って来たのは幕末から明治維新だが、これは西洋人が持ち込んだもので、一部を除いて普及することはなかった。

 日本は気候条件が適さないこともあるが、食習慣がなじまないなど、日本人一般は、長年慣れ親しんだ茶を飲む習慣から離れることはなかった。敗戦後、パン食など西洋風の食習慣が浸透してくると、コーヒーも徐々に広がり出したが、家庭で飲む習慣が普及したのは、何といっても1960年代からの、インスタントコーヒーによるところが大きい。

 戦後第一世代の私にとっても、コーヒーといえば、銭湯でふろ上がりに飲むコーヒー牛乳を思い浮かべる。そういえば、インスタントコーヒーの粉末と砂糖を牛乳にとかすと、コーヒー牛乳の味になったわけで、インスタントの方が馴染みやすかったのかもしれない(笑)

Ⅲ【社会時事コラム】15.神大紛争を記録する

Ⅲ【社会時事コラム】15.神大紛争を記録する


 「神戸大学ニュースネット委員会」に配信されたネットニュースで、『「神大紛争」とは何だったのか? 吹き荒れたストと封鎖』という記事を見つけた。すでに風化しつつある当時の状況を、これをもとに振り返っておきたい。

 1968年から69年にかけて、半年以上にわたる大学紛争と封鎖の期間の記録だが、私自身の経験を中心に記述する。私は、1968年4月に神大経済学部に入学した。受験から解放され、神戸の大学近くに下宿し、新天地でのどかな学園生活を楽しんだ。

 あれやこれや積極的に活動し夏休みをむかえたが、京都の実家に帰省しぶらぶらしているうちに、二度目の鬱を発症し、夏季休暇が終わっても登校できない状態だった。秋口になって、やっとのことでふらふらと登校したが、一年生の後期はすでに半分近く終わっており、出欠を取る体育の授業に出ると、残り全部出席しても単位は取れないといわれ、卓球をして遊んで帰ったりした。

 前期の間からすでに学園紛争の種は燻っていたが、活動の中心となった住吉寮でさえ、新入生歓迎の寮祭でダンパとかやって楽しんでいた。御影の山手にある住吉寮は、近年にできた新築だったが、あちこちにベタベタ張り紙があった。

 「住吉寮」は、新入生を中心に1,2年生が入寮することになっており、寮の先輩の活動家たちには、格好のリクルート(オルグといった)の対象だった。そして、当時問題になっていた身近な「寮費値上げ問題」から火が付いた。

 さらに、同じく1,2年生が学ぶ「鶴甲キャンパス」の教養部が、最初の拠点となった。新築の校舎は張り紙だらけになり、ペンキのタテカン文字で、べったりとスローガンが書かれた立て看板が、キャンパスの入り口に並んだ。一部の学生は教室を占拠し、また学生の主張を支持する声明を発表した講師の教官も出てきた。

 秋口に登校しだすと、鶴甲キャンパスの雰囲気はガラッと変わっていた。入り口前広場では、ヘルメットにタオルでマスクをした学生が、ハンドマイクでアジ演説を続けていた。大体この手は、オルグされたばかりの新入りが練習代わりにやらされる。

 そうこうしている12月の始めに、「六甲台本館」にあった本部事務所が、学生に占拠された。そして教養部をはじめとして、各学部の学生自治会が無期限ストライキを決議し、年明けには次々と封鎖されていった。

 私はというと、大学は封鎖され講義もないので、ほとんど神戸に行くこともなく、京都でぶらぶら過ごしていたが、そのうち、高校時代の友達とともに、文学にはまりこんでいった。

 関東で炎上していた学園紛争は、1月18日に東大本郷キャンパスに機動隊が投入されピークを迎える。安田講堂に籠城する学生と機動隊との激しい攻防が展開されたが、すでに関心を失いつつあった私は、その様子をぼんやりとテレビで眺めていた。当時の状況は下記ブログに詳しく書いている。

「'60・'70年安保闘争/大学紛争メモ」

 やがて、大学自治会主催の「教養部学生大会」が六甲台大講堂で開かれて(69/02/03)、私も久しぶりに登校して参加した。その時の様子を記した雑記帳のメモも、上記から読めるようにしてある。稚拙な文章だが、当時の雰囲気ぐらいはつかめると思う。

 集会は議論にもならず、各セクトの罵声の応酬だけで終わり、結局「スト続行」が決まっただけですっかり幻滅した。当時の私の立ち位置は、野坂昭如が名付けた「心情三派」というのに近い、「ノンポリ全共闘シンパ」というところだったが、以後すっかり関心を失い、ひたすら京都の仲間と文学にはまっていった。その分、最も本を読んだのもこの時期になる。

 東大安田講堂事件のようなドラマチックな展開はなかったが、唯一、機動隊と一般学生と活動家が一堂に会したのは、7月12日に開催された須磨区の高倉山造成地での全学集会だった。「全神大人結集集会」という名目で、大学側が紛争解決を目指したものだが、須磨駅に押し掛けた一般学生と活動家たちは、おおむね「集会阻止」で集結していた。

 冒頭の「神大ニュースネット」の記事によると、大学側で紛争収拾の先頭に立ったのが、戸田義郎 経営学部教授で、紛争開始直後に病気辞任した八木弘学長(法学部)に代わり、学長代行(学長事務取扱)に就任して、精力的に動いた。

 上記記事から概略引用すると、

>大学本部および法・経済・経営学部(六甲台第1)、教養部(鶴甲第1)、文学部、工学部(六甲台第2)などの校舎が次々と、机やロッカーでバリケードが張られ封鎖されていて、紛争の構図は「大学側」対「学生側」といった単純な構図から迷走。

>ノンポリ(学生運動に参加しない)の学生もいた一方で、様々なイデオロギーをバックに
したセクトもからみ、さらに他大学からの活動家の介入、暴力(ゲバルト)も横行したため複雑な様相を見せた。

>こうしたなか混乱の中、1969年3月の卒業式、4月の入学式も中止となった。

>1969(昭和44)年7月12日、須磨区高倉山の団地造成地で、5000人の学生・教職員が参加して全学集会「全神大人結集集会」が行われた。

>この集会は大学側が解決を目指して企画したものだったが、一部学生の妨害とヘリコプターの騒音などで、約10分で打ち切られた。

 この辺の全学集会の記述はほぼ省かれていて、私が見たものとはいささか異なっている。過去に書いたブログから再録する。

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 駅の改札を出て、さてどうするかと見まわしていると、両側からガッシと腕を固められて、さあ行きましょうと、造成地に向けて坂道を駆け上る。両脇には、薄汚いTシャツ、ジーパンのブスねーちゃん、仕方なしに、デモ隊の先頭に立って会場まで登りつめることになった(笑)

 六甲山系を削って造成途中のむき出し赤土の会場は、さながら西部劇の舞台、入り口には屈強な機動隊ががっしり固めていて、両側から挟まれて一列縦隊のみで入場を許された。何をするまでもなく、機動隊に崖っぷちに追い込まれて万事休す。

 会場でぐるりとUターンさせられて、帰るならこちらと誘導され、機動隊にサンドイッチにされながら一人づつ場外に出される。あいつら汚いから、傷がつかないように、両側から腹にパンチや尻キック、眼鏡学生の眼鏡をチョップして落とす。

 ということで、眼鏡と折りたたみ傘を失って、一般ノンポリ学生としての私の”闘争”は終焉した。そのときの議決(学長声明を読み上げただけ)とかで、学園封鎖は解除とされ、機動隊導入で簡単に大学は元に戻った。

 かくして、大学2年生の夏休み明けから授業が再開された。それまで、自分はほとんど単位を取ってなかったので、教養部(1.5年間)で留年するつもりだったが、封鎖中の教室で、学生が「出席簿を焚火にして暖をとった」とかで、数枚のレポートだけで単位が取れてしまった(笑)
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 われわれの隊列は、ほとんどノンポリ一般学生で、ヘルメットもゲバ棒ももっていない。したがって、会場の崖っぷちで回れ右して帰されたが、ゲバヘルの活動家グループには対応が違っていたようだ。

 当時の神戸新聞の記事には、、高倉山の団地造成地の赤土むき出しの崖に追い込まれた学生たちが、さらに追い詰められて崖からずり落ちている写真が残されている。

 いずれにせよ、急造の演題に学長代行が立っているのをチラっとみただけで、「スト解除」の声明を読み上げたのも見ていない。

>夏休みの最中の8月8日、神戸大は封鎖解除に踏み切った。教職員の手によってまず経済学部・経営学部・法学部、教育学部、教養部の封鎖解除が行われた。

>最後の勧告が出された後、バリケードが次々に撤去されていった。同日中に文学部、理学部、工学部の封鎖も解除された。そして9月以降、各学部で講議が始まり、学内は平常に戻っていった。

ということで、おしまい。あの紛争はいったい何だったんだろうか(笑)

Ⅲ【社会時事コラム】14.経済学部卒だけど・・・

 【社会時事コラム】14.経済学部卒だけど・・・


 一応「神戸大学 経済学部卒」となっているが、実際には半分近くを文学部で単位を取って、経済や経営は必須教科程度しか取っていない。入学時は資本論全巻を買い込むほど意気込んでいたが、教養課程での退屈な授業や、専門課程に上がる前の長期間の学校封鎖などで、本格的な経済学部専門課程での講義を受けるころには、すっかり経済に興味を失っていた。

 しかも一年近くの学園封鎖中を京都ですごし、高校の旧友たちと交友するうちに、すっかり文学にはまってしまった。大学の講義が始まり専門課程の経済学部の講義が始まっても、文学部に行って単位をとることが多かった。

 もちろん経済や経営の必須科目もあって、なかでも「経済原論」は最重要科目だった。原論は前期・後期に4単位づつ、つごう8単位だったが、これは内容が面白く真面目に取り組んだので、いまでも講義ノートを残してある。まあ、経済学部でまともに学習したのは、この「原論」だけぐらいだ。

 基本テキストは「経済学教材(北野熊喜男 編)」だったが、内容的には、ノーベル経済学賞のポール・サミュエルソンの「経済学教科書」をベースにしたものである。
この「教材」や「教科書」は、何度も下線を引いて熟読した。

 神戸大の経済はほとんどが「近経(近代経済学)」で、マル経はまったくなかった。サミュエルソンに代表される近代経済学分野では、いわゆる均衡理論で「新古典派総合」と称されていた。新古典派「ミクロ」均衡理論にケインズ派「マクロ」理論を組み込んだ「総合」ということだった。

 「経済原論」では、前期講義でミクロ理論、後期でマクロ理論を中心に取り上げられた。大雑把にいうと、「ミクロ分野」では、それぞれの市場で、需要と供給の均衡によって「土地(地代)」・「労働(賃金)」・「資本(利子)」のミクロ経済三要素が決まり、そこに「マクロ分野」での、「金融財政」などによる貨幣資金の投入によってマクロ経済拡大がなされる、という筋書きである。

 こまかな話はすべて忘れたが、このような原論での基本的な均衡理論の考え方は身にしみついた。現在の経済動向なども、この基本にそって考えると、なんとなく分かるのだ。ということで、神大経済学部で学んだのはこれだけ、まあ世の中は何とかなる(笑)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】11.「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】11.「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」


 最近のSNSでは「昭和ノスタルジー・昭和レトロ」という言葉が散見される。そのようなテーマで語り合われる場さえ形成されている。「ノスタルジー」は「過去を懐かしむ感情(郷愁・切なさ)」に焦点を当てた言葉で、「レトロ」は「古くて懐かしい雰囲気やデザイン(スタイル)」そのものを指す。

 昭和ノスタルジーは、1950〜80年代の高度成長期や安定成長期の生活文化を懐かしむ文化で、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」やレトロアイテム(カセット、駄菓子、純喫茶)を通じてブームとなっている。古き良き時代への憧れや郷愁の感覚から、平成・令和世代にも支持され、モノを大切にする精神や温かい人間関係が再評価されている。 
https://www.youtube.com/watch?v=Ub6_DgXLq_w

 昭和時代は1926年から1989年までの64年間であり、特に第二次世界大戦後の復興と高度経済成長が中心的な出来事だった。この時期は戦後の混乱を経て、さまざまな社会、経済、文化的な変革を経験し、工業化と都市化が急速に進展し、人々は新しい生活様式を受け入れ、国全体として豊かさを追求する方向へと進んだ。

昭和30年代
 物質的な豊かさを手に入れながら、地域の人と人とのつながりを大切にする暮らしが残っていた転換期だった。 家庭ではテレビや洗濯機や冷蔵庫といった電化製品の普及がすすみ、人々の生活スタイルに革命をもたらした。

「昭和36年」

1.住まいと家事の変容
・ 住宅の洋風化が進展し、公団住宅などが登場。和風木造住宅でも、洋風家具をそろえた応接間が作られた。
・家事の近代化がすすみ、洗濯機や電気炊飯器や電気冷蔵庫といった電化製品が普及して、大きく家事負担が軽減された。
・買い物は近隣の商店街や公設市場で、魚屋・八百屋など、ほとんどが対面販売だったが、一部、レジを導入したセルフ販売形式も始まった。 

2. 子どもの遊びと学校
・近所の大人が、通学を見守り、子どもに声をかけ、時には叱るなど、子供を育む地域社会が残っていた。
・三角ベース、メンコ、ビー玉、缶蹴り、土管など、手作りの遊びが主流で、女子もゴム飛び、ままごと、人形あそびなど元気に遊んだ。
・ほとんどが地域の公立小・中学校にかよい、高校進学率は約5割、中学卒業後に就職する者も多かった。 

3. 社会と技術の進化
・メディアの登場: 白黒テレビが普及し、街頭テレビから家庭テレビへ変化。
・交通手段: 路面電車が主要な移動手段(下駄がわり)として活躍。
・街の活気: 神社のお祭りや商店街の大売り出しなどで、活気づいていた。 

昭和40年代
 物質的な豊かさを追求しつつ、地域コミュニティがまだ色濃く残る、活気ある時代だった。 カラーテレビ、クーラー、自動車の「3C」が普及し、都市化と核家族化が進行した高度経済成長期で、万博(s45年)や沖縄返還(s47年)などがあり、文化的には、インスタント食品や外食産業が発展し、若者文化(アイビー、ジーンズ)が花開いた。 

1.家電の普及と暮らしの変容
・3Cの普及: カラーテレビ、クーラー(クーラー)、自動車(Car)が一般家庭に急速に普及し、生活の快適性が大幅に向上。
・住宅事情: 団地やマンションなどの集合住宅が増加し、核家族化が進む。

2.食生活の革命
・インスタント食品: インスタントラーメンなどが食卓に浸透し、食の簡素化・多様化が進む。
・外食産業の勃興: ファミリーレストランなどが登場し、外食が特別なものではなくなる。

3.若者文化とファッション
・アメリカンカルチャー: ジーンズが若者の定番アイテムとなり、アイビーファッション(ボタンダウンシャツ、チノパン)が流行。
・個性の表現: 学生服の着崩しなど、個性を重視する潮流が生まれる。

4.エンタメと流行
・テレビ・音楽: テレビゲームはまだ登場前だが、テレビ番組や歌謡曲が娯楽の中心。

5.社会の変化
・人口動態: 昭和42年に総人口が1億人を突破し、都市化がピークに達する。
・大型イベント: 大阪万博(1970年)開催により、未来志向の空気が漂う。 

昭和50年代以降
 高度経済成長期を経て、人々の生活が「便利」になる一方で、都市化が進み、核家族化が進行した時期でもあった。モノが溢れ始め、消費文化が成熟した時代で、さまざまな家庭電化製品があふれ、食の欧米化やファミリーレストランの普及、アイドルブームや住宅事情の変化(団地生活)など、現代の日本的なライフスタイルが確立された時代であった。

・食文化:ファミリーレストランなど外食文化が一般化し、家庭の食卓では洋食メニューが増え、インスタントや冷凍食品の利用が進んだ。
・家電・趣味:カラーテレビが各家庭に普及し、歌謡番組(「ザ・ベストテン」など)やアニメが子供から大人まで共通の話題となった。また、「スペースインベーダー」などのテレビゲーム(ゲームセンター)が大ブームとなった。
・住宅・生活:「団地」と呼ばれる中高層住宅が建ち並び、ダイニングキッチン(DK)という間取りが家庭の標準的なスタイルになった。
・レジャー・流行:山口百恵やピンク・レディーなど、アイドルブームが起きて、マイカーでのドライブ、ボーリング、海水浴、キャンプなど、アウトドアー・ライフが楽しまれた。