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XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍とパンパン

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍とパンパン風俗


 敗戦後、連合国軍によるGHQの創設とともに、進駐軍として米兵を主とする多くの連合国兵が日本各地に駐留するようになった。そして進駐軍の駐留基地を中心として、多くの米国文化が日本にも普及しだした。

 ジャズをはじめとした米音楽やダンスが広まり、東京・大阪などの大都市に「米兵向けダンスホール」が急増(1946年頃には東京だけで200軒以上)。ここではルンバ、タンゴ、フォックストロット、ジルバ(ジルバ=ジャイブの日本風呼称)が盛んに踊られました。
日本人ダンサー・バンドマンが米兵相手に演奏・ダンス指導を行い、生計を立てるようになりました。有名な例では、後の大物ミュージシャン(服部良一、淡谷のり子、笠置シヅ子など)がこの時期にジャズやブギウギに深く関わっています。


戦後の混乱期(1945年~1950年ごろ)
昭和戦後の風俗文化は、敗戦直後の混乱期に**「パンパン」**と呼ばれる売春婦が街頭に立ち、赤線・青線地帯が形成され、**特殊飲食店(カフェー)が乱立したのが特徴で、これらが後の日本の風俗産業の土台となり、戦後復興と共に変化しながらも、「マントル嬢」「ソープ」「ファッションヘルス」**といった多様な形態へと変遷していきました。 
戦後の混乱期(1945年~1950年代初頭)

「パンパン」の出現: 2特殊慰安施設協会(RAA)廃止後、職を失った女性たちが街頭で客を引くようになり、「パンパン」と呼ばれました。新宿、有楽町、上野などが活動の拠点となり、北海道千歳市にも多く流入しました。

赤線・青線の形成: 1かつての遊廓や新規参入者が「カフェー」と称して営業し、赤線(純娼地域)や青線(混交地域)が形成されました。
特殊飲食店(カフェー): 1「パンパン」や「赤線」と並行して、カフェー(特殊飲食店)が多数営業し、後のバーやクラブの原型にもなりました。 


高度経済成長期以降(1950年代後半~1970年代)
制度の変化と業態の多様化: 3売春防止法の施行(1956年)により公娼制度は廃止されますが、裏社会や隠語の中で業態は多様化。
「マントル嬢」の登場: 3賃貸マンションの一室を仕切って売春を行う「マントル嬢」という形態が登場し、密室化が進みました。 
現代への繋がり
これらの戦後から続く風俗文化は、「ファッションヘルス(ヘルス)」やソープランドなど、より専門化・多様化した現代の風俗産業へと繋がっていきます。 
まとめ
昭和戦後の風俗文化は、戦争の爪痕と社会の混乱の中で発生し、一時的な現象に留まらず、日本の風俗産業のルーツを形成しました。それは、女性たちの生活の場でもあり、男性の娯楽の場でもあり、時代と共にその姿を変えながら、現代まで続いてきた社会の一側面と言えます。


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化


 「カストリ復刻版(s50年刊)」という雑誌が手元にあった。「カストリ雑誌」とは、戦後焼跡闇市の時期、雨後の筍のように発刊された粗悪な作りの雑誌の総称である。戦後の食糧不足時代、駅裏などの闇市で売られた粗悪な焼酎や怪しげな密造酒などを「カストリ酒」と呼び、同様に粗悪乱造され、エロ・グロ・ナンセンスを売りにした雑誌を「カストリ雑誌」と呼んだ。

 「三合も飲めば潰れる」と言われたカストリ酒にかけて、カストリ雑誌も「三号」も続けば良いというダジャレからそう呼ばれた。カストリ雑誌によく登場する当時の流行語らしきものを、ランダムに挙げてみると当時の世相がイメージされてくる。「カストリゲンチャー」「リンタク」「デンスケ」「裏口営業」「エロショウ」「モク拾い」「ピロポン」「パンスケ」e.t.c

 これらの文物が世間に見られた時代の大衆文化は、「カストリ文化」とも呼ばれ、それは「戦後闇市文化」でもあった。カストリ雑誌のブームは1946(昭和21)~ 1949年(昭和24年)頃と言われ、意外に短く終焉して行った。それは朝鮮特需が始まり、やっと物も行きわたり出し、敗戦のどん底から復興の兆しが見えてきたことと並行していた。

 この時期に活躍した写真家 林忠彦著「カストリ時代/レンズが見た昭和20年代」では、まさしく時代の空気を映し出した写真が多く見られる。林は当時の文士を切り取った写真でも有名である。

 太宰治、坂口安吾、織田作之助など「無頼派」とも呼ばれた彼らは、まさしく、この時代と格闘し討ち死にしたような作家生涯を送った文士である。当方は生まれて間もない時期だったので、当時の状況を知る由もないが、何故か彼らの生きた時代が懐かしく思える。

 当時の闇市で怪しげなカストリ酒を飲んで頓死したひとりの文学青年を悼んで、友人の若き詩人が記した一片の詩がある。

 「死にたい奴は死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」
ひたすら生きることへの切迫感のただ中だからこその、無二の親友への追悼詩である。

Ⅷ【生活文化コラム】14.【資生堂男性化粧品 MGギャラック】

【生活文化コラム】14.【資生堂男性化粧品 MGギャラック】


 めずらしい「MGギャラック」のポスター。資生堂男性化粧品で一世を風靡した「MG5」と「ブラバス」だが、その間に挟まれて短命で終わったのがMGギャラック。MG5の団次郎、ブラバスの草刈正雄はイメージが定着しているが、それらに比べるとMGギャラックの二瓶正也は影が薄い。
 わたしは昭和43(1973)年に資生堂に入社して、京都(販売)支社に配属された。MG5でばっちり整髪して支社での入社式にのぞんだのだが、階段でベテラン美容部員の集団とすれ違うとき、クッサ~という声が聞こえた。

 資生堂男性整髪料と言えばMG5としか知らなかったが、その時にはすでにブラバスなどが発売されていて、MG5は安物のランクに入っていたようだ。入社早々、いきなり美容部員集団の洗礼を受けた図であったのだ。

 入社式の帰り道、さっそく資生堂化粧品店に飛び込んで、ワンランク上のMGギャラックを買った。すでにブラバスも発売されていたが、MG5との価格差が大きく、その中間の価格帯にカネボウのエロイカやマンダムなどが発売されて、隙間を侵食されつつあった。そこで、その価格帯でMGギャラックを発売したのだった。

 しかし草刈正雄を起用して本格的にブラバスのCMが展開されると、ブラバスへの移行が進み、MGギャラックの使命は終わって杯盤となった。よって、MGギャラックを使った世代は極めて少ないと思われる。ギャラックを使った人がいたら手を挙げてくれ、アッピールするチャンスは二度とこないぞ(笑)

Ⅶ【サブカル関連コラム】15.【大衆芸能と伝統芸術】

 【サブカル関連コラム】15.【大衆芸能と伝統芸術】


 戦前昭和の芸能界の出来事を書いてたら、コメント欄で以外に面白い展開になった。ある種の「大衆芸能論」としても読めるので、収録しておく。

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『Get Back! 30's / 1937年(s12)-2』
○7.3 [東京] 浅草に国際劇場が開場。松竹少女歌劇団が国際東京踊りを上演する。
○9.- [東京] 益田喜頓・川田晴久・坊屋三郎・芝利英が「あきれたぼういず」を結成する。
○11.12 [京都] 松竹から東宝に移籍した俳優林長二郎(長谷川一夫)が、暴徒に切りつけられ、左顔面に重傷を負う。
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Satomi Koike 浅草と言えば...「伝助劇場」

佐々木 信雄 晩年にはTVに出てたから知っている。子供心に、どう見てもテレビ向きの芸ではないと思えた。すでにクレージーキャッツのコントなどに馴染んでいたので、デンスケは古い芸に思えた。やはり芝居小屋でやってなんぼの芸なんだな。これはエノケンなどにも言える。

ロス 恭子 いや、それは当時の佐々木さんが若かったからだと思う。伝助を舞台で知ってた人達はTVでも充分に楽しんでたと思う。伝助劇場の時は知らない人が何人も見に来てたもの。

佐々木 信雄 だから、舞台あっての芸、ということ。

ロス 恭子 漫才だってそうじゃないの??

ロス 恭子 ドリフの芸も舞台をそのままTVにしてたじゃん。8時だよ全員集合!なんて、ゴールデンタイムよ。

佐々木 信雄 漫才はエンタツアチャコの時代で、ラジオ放送でも聞かれるようになった。その後も、どんどんテレビ用に進化していった。

佐々木 信雄 ドリフなど、完全にテレビ用の大道具仕掛けで成り立っていた。あれは、観客が居なくてもなりたつコント仕立てだ。

ロス 恭子 伝助もそうだったよ! 強いて言えば、年末よく見る宝塚なんかと同じ。宝塚ほどつまらない芸はないと思っちゃうけど。。。


佐々木 信雄 宝塚も、入れ込んだファンの熱気があって成り立つ舞台、テレビで放映されても白けるわ(笑)

ロス 恭子 それはもの凄く言える!! あんなのにTV電波使うのはもったいない。

佐々木 信雄 元来、歌舞伎もそうだが、フリークなファンが醸し出す熱気の元で成り立つわけで、NHKがTV中継するのは「伝統芸」としてだけ(笑)

ロス 恭子 歌舞伎ねぇ。。。あれこそTVじゃダメよね。


でも、アップも撮れるから良いのかもしれないけどね。。。

佐々木 信雄 ほかの事しながら何となくTVをつけてる一般家庭では、歌舞伎も宝塚も、ほぼ関心ないのだなw

ロス 恭子 私は初めてベルばらをTVでやるからと、どんなものか観てみたのよ。観てるうちに腹が立ってしまった。だからなんとなくじゃない。で、もう二度と見ないな。

佐々木 信雄 テレビで観る価値があるのは、能の舞台の放映ぐらいかな。あれは一種の仮面劇で、舞台が「絵」として成り立つようになっている。舞台だけでは、微妙な仕草や能面の「表情」など、見えないないものが、テレビではアップで映し出される。



ロス 恭子 あ!それは同感したい!でもね、やっぱり能はあの踏み込んだときの反響音がないとダメよ。できれば野外がいい。
 渋谷にある能楽堂には、仕事で(舞台の中の修復作業ね)何度か行ったことがあるけど、素晴らしかった。野外ならもっと良かろうにと思ったものだわ。観世能楽堂のこと、今は引っ越してしまったけど、松濤という高級住宅街の真ん中にあった。

佐々木 信雄 能の舞台は、中学校の卒業研修とかで、京都岡崎の能楽堂でサワリだけ見学した。60年近く前だから、何一つ憶えておらん(笑)

ロス 恭子 今こそお金払ってでも観るべきよ!

佐々木 信雄 ニキビづらの中学生に見せても、馬に見学させるようなもんだw

ロス 恭子 ねぇ、京都にいるんだから、文楽観てきたら?あれもただの人形劇じゃないよ!いいんだわ、すごく。。。

佐々木 信雄 それが判るようになるには、30回ぐらいは足を運ばなくてはならん、めんどいわw

ロス 恭子 能が好きかも知れないと思うなら、きっとのめり込めるから、すんなり分かると思う。。。3回だな。

佐々木 信雄 歌舞伎も、学生のころ南座のマネキを観ただけ。それも3階最奥のチープ席、フランス革命のジャコバン党員になった気分だったわw

ロス 恭子 私もこっちでオペラをそういう席で観た!なんか、右手の拳を上げたくなる座席よね。。。

佐々木 信雄 崖の上から覗き込む感じだなw

ロス 恭子 それ!! でもね、パリのオペラ座では、オペラよりもシャガールが観たかったから得得した気分だった。

佐々木 信雄 エノケンもそうだが、舞台と観客との応答があって成り立つ芸。

佐々木 信雄 モーパッサンがフローベルに師事した時の話。

 丘の上にあるフローベルのアトリエに、毎日、同じ石畳の道をテクテクと通う。で、お茶飲み話し程度の雑談をして帰るのが日課だった。

 唯一フローベルが指示したことは、毎日通って来る石畳の道のことを、毎日書け!
 毎日同じ石畳だが、いざその様子を書くとなると、その日ごとに光線の具合とか、微妙に違っているのに気付く。

 能や文楽など、既に伝統芸能とされているものは、それぐらいに入り込まないと、さっぱり分らないと思う。今んとこ、分かるためのモチベーションがないから、テレビでたまに眺めるだけだな(笑)

佐々木 信雄 わりとまともな芸論とゲイ論の展開だ(笑)

Satomi Koike 江戸時代は役者は舞台がはねると売春しとったな、歳若い男なんぞは坊主に買われたり、金持ちの年増女に買われたり

佐々木 信雄 ホスト養成所みたいなもんやw

Satomi Koike 今の芸能界も売れるまでは枕営業は公然の秘密だし

佐々木 信雄 TVは商品展示のギャラリーみたいのもんだなw




Satomi Koike
 最近はネットアイドルとか地下アイドルとかご当地アイドルなんて言うのもいるしね


Ⅶ【サブカル関連コラム】14.【わらべうた】

【サブカル関連コラム】14.【わらべうた】


 わらべ歌に興味をもって調べたことがある。これらには歴史的背景が沈潜していて、怖い歌が多い。

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「とおりゃんせ」

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して くだしゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
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 なぜ「行きはよいよい 帰りはこわい」のか、歌って遊びながらも、子供ごころに意味はまったく分からなかった。調べると、このわらべ歌は江戸時代から歌い継がれていて、「関所」を通り抜ける過去の記憶が沈潜しているという。つまり「とおりゃんせ」は関所抜けの話で、二度と故郷に帰れないといった恐怖が込められているという解釈がある。

 遊び方は、二人の子供が向かい合って立ち、両手をつないで上にあげ関所をつくり、他の子供たちが歌に合わせて手の下をくぐっていく。歌の終わりで関所役の子供らがさっと手を下ろし、そこで捕まった子が今度は関所役と交代する。

 イギリスにも「ロンドン橋落ちた」という童謡があり、同じような遊び方をする。この童謡は「マザーグース」にも収録されていて、ロンドン橋が何度も落下して何百人もが死んだという、実際の恐ろしい出来事が背景にある。
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「はないちもんめ」


かってうれしい花いちもんめ
まけてくやしい花いちもんめ
たんす長持ちどの子が欲しい

あの子が欲しい
あの子じゃわからん
〇〇ちゃんがほしい
〇〇ちゃんがほしい

相談しよう そうしよう
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 「花いちもんめ」は日本の古い童謡・わらべ歌で、こども遊びで歌われる。

 2組に分かれて向かい合い手をつなぐ。交互に前後に行き来し、前に進んだ側が「〇〇ちゃんがほしい」と、相手側から引き抜きたい子を告げる。歌の区切りでじゃんけんして、勝ったチームが相手チームからひとり引き抜くという遊び。

 「花いちもんめ」とは、花売りが花を一匁(当時の銀の重さ)で売り買いする話とされているが、一方で、「花」は若い女性を指し、女の子が「人買い」に買われていくという哀しい風習を表しているという解釈もある。
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「かごめかごめ」


かごめかごめ
かごの中の鳥は
いついつ出やる

夜明けのばんに
つるとかめが滑った
うしろの正面だ~れ
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 鬼役の子が目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に、鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。

 「かごめかごめ」は、暗がりで繰り広げられる不思議な儀式と、「夜明けのばんにつるとかめが滑った」という意味不明な不気味な歌詞によって、さまざまな解釈がある。挙げだしたら切りがないが、その不気味さを暗示するような話を取り上げてみる。

 「籠目」とは竹で編まれた籠の編み目であり、籠目の形は「六芒星」という三角形を上下に絡み合わせた文様で、西洋では「ダビデの星」として有名。さらに角の一つ少ない「五芒星」は、陰陽師 安倍晴明が用いて、陰陽五行説に基づくともいわれる。

 そして、「かごめかごめ」は罪人が運ばれる「唐丸篭」の「籠目」であり、刑場へ運ばれて行く様子を歌ったとされる。「つるとかめが滑った」は、まったく別次元の意味不明な言葉で、罪人の首が切り落される瞬間を象徴したのかもしれない。で、「うしろの正面だぁれ?」となると、そこには首切り役人が刀を振り上げてるわけだ(笑)
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 これらのわらべ歌は、それに連動する子供遊びとともに歌われる。子供たちは、このような歴史的背景などまったく知らず、無邪気に楽しげに歌い遊ぶ。しかしその背景にある暗い歴史は、なんとなく感じ取っているのかもしれない。

Ⅰ【文学コラム】36.風に吹かれて(自動生成おちゃらけ文)

【文学コラム】36.風に吹かれて(自動生成おちゃらけ文)


#この文章は下記のサイトを利用して、スクリプトによって自動生成されたものです。
http://www.pandora.nu/pha/tools/spam/harukin.php (消失している)

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『村上春樹風にノーベル文学賞について語る』(おちゃらけ擬文)

 完璧なノーベル文学賞などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
 六月にデートした女の子とはまるで話があわなかった。
 僕が南極について話している時、彼女はノーベル文学賞のことを考えていた。
 ノーベル文学賞の目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。
エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。

 「ね、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしているわけ? シコシコッって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。
 「たぶんね」
 「男の人ってノーベル文学賞のこと考えながらあれやるわけ?」
 「まあそうだろうね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいはノーベル文学賞のことを考えながらやっているんじゃないかな」
 「スエズ運河?」
 「たとえば、だよ」
 「ノーベル文学賞?」と僕は聞いた。
 「知らなかったの?」
 「いや、知らなかった」
 「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。
 「彼にその趣味があるかは知らないけど、あれはとにかくノーベル文学賞よ。完璧に。二〇〇パーセント」


 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのノーベル文学賞」と呼んだ。
 そして今日でもなお、日本人のノーベル文学賞に対する意識はおそろしく低い。
 要するに、歴史的に見てノーベル文学賞が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。
 ノーベル文学賞は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それがノーベル文学賞だ。
 ノーベル文学賞は盲のいるかみたいにそっとやってきた。
 「それはそれ、これはこれ」である。
 冷たいようだけど、地震は地震、野球は野球である。
ボートはボート、ファックはファック、ノーベル文学賞はノーベル文学賞である。
 「どうせノーベル文学賞の話だろう」とためしに僕は言ってみた。
言うべきではなかったのだ。受話器が氷河のように冷たくなった。
 「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにしてノーベル文学賞をめぐる冒険が始まった。


 「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔っ払い方も、なんでも好きだよ」
 「本当にこのままでいいの?」
 「どう変えればいいかわからないから、そのままでいいよ」
 「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。
 「世界中のノーベル文学賞がみんな溶けて、バターになってしまうくらい好きだ」と僕は答えた。
 「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」
 僕はなんだか自分がノーベル文学賞にでもなってしまったような気がしたものだった。
誰も僕を責めるわけではないし、誰も僕を憎んでいるわけではない。
 それでもみんなは僕を避け、どこかで偶然顔をあわせてももっともらしい理由を見つけてはすぐに姿を消すようになった。

 「僕はね、ち、ち、ノーベル文学賞の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。
 「ノーベル文学賞が好きなの?」と僕は訊いてみた。
 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、ノーベル文学賞を作るんだ」
 ノーベル文学賞には優れた点が二つある。
まずセックス・シーンの無いこと、それから一人も人が死なないことだ。
放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
他人とうまくやっていくというのはむずかしい。
 ノーベル文学賞か何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える。
 「ずっと昔からノーベル文学賞はあったの?」
 僕は肯いた。
 「うん、昔からあった。子供の頃から。
 僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。
 でもそれがノーベル文学賞というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。
 ノーベル文学賞は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ。
 僕が年をとるにつれてね。何故だろう? 僕にもわからない。
 たぶんそうする必要があったからだろうね」

 その夜、フリオ・イグレシアスは一二六回も『ビギン・ザ・ビギン』を唄った。
 私もフリオ・イグレシアスは嫌いなほうだが、幸いなことにノーベル文学賞ほどではない。
 「それから君のフェラチオすごかったよ」
 直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。
 「ノーベル文学賞もそう言ってたわ」
 「僕とノーベル文学賞とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」
と僕は言って、そして笑った。
 彼女は少しずつノーベル文学賞の話ができるようになっていた。

 泣いたのは本当に久し振りだった。
 でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。
 僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・ノーベル文学賞が・好きだ。
 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、
 そして僕のことを覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。

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『村上春樹氏、村上春樹について語る』(戯文2)

 完璧な村上春樹などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
 六月にデートした女の子とはまるで話があわなかった。
 僕が南極について話している時、彼女は村上春樹のことを考えていた。
 村上春樹の目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。
 エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。

 「ね、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしているわけ? シコシコッって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。
 「たぶんね」
 「男の人って村上春樹のこと考えながらあれやるわけ?」
 「まあそうだろうね」と僕は言った。
 「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは村上春樹のことを考えながらやっているんじゃないかな」
 「スエズ運河?」
 「たとえば、だよ」
 
 「村上春樹?」と僕は聞いた。
 「知らなかったの?」
 「いや、知らなかった」
 「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。
 「彼にその趣味があるかは知らないけど、あれはとにかく村上春樹よ。完璧に。二〇〇パーセント」

 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたの村上春樹」と呼んだ。
 そして今日でもなお、日本人の村上春樹に対する意識はおそろしく低い。
 要するに、歴史的に見て村上春樹が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。

 村上春樹は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが村上春樹だ。
 村上春樹は盲のいるかみたいにそっとやってきた。

 「それはそれ、これはこれ」である。
 冷たいようだけど、地震は地震、野球は野球である。
 ボートはボート、ファックはファック、村上春樹は村上春樹である。

 「どうせ村上春樹の話だろう」とためしに僕は言ってみた。
 言うべきではなかったのだ。受話器が氷河のように冷たくなった。
 「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにして村上春樹をめぐる冒険が始まった。

 「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔っ払い方も、なんでも好きだよ」
 「本当にこのままでいいの?」
 「どう変えればいいかわからないから、そのままでいいよ」
 「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。
 「世界中の村上春樹がみんな溶けて、バターになってしまうくらい好きだ」と僕は答えた。
 「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」
 僕はなんだか自分が村上春樹にでもなってしまったような気がしたものだった。
 誰も僕を責めるわけではないし、誰も僕を憎んでいるわけではない。
 それでもみんなは僕を避け、どこかで偶然顔をあわせてももっともらしい理由を見つけてはすぐに姿を消すようになった。

 「僕はね、ち、ち、村上春樹の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。
 「村上春樹が好きなの?」と僕は訊いてみた。
 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、村上春樹を作るんだ」

 村上春樹には優れた点が二つある。
 まずセックス・シーンの無いこと、それから一人も人が死なないことだ。
 放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
 他人とうまくやっていくというのはむずかしい。
 村上春樹か何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える。

 「ずっと昔から村上春樹はあったの?」
 僕は肯いた。
 「うん、昔からあった。子供の頃から。
 僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。
 でもそれが村上春樹というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。
 村上春樹は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ。
 僕が年をとるにつれてね。何故だろう? 僕にもわからない。
 たぶんそうする必要があったからだろうね」

 その夜、フリオ・イグレシアスは一二六回も『ビギン・ザ・ビギン』を唄った。
 私もフリオ・イグレシアスは嫌いなほうだが、幸いなことに村上春樹ほどではない。

 「それから君のフェラチオすごかったよ」
 直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。
 「村上春樹もそう言ってたわ」
 「僕と村上春樹とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。
 彼女は少しずつ村上春樹の話ができるようになっていた。

 泣いたのは本当に久し振りだった。
 でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。
 僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・村上春樹が・好きだ。
 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことを覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。

Ⅰ【文学コラム】35.風に吹かれて風の歌を聴け

【文学コラム】35.風に吹かれて風の歌を聴け(村上春樹文学について)


 「完璧な文章などといったものは存在しない。絶望が存在しないようにね」 ― 村上春樹『風の歌を聴け』冒頭より

 「完璧な"〇〇"などといったものは存在しない。"絶望"が存在しないようにね」――たとえばこの倒置された会話文を、本来の語順にもどすと「"絶望"が存在しないように、完璧な"〇〇"などといったものは存在しない」となる。この場合〇〇に入るのは、"希望"といった対義語に限定されるはず。この文に、原文のように"文章"という語を入れてみると、明らかに前後の脈略がなくなって意味不明な文章となってしまう。

 村上春樹の文章には、このように一見意味があるように思えるが、その内実のない空虚な文が多い。これは読者に自由かってな読み込みを許すとともに、若者が置かれている、意味が捉えがたくなっている今の世界の表象でもある。若者にとっては、取り巻く状況をうたい上げるフォークソングの歌詞のように、村上春樹の小説を「聞き流す」のがこころよいのだ。これが、「村上春樹文学」が世界中の言語の下でも受け入れられる根拠でもあろう。

 以前には、「完璧な"ノーベル文学賞"などといったものは存在しない。絶望が存在しないようにね」と言った単語置き換え遊びをやってみた。村上春樹の文の空虚さを確認する試みでもあったが、まさにこれがそのまま該当するかと思われる事が起こった。ボブ・ディランのノーベル文学賞がそれで、フォークソングの歌詞が果して文学かという議論もあった。

 これは、フォークソングの歌詞のように「気分だけ共有して聞き流せる」というものを、ノーベル文学賞選考委員会が「文学」だと認めたということで、同じような受容のされ方の「村上春樹文学」が受賞しておかしくないということだ。逆に言えば、一旦その種のものに文学賞を授与したからには、村上文学はしばらくスキップされるのかも知れないが、それはもはや関心外のことだ。

 もし日本に文壇史なるものがあったとすれば、その文壇が消えてなくなって久しい。文壇史を展望しようとした著作は伊藤整「日本文壇史」講談社、瀬沼茂樹「日本文壇史」講談社、さらに川西政明「新・日本文壇史」岩波書店と、膨大な巻数を数える。しかし私の知る限り、明治、大正、昭和と続く文壇も、・・・「第三の新人」、「内向の世代」ときて、ほぼ消滅したと見える。

 文壇が消え去っても何の痛痒もないし、文学に果たした文壇の独自の意味も見出しがたいが、同じような文学世界観を共有するグループの存在は、一通りの目安としての役割を果たしてくれた。ほとんど文壇スキャンダル史とも言える「新・日本文壇史」を書いた川西政明は、その文壇消滅の最後に、スキャンダルらしいスキャンダルもない「村上春樹」を単独でもってくる。

 文壇とは、ある程度「文学的世界観」を共有する緩やかな同時代人グループとでも呼べば良いのだろうが、明治以降の近代文学で一貫して共通するのは、少なくとも「純文学」と呼ばれた世界では「"私"をめぐる問題」が最優先された。それは日本文学固有の性格であり、その世界を狭隘にしたものでもあったが、とにかくそれは文壇史を一貫して来たと言える。

 然るに川西政明は、『春樹は「私が私であるのはいやだ」という自同律の不快から出発し、「世界の終り」にいた「僕」を救出する場所までやってきた。』と指摘する。つまり村上春樹は、「私」を拒否することで私の自己撞着から免れようとする。窮屈な近代世界の「私」に窒息しそうな若者たちにとっては、それはビデオゲーム同様の「私からの解放」とうつるだろう。

 村上春樹の文学は、たしかに「私からの解放」であった。それは、「文壇」および「文壇史」からの解放でもあった。しかしそれは同時に、日本文学固有の「私」の死でもあった。つまりは、日本文学の消滅を意味する。これは「私の自己同一性」を否定する現代思想/ポストモダンの思想と軌を一にするものであるが、そうであるなら、もはや「文学」である必要もないのではないか。

 私は村上春樹と同年代であるが、文学的には「第三の新人」など一世代前の文学に馴染んできた。そして、村上春樹以降の世代の文学は、まったく読めなくなった。それ以降の世界の表現には、文学よりも、漫画・アニメ・映画・ポップスソングなどという媒体がより適しているのではないかと思われる。当然これは、私の個人的な思いに過ぎないが。