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XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】08.テレビの普及と生活の変化

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】08.テレビの普及と生活の変化

 1888年に創刊の「少年園」が、日本初の総合的少年雑誌といわれているが、当初の雑誌は男女や年齢層を明確に区分していなかった。しかし、1914年に「大日本雄弁会(講談社の前身)」から「少年倶楽部」創刊されると、「怪人二十面相」などの小説、「のらくろ」や「冒険ダン吉」といった漫画を掲載し、飛行機などの紙製模型を付録にするなどして、男子の人気を得えて、少年雑誌の代表例となった。


Ⅰ【文学コラム】37. 『小野小町と小町伝説について』(文学部レポート)

Ⅰ【文学コラム】37. 『小野小町と小町伝説について』(文学部レポート)

 

『小野小町と小町伝説について』(S47年度前期、国文学特殊講義レポート/23歳)

 なぜ小野小町を取り上げるか、ということから始めようと思う。


小野小町という名を聞いて、まず私の頭に浮ぶのは絶世の美女というイメージである。何々小町と言えば美女の代名詞となっており、いつの世の男性にとっても憧れの対象となった女人像であろう。そしてこの理想の女性像は、決して良妻賢母とか貞女の鏡といったもう一方の理想的女性像とは結びつかない。その結びつかないところが魅力の所以である、と私には思われる。小野小町という名は、世慣れた男をニタリと喜ばせ、純情な青年の心をときめかせるような魅力をもっているのである。そして、私の中のミーハー精神もまたその魅力に感応した、というわけだ。これが、ここで小野小町について愚考してみようとする動機である。

 「をのゝこまちは、いにしへの衣通姫[そとおりひめ]の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり。」

 これは古今集仮名序に紀貫之が記している有名な一節である。古今集撰者としての貫之は、ここではもちろん小町の歌そのものについて述べているのであって、必ずしも容色について云々しているわけではあるまい。しかし素直な気持で読んでみると、どうしても小町は美女でなければならないというような響きが感じ取れないだろうか。「衣通姫」というのは、躯[からだ]の色が衣を通して光り輝くほど美しかったのでその名が付いたと言われているそうだから、この当時の美女の代名詞だったと解することができる。その衣通姫にたとえられる小野小町が、実のところ醜女であったということになれば、小町の歌そのものがグロテスクな様相を帯びてきて具合の悪いことになるのではないだろうか。また、「いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり」とある「よきをうな」とは、「美き女」という字を充てるのが適当な気がする。やはり小野小町という女性は、「美[よ]き女[をうな]」でなくてはいけないのである。

 一方、小町の歌才については、貫之が六歌仙の一人に挙げているという事実だけで十分であろう。したがって、「才色兼備の女人」という小町のイメージが成立していたと推定してよいと思われる。多くの小町伝説が後世に語られるようになったその原動力を、私はこのイメージに求めたいと思う。それはまた、初めに書いた小野小町という名の持つ魅力として、現代の我々の空想力を刺激するのである。

 種々の小町伝説が形成される原動力は想定された。次に問題となるのは、その原動力が展開していく方向を規定したものは何かということである。結論的に言うと、その方向付けに重要な作用をしたものとして、古今集その他に残されている小野小町自身の歌を挙げたい。要するに、才色兼備の女人というイメージを結んだ小野小町の魅力が原動力なり、彼女自身の歌がその展開を方向付けた、という乱暴な仮説を立ててみたわけである。

 以上によって、このあと私に残された仕事は明らかになってきた。巷間に残されている種々の小町伝説なるものを、何らかの形で歌人小野小町の歌と結びつけてみせるという仕事である。ところが遺憾ながら、私にはその能力もないし根気もない。したがって、以下の文章は実証的研究とは程遠い出鱈目な考察となってくることと思われるので、その点は予め御了承いただきたいものです。

 まず、小町の歌を手っ取り早く片づけてしまおう。と言っても、歌の出来栄えについては私に云々する資格がない。ここで問題とするのは、その内容についてである。さて、数少ない小町の歌を内容的に見ると、次のような三つの系統のものが見出せる。

(A)遂げられぬ想いを嘆く歌。
(B)我が身の容色の衰えを悔む歌。
(C)言い寄る男をうまく受け流す歌。

 分類Aの例。
うたたねに恋しき人をみてしより 夢てふものは頼みそめてき

 分類Bの例。
花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに

 分類Cの例としては、安倍清行とのやり取りを挙げておこう。
  あべのきよゆきの朝臣
つゝめども袖にたまらぬ白玉は 人をみぬめの涙なりけり
  返し 小町
おろかなる波だぞ袖に玉はなす 我はせきあへずたぎつ瀬なれば

 なお、この小町の返し歌については、抑制しえぬ激しい恋心を詠んだものとする説があるが、それではこのやり取りの妙味がなくなってしまう。ここはやはり、小町の機知が清行の戯れの求愛歌を、白々しい間の抜けたものにしてしまった、という所に解釈の焦点を置いておきたい。

 以上に例として挙げた三つの歌からだけでも、小町と言う女人像が朧げに浮び上がってくる。試みにそれを考えてみよう。

 何よりもまず、絶世の美女という但し書きがある。それだけでも、世の男性としては小町に対して好意的にならざるを得ない。花の色の衰えを悔むにしても、これが醜女であれば、何と浅ましい女だということになる。ところが絶世の美女ということになると発想の展開の仕方が、ぜんぜん異なってくる。容色だけにしか頼ることのできない女の性[さが]の哀しさ、という同情的な方向に考えが向いていくのである。

 男を突っぱねるにしても、そこに機知の閃[ひらめ]きがあるだけに、決して非情な女とは映らない。その突っぱね方で、多少の冷酷さを感じさせる程きっぱりした調子であるいことで、むしろ第三者的立場に在る男にとっては痛快であり、よりいっそう魅力をつのらせるものである。

 このような驕慢とも思える強さを示す女性が、いったん恋に身を置く立場に陥ると、夢をも頼みとするような弱々しい女に変貌する。この落差が、小町の読者たる男性諸氏を一挙に小町ファンに仕立て上げてしまう。少なくとも、多少ロマンティックな要素を持った男性であれば、まずはひとたまりもないであろう。あとは、各自の頭の中にある具体的な美女のイメージをそれに当てはめて、空想のおもむくままに楽しめばよいというわけである。

 いづれにしても、空想の展開するのに十分な条件は整ったことになる。かくして、様々な空想を経て種々の小町伝説が流布することになったとしても、そこに不思議はないであろう。

 今から、種々の小町伝説を取り上げて先に分類した歌と結びつける作業に移るわけであるか、残念なことに私の手元にはほとんど資料がない。たった一冊だけあることはあるのであるが、それが資料として利用するには甚だ心もとないものである。手の内を見せてしまうことになるが、ここでその唯一の資料、というよりも種本[たねほん]に近いものとして利用しようとする書物を紹介しておきます。

 吉行淳之介著『小野小町』がそれである。これは、著者自身「戯作」と称する作品で、週刊誌上に連載された小説である。小説である以上、それを資料として用いるということ自体に問題があるのであって、そこから生じる誤りの責任は当然私の方にある。しかしまあ、そんな堅いことを言っても仕方がないので、この小説で取り上げられている伝説を引用させていただきます。なお、この小説における著者の解釈はすこぶる興味深いので、この点に関しても大いに頼らさせていただくことになります。

 まず有名な、深草少将百夜通いの伝説を取り上げよう。言い寄る深草少将の心の誠を試みるため、小町が少将に百夜通いすることを課す、という噺である。この説話はかなりすんなりと、分類Cの系統の歌からくる小町につながる。この説話に於いては、小町は少将に惚れられた強い立場にあり、結局少将は百日目の晩に雪の中で倒れるという、悲劇とも喜劇ともつかない落ちになっている。

 ところで、前出の吉行氏の小説の中では、藻之瀬[ものせ]二郎説なるものが紹介されている。著者吉行氏が古本屋で見つけた『小野小町』という書物の著者が藻之瀬二郎であり、その書物からの引用という形で吉行氏の小説に書き込まれているのが藻之瀬説である。その藻之瀬説に於いては、小町と少将のやり取りが、全く別の方向へすこぶる面白く展開されているのであるが、長くなるのでここでは省略せざるをえない。なお、この藻之瀬二郎とその著書なるものは、小説の中では明言されていないが吉行氏自身のでっちあげではないか、と私見する次第である。

 次に取り上げるのは、いわゆる髑髏[どくろ]伝説なるものである。簡単に紹介すると、落魄窮死した小町の髑髏が行きすがりの旅人に語りかけ「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ 小野とはいはじ薄[すすき]生ひけり」という歌を詠む、といった筋書きである。誰のものとも判別できない髑髏の眼窩から薄が生い出ているという荒涼たる風景は、容色の衰えを悔む分類Bの系統の歌を延長した線上にあり、しかもその最極点に位置するものであろう。

 これに類似したもので落魄した小町の後日譚の系統の説話はかなり多くあるようである。なぜ絶世の美女であった小野小町が、このような老醜をさらす説話に登場しなくてはならなかったのか。これはかなり興味深い問題だと思われる。後世の仏教的無常観や儒教観が何らかの作用を及ぼした、ということは十分に考えられることである。しかしそれだけでは納得しきれないような要素が残るように思われる。私は次のように考えてみたい。

 小野小町は絶世の美女ということになっている。ありふれた平凡な男女にとっては、とうてい手の届かない位置にあるのである。そこで、これでは癪だから何とか自分たちのレベルにまで引きずり降ろしてやろう、いうことになる。つまり、「美人美人と言うけれど婆[ばばあ]になれば皆同じ」という糞リアリズム的発想へと行きつくのである。この発想が逆に働くと、最初から自分たちとは比較不可能な神様の位置にまつり上げてしまうことになる。その例が御伽草子に見られるようである。「小町草紙」という説話で、小町という色好みの遊女が実は如意輪観音の化身であった、という噺である。まるで古典落語の世界のような、荒唐無稽でユーモラスなこの噺は、私の好みに合いそうなので一度原文にあたってみたいと思っている。

 最後に、分類Aに属する歌、つまり遂げられぬ想いを嘆く歌に結びつく伝説を取り上げようと思うのであるが、なかなか適当なのが見当たらない。やむを得ず、鎖陰伝説なるものに登場願うことになった。これは伝説というより俗説と呼ぶのが適当なもので、噺の筋書きも何もありはしない。要するに、小町は鎖陰であったという俗説である。鎖陰とは吉行氏の説明を引用させてもらうと、「要するに男性と交わることが不可能な陰部構造」ということが分かればよろしいとのことである。ちなみに、糸を通す穴のあいていない針を小町針と呼ぶのは、この俗説に由来するらしい。

 想いが遂げられないで夢を頼みにしている歌など、フロイト流の分析でも用いれば何とか鎖陰伝説にこじつけられそうである。また、「想いが遂げられない」という意味を適当に解釈すれば、もっと直接的に結びついてしまう。しかしここで重要なのは、如何なる過程を経てこの俗説が形成されたのか、という問題である。この点については吉行氏の絶妙な解釈があり、私もその見解に賛成なのでここで簡単に紹介しておこう。

 小野小町は絶世の美女であり、また歌才にも秀でていた。いわば、当時における才色兼備の大スタアであったのである。となるとファン気質としては、特定の人物にスタアを独占させないためには、女性としての肝心な部分を抹消してしまえ、ということになる。こういうプロセスで、小町の躯から局部が消え失せた。(もちろん、人々の観念上に於いてである)以上が吉行氏の解釈である。このようにして形成された俗説は、小町自身が詠んだ歌とも微妙に結びつけられて流布されていったのである。

 いわゆる小町伝説として総称されているものは、必ずしも起源を歌人小野小町にもつものばかりではなく、全く異なった起源に発するものも多いということである。しかしながら、その区別が判然とせずに、小町伝説として小野小町に結びつけて伝えられてきたからには、やはりそれなりの結びつく要素があったからであろう。とすれば、その結びつきに視点をあてて、その糸をたぐってみるという作業にも、それなりの意味を与えることができる。そのような観点から、このレポートを書くに至った次第である。もっとも、かなりデタラメな作業ではありましたが……。

 なお、前記の書以外に、目崎得衛著『在原業平・小野小町』(筑摩書房刊・日本詩人選6)を参考にさせていただきました。

「千年前の女流詩人“小野小町”」
https://www.youtube.com/watch?v=G_EoYCxJwMY


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】07.少年雑誌と漫画の世界

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】07.少年雑誌と漫画の世界


 1888年に創刊の「少年園」が、日本初の総合的少年雑誌といわれているが、当初の雑誌は男女や年齢層を明確に区分していなかった。しかし、1914年に「大日本雄弁会(講談社の前身)」から「少年倶楽部」創刊されると、「怪人二十面相」などの小説、「のらくろ」や「冒険ダン吉」といった漫画を掲載し、飛行機などの紙製模型を付録にするなどして、男子の人気を得えて、少年雑誌の代表例となった。

 また、大日本雄弁会では、小学生から中学生を中心読者とした少年雑誌「少年倶楽部」、義務教育を終えた層向けの大衆雑誌「キング」と、年齢階層別の雑誌展開を進めていく。さらに、少女向けの「少女世界」が創刊されるなど、少女雑誌というジャンルが分離していった。

 第二次世界大戦後は、少年雑誌の漫画雑誌化が進み、ベビーブーム世代が就学するころには、ほぼマンガ誌と呼べる内容になっていった。そして、いくつもの「紙製付録」をつけて付録合戦の様相をしめした。さらに、人気漫画シリーズの「別冊付録」も登場して、付録が少年雑誌の間にはじけそうにはさまれた月刊漫画誌が、書店店頭にうず高く並んだ。

 1960年代になってテレビが普及する前には、少年少女月刊誌は、子どもたちにとって唯一のメディアであり、娯楽、遊びなどの情報すべてを提供していた。毎月の雑誌販売日ともなると、いちばんに書店に飛び込んで雑誌を買い、好みの連載漫画を真っ先に読むというあんばいで、厚紙と輪ゴムなどで作る組立て付録でさえ楽しみにした。

 漫画中心になっていたが、読み物も、SFや推理、冒険もの等の小説は、挿絵たっぷりの絵物語風でまだ残っていたし、兵器やメカの図解、スポーツ情報、一口知識や笑い話、世界の謎といった少年向けの情報も提供された。それらの情報が、子供たちの遊びの流行を作り出していた。

 当時のおもだった少年雑誌と、ヒットした漫画を挙げてみよう。

『少年画報』       「まぼろし探偵」(桑田次郎)・「赤胴鈴之助」(福井英一/武内つなよし)
『少年クラブ』   「月光仮面」(川内康範 作/桑田次郎 画)
『冒険王』            「アラーの使者」(川内康範 作/九里一平 画)
『少年』                「鉄腕アトム」(手塚治虫)・「鉄人28号」(横山光輝)
『ぼくら』            「七色仮面」(川内康範 作/一峰大二 画)・「少年ジェット」(武内つなよし)

 「まぽろし探偵」「月光仮面」「七色仮面」「少年ジェット」などは、テレビで実写ドラマ化され、人気の連続番組となった。「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などのロボットものは、実写ドラマには無理があり、のちにアニメ化されてから大人気となった。テレビ番組でのキャストには、少女時代の吉永小百合、藤田弓子、山東昭子などがいた。

 高度経済成長下の1960年代にはいると、テレビという新しい娯楽メディアが各家庭に入り込み、プラモデルや最新玩具が登場すると、流行が早くなるとともに、紙工作の組み立て付録も通用しなくなった。そして1959年には、「少年サンデー」(小学館)・「少年マガジン」(講談社)が発刊され、週刊漫画雑誌の世界に移っていった。

Ⅶ【サブカル関連コラム】16.【つげ義春の訃報】

Ⅶ【サブカル関連コラム】16.【つげ義春の訃報】


 つげ義春の訃報が伝えられた。 「ねじ式」「沼」「 紅い花」など芸術性の高い前衛漫画で知られ、国際的にも高く評価されていた「つげ義春」が、2026年3月3日、 誤嚥性肺炎のため88歳で死去したという。

 つげ 義春は1937(s12)年生まれで、18歳で「貸本雑誌」でデビューしたが、その後1967年に月刊漫画雑誌「ガロ」で「ねじ式」を発表、多くの読者・文化人に衝撃を与えた。私自身は「ガロ」のさほど熱心な読者ではなかったが、その評判は気になっていた。

 1960年前後は、「少年サンデー」「少年マガジン」といった少年向け週刊誌が発刊され、漫画誌の移行期であり、少年向けの漫画家が多く誕生した。一方で、テレビの誕生で紙芝居が廃れて、紙芝居画家の多くは「貸本漫画」に移行していて、「影」「街」などホラーやサスペンスの「劇画」が隆盛しつつあった。
 「ガロ」は1964年、貸本漫画の編集者 長井勝一と漫画家 白土三平により発刊された。白土のスケールの大きな作品「カムイ伝」を連載するのが、創刊の最大の目的だったが、同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。

 「ガロ」は、先見性と独自性で一時代を画し、それまで無かった個性的な漫画家たちが集い、それらの作風は「ガロ系」と呼ばれた。それまでの少年漫画と異なり、より高い年齢層の青少年に読まれて、新しい「青年漫画雑誌」というジャンルを切り開いた。

 当初の「ガロ」は、白土の「カムイ伝」と水木の「鬼太郎夜話」の2本柱で展開されたが、そこにつげ義春が登場すると、その幻想性、叙情性の強い哲学的作風により、さらに「ガロ」の世界を拡大した。

 つげ義春の漫画は、商業的な娯楽漫画とは一線を画し、暗い叙情、ユーモア、不安、疎外感を静かに描き、全共闘世代などにもガロは熱狂的に支持された。漫画史に画期をなし、寡作ながら作品の芸術性は国内外で高く評価されている。映画化や全集刊行も多数あり、近年は欧米での翻訳・再評価も進んでいるという。


つげ義春 代表作
『ねじ式』(1968年):夢のような超現実世界を舞台にした前衛的な短編。迷路のような不条理な物語で、漫画表現の革新として衝撃を与え、「つげブーム」を巻き起こした。シュルレアリスム的と評されることが多い。

『紅い花』(1967年):少女が大人になる瞬間を叙情的に描いた作品。夏の日の情感が美しい。

『沼』『李さん一家』『ゲンセンカン主人』『もっきり屋の少女』など:うらぶれた温泉や漁師町を舞台に、暗い情念や日常の不条理を織り交ぜた短編群。

『無能の人』(1980年代):主人公の「無能さ」や貧困・挫折を淡々と描いた私小説風連作。


Ⅺ【おもいつき歳時記】06.【七夕】

Ⅺ【おもいつき歳時記】06.【七夕】


 「端午の節句」(5月5日)は、男子の成長と健康を願い、鎧・兜・鯉のぼりなどを飾る日である。菖蒲を飾り、その強い香りで厄を払う「菖蒲の節句」とも呼ばれ、菖蒲湯に入る風習もあり、男子の将来の立身出世を祈る。

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】06.高度経済成長と大衆文化

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】06.高度経済成長と大衆文化


 1955年にGDPが戦前水準を越えると、翌年の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言した。60年安保が終わり池田内閣が始まると、所得倍増計画を発表し、政治から経済の季節へと移った。以降、10年以上に渡った高度経済成長期には、生活水準の飛躍的向上に伴い、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの「三種の神器」が普及し、大量消費社会が到来した。

 1960年代後半には、新三種の神機(3C)と呼ばれたカラーテレビ・クーラー・自動車が急速に普及し、家事の省力化と、家庭内で娯楽を楽しむ生活様式が定着した。所得が倍増し、9割の国民が中流意識を持つようになり、「一億総中流」社会が形成された。このように、経済的な豊かさが、文化の主役を「特別なもの」から「誰もが享受できるもの」へと変貌させた。

 大衆文化の広がりには、家庭の中心に据えられたテレビの影響が圧倒的だった。TVによるドラマ、アニメ、バラエティが、全国共通の話題になり、学校でも生徒の間の話題はもっぱらテレビ番組で、観ていないと話題についていけなくなるほどだった。

「ALWAYS 三丁目の夕日」

 若者が大衆文化の前線に登場し、音楽・映画・ファッションで若者文化が花開いた。音楽では、ビートルズの影響などからロックブームが起き、一方で反戦歌などからフォークが導入された。それらが日本的に融合して「グループサウンズ」などが誕生し、「受け取る音楽から自分たちが作る音楽へ」と変貌していった。

 ファッション界でも、雑誌やテレビのCM主導で「アイビー族」「アンノン族」が登場し、ミニスカート、ジーンズが一般的な普段着となり、既製服メーカー(アパレルメーカー)が送り出す安価でファッショナブルなアパレルを身に着けた、カジュアルで個性的な若者ファッションが街中にあふれた。

 さらに消費・レジャーの拡大で、旅行(ディスカバージャパン)、外食(ファミレス/回転寿司の登場)などで娯楽支出が増加、「モノの豊かさ」から「心の豊かさ」やライフスタイル重視へ移行が見え始めた。 

 このような「大衆社会」の進展にともなって、一方で、画一化・消費至上主義批判もなされるようになり、テレビによる意識の均質化、公害・過密問題、伝統の希薄化などがさけばれた。それらへのイラダチは、過激な「学生運動」にも反映され、一方では無関心・無気力な「しらけ世代」が現れた。

◎時代の変遷を示す流行語
*「重厚長大」から「軽薄短小」へ(花形産業)
*「モーレツからビューティフルへ」(1970年/富士ゼロックス)
*「大きいことはいいことだ」(1967年/森永製菓)
*「となりのクルマが小さく見えます」(1970年/日産サニー)
*「のんびり行こうよ おれたちは」(1971年/モービル石油)


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】05.草創期のテレビ文化

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】05.草創期のテレビ文化


 1953年2月1日、NHKがテレビ本放送を開始。8月28日には民放のトップを切って日本テレビ ( NTV )が本放送を開始した。テレビジョンは日本でも戦前から研究が進み公開実験放送を行うまで来ていたが、太平洋戦争のために中断を余儀なくされ、テレビの実用化は1946年の研究解禁を待つことになる。

 この開始の年すでにNHKでは、「ジェスチャー」「のど自慢素人演芸会」「大相撲中継」「NHK紅白歌合戦」などの番組を始めており、日本テレビでも「プロ野球巨人戦」が中継された。しかし、当初の受信契約者の多くはアマチュアによる自作の受像機、ほかは海外から輸入の受像機、国産初はシャープ製で175,000円、当時の会社員給料の数年分相当であったという。

 読売新聞社の総帥正力松太郎は政界への影響力を行使して、最初の民放テレビ「日本テレビ」を開局にこぎつけたが、広告を収入源とする民放では視聴者数の確保が第一。そこで「街頭テレビ」の設置を推進し、力道山のプロレス中継などで大観衆を集めた。当時はビデオテープが高価で、スタジオドラマやバラエティ番組はほとんどが生放送、スポーツ中継も当然生中継しかなかった。その他、ニュースや劇場映画や外国輸入テレビ映画などは、もちろんフィルム撮影のものだった。

 自身のテレビ体験から振り返ると、街頭テレビを直接に見た記憶はない。商店街の電気店などはラジオ工作キットなどを扱っているところが多く、その技術で自作のテレビを制作して店頭で放映して観せていたのが、最初のテレビ体験だった。次に普及し出したのはうどん屋などの大衆食堂、これは当然客寄せのためで、数十円のうどん代だけ持って観に行った記憶がある。

 その次の手段は、近隣で先にテレビの入った家に観せてもらいに行くこと。電話もそうだったが、当時に先にテレビの入った家は、ある種のノブレス・オブリージュ(高貴者の義務)ということで、電話の取次ぎはもちろん、テレビを観に来た子供たちを追い返すことはなかった。ただし、たいていは意地の悪いバカ息子とかが居て、こちらが観ているチャンネルをガシガシャと変えるのであった。

 そして自分たちの家にもテレビが手の届く状況になったが、自分の家ではなかなか買ってくれない。ほとんど周りの家に入ったが、こいつところだけには負けないと思っていた近所の遊び仲間とこが、商店街の抽選一等賞を当てて先に入れられたのは悔しかった。


 さすがに、テレビ受像機の中に人が入っていろいろ演じていると信ずるものはなかったとおもうが、テレビの醸し出すリアル感はすごいものであった。のちのカラーテレビでは、プロレス中継での流血画像を観て、ショック死した老人がいたというのが話題になった。
 
 アメリカからの輸入物テレビ映画も多く放映されていて、「名犬ラッシー」だの「ローハイド」など、ジャンルに拘わらず何でも観たものだが、観せてもらいに行っていた向かいの家の婆さん曰く、「最近の外人さんは日本語がうまいねぇ(笑)」。テレビは一般大衆が家庭で観るので、劇場映画と異なって、外国TV映画もすべて声優による吹替だった。

 1950年代後半から高度経済成長が本格化すると、テレビは「三種の神器」(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)のひとつとして数え上げられた。1959年の皇太子(現上皇)ご成婚のパレード中継で一気に普及し、家族でテレビを囲む家庭団らん風景が当然となった。

 1960年代に入ると視聴時間が急増、ラジオを抜いて家庭の主な娯楽メディアとなり、それまで娯楽の主役だった映画を抜いて、映画産業の衰退を引き起こした。子供たちはテレビにかじりつき、「テレビが子どもに悪影響を及ぼすのでは」という懸念も持ち上がった。

 子供だけでなく大人までもが低俗な番組を見て喜ぶ様子を、社会評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」と名付けて、一躍流行語となった(「総」をつけたのは作家松本清張)。テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう、という意味合いの言葉で、テレビの負の側面をあぶりだした。