このブログを検索

Ⅸ【歴史コラム】15.【日米開戦の背景】

 


 【歴史コラム】15.【日米開戦の背景】


 【20th Century Chronicle 1941(s16)年】-3
 

◎日米開戦
*1941.7.25/ 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
*1941.8.1/ ルーズベルト大統領が、対日石油輸出を全面禁止とする。
*1941.11.26/ ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
*1941.12.8/ 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 

 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。

 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。

 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。

 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第2次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻していたにもかかわらず、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第3次近衛内閣を組閣する。

 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を10月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否される。戦争の決断を迫られた近衛は、妥協策による交渉に道を求めたが、東条英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。

 18日東条内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東条を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東条も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。

 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。

 日米交渉決裂の結果、東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた(マレー作戦)。

 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された(真珠湾攻撃)。
 

(追記2022/01/22)
 ハルノートの事実上の起草者は財務次官のハリー・ホワイトで、彼は戦後ソ連のスパイとして告発されて自殺している。ルーズベルトの周囲にはスターリン指揮下のコミンテルンのスパイが張り巡らされており。ルーズベルト自体が、容共主義者でレイシストだった。かくして彼をして、日米開戦を推進する状況が整っていた。

 一方で、日本の近衛首相も公家の血を引きながら、「貧乏物語」で有名な社会主義者 河上肇に学ぶため京都帝大に転学するなど、社会主義的な思想に馴染んでおり、首相となった近衛の周囲には、やがてゾルゲ事件で死刑となる尾崎秀実や、戦後は社会党顧問になった社会主義者 風見章など、コミンテルンの息のかかったスパイが内閣の中枢に絡んでいた。

 スターリンは、ヒトラードイツの侵略を想定しており、東方の満州を支配している日本と対立しないために、日ソ中立条約を結び、さらに日本を南進させる工作を、ゾルゲなどを通じて進めていた。他方で、アメリカにも日米開戦に向けさせるようにルーズベルト周辺に工作員を侍らせた。

 かくして、真珠湾攻撃の情報を得ながら、無視して攻撃させたルーズベルトは、日米開戦にこぎ着け、さらに念願のヨ-ロッパ戦線に参画するのに成功した。そして、東方戦線の憂慮を消すのに成功したスターリンは、すべての戦力をナチスドイツとの西部戦線に投入できたわけだ。

 スターリンの指揮下のコミンテルン恐るべし、という話が、ソ連崩壊やソ連の戦時中の暗号電信を解読したヴェノナ文書などで、徐々に明らかになりつつあるようである。
 

(この年の出来事)
*1941.6.22/ 独軍がバルト海から黒海にわたる戦線でソ連攻撃を開め、「バルバロッサ作戦」が開始される。(独ソ戦が始まる)
*1941.10.16/ 対米開戦が不可避になるも、近衛文麿首相は開戦責任を避けようとし、東条陸相と対立、内閣を投げ出して総辞職。18日、内相と陸相を兼任して東条内閣が成立する。
*1941.11.22/ 国民勤労報国協力令が公布され、男子14~39歳、未婚女子14~24歳には勤労の義務が課される。