このブログを検索

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍とパンパン

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍とパンパン風俗


 敗戦後、連合国軍によるGHQの創設とともに、進駐軍として米兵を主とする多くの連合国兵が日本各地に駐留するようになった。そして進駐軍の駐留基地を中心として、多くの米国文化が日本にも普及しだした。

 ジャズをはじめとした米音楽やダンスが広まり、東京・大阪などの大都市に「米兵向けダンスホール」が急増(1946年頃には東京だけで200軒以上)。ここではルンバ、タンゴ、フォックストロット、ジルバ(ジルバ=ジャイブの日本風呼称)が盛んに踊られました。
日本人ダンサー・バンドマンが米兵相手に演奏・ダンス指導を行い、生計を立てるようになりました。有名な例では、後の大物ミュージシャン(服部良一、淡谷のり子、笠置シヅ子など)がこの時期にジャズやブギウギに深く関わっています。


戦後の混乱期(1945年~1950年ごろ)
昭和戦後の風俗文化は、敗戦直後の混乱期に**「パンパン」**と呼ばれる売春婦が街頭に立ち、赤線・青線地帯が形成され、**特殊飲食店(カフェー)が乱立したのが特徴で、これらが後の日本の風俗産業の土台となり、戦後復興と共に変化しながらも、「マントル嬢」「ソープ」「ファッションヘルス」**といった多様な形態へと変遷していきました。 
戦後の混乱期(1945年~1950年代初頭)

「パンパン」の出現: 2特殊慰安施設協会(RAA)廃止後、職を失った女性たちが街頭で客を引くようになり、「パンパン」と呼ばれました。新宿、有楽町、上野などが活動の拠点となり、北海道千歳市にも多く流入しました。

赤線・青線の形成: 1かつての遊廓や新規参入者が「カフェー」と称して営業し、赤線(純娼地域)や青線(混交地域)が形成されました。
特殊飲食店(カフェー): 1「パンパン」や「赤線」と並行して、カフェー(特殊飲食店)が多数営業し、後のバーやクラブの原型にもなりました。 


高度経済成長期以降(1950年代後半~1970年代)
制度の変化と業態の多様化: 3売春防止法の施行(1956年)により公娼制度は廃止されますが、裏社会や隠語の中で業態は多様化。
「マントル嬢」の登場: 3賃貸マンションの一室を仕切って売春を行う「マントル嬢」という形態が登場し、密室化が進みました。 
現代への繋がり
これらの戦後から続く風俗文化は、「ファッションヘルス(ヘルス)」やソープランドなど、より専門化・多様化した現代の風俗産業へと繋がっていきます。 
まとめ
昭和戦後の風俗文化は、戦争の爪痕と社会の混乱の中で発生し、一時的な現象に留まらず、日本の風俗産業のルーツを形成しました。それは、女性たちの生活の場でもあり、男性の娯楽の場でもあり、時代と共にその姿を変えながら、現代まで続いてきた社会の一側面と言えます。


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化


 「カストリ復刻版(s50年刊)」という雑誌が手元にあった。「カストリ雑誌」とは、戦後焼跡闇市の時期、雨後の筍のように発刊された粗悪な作りの雑誌の総称である。戦後の食糧不足時代、駅裏などの闇市で売られた粗悪な焼酎や怪しげな密造酒などを「カストリ酒」と呼び、同様に粗悪乱造され、エロ・グロ・ナンセンスを売りにした雑誌を「カストリ雑誌」と呼んだ。

 「三合も飲めば潰れる」と言われたカストリ酒にかけて、カストリ雑誌も「三号」も続けば良いというダジャレからそう呼ばれた。カストリ雑誌によく登場する当時の流行語らしきものを、ランダムに挙げてみると当時の世相がイメージされてくる。「カストリゲンチャー」「リンタク」「デンスケ」「裏口営業」「エロショウ」「モク拾い」「ピロポン」「パンスケ」e.t.c

 これらの文物が世間に見られた時代の大衆文化は、「カストリ文化」とも呼ばれ、それは「戦後闇市文化」でもあった。カストリ雑誌のブームは1946(昭和21)~ 1949年(昭和24年)頃と言われ、意外に短く終焉して行った。それは朝鮮特需が始まり、やっと物も行きわたり出し、敗戦のどん底から復興の兆しが見えてきたことと並行していた。

 この時期に活躍した写真家 林忠彦著「カストリ時代/レンズが見た昭和20年代」では、まさしく時代の空気を映し出した写真が多く見られる。林は当時の文士を切り取った写真でも有名である。

 太宰治、坂口安吾、織田作之助など「無頼派」とも呼ばれた彼らは、まさしく、この時代と格闘し討ち死にしたような作家生涯を送った文士である。当方は生まれて間もない時期だったので、当時の状況を知る由もないが、何故か彼らの生きた時代が懐かしく思える。

 当時の闇市で怪しげなカストリ酒を飲んで頓死したひとりの文学青年を悼んで、友人の若き詩人が記した一片の詩がある。

 「死にたい奴は死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」
ひたすら生きることへの切迫感のただ中だからこその、無二の親友への追悼詩である。