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Ⅰ【文学コラム】24.本棚の隅にあった古い本から

【文学コラム】24.本棚の隅にあった古い本から


 本棚を久しぶりにいじっていたら、こんな本が出てきた。『近代詩人集』、新潮社刊の世界文学全集の中の一巻で、奥付を見ると、なんと昭和五年五月発行となっている。西欧著名詩人のアンソロジーで、目次を見ると、知らない詩人をも含めて、百名近くのものが集められている。

 当時の代表的な訳詞者をそろえていて、さすがに文語訳は少ないが、旧漢字旧仮名遣いで、戦後教育で育ったものには読みづらい。「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳があるが、さすがに「ゲェテ」となっていたので、有名な「野ばら」の詩をスキャンしてOCR(光学式文字読み取りソフト)にかけてみた。次にそのままコピペしてみるが、ほとんど完ぺきに変換していた。10年ほど前にはよくOCRを利用していたが、当時は誤変換だらけで手入力の方が速かったぐらいだった。

「あれ野の薔薇」(生田春月訳)

男の子供が薔薇を見た
あれ野の薔薇を、
そ力朝のやうな若さ美しさを
なほよく見ようと駈け寄って
子供は見ました喜んで。
薔薇よ、薔薇よ、紅薔薇よ、
あれ野の薔薇よ。

 三行目の"そ力朝のやうな”は、"その朝のやうな”で、一文字だけ誤変換があったが、これは原本の「の」がかすれて印刷されているせいだった。シューベルトの歌曲として、「わらべは見たり、野なかの薔薇・・・」と耳になじみのある訳詞者は近藤朔風で、これより以前に訳詞されたものである。

 私より一歳年上の義兄が、30歳代前半で鉄道事故で亡くなった。その整理で義兄の部屋に行ったときに見つけて、何となく残しておいた数冊の古本の一つだった。義兄は高校を中退してペンキ職人をしていたが、過激派学生として大学を除籍され、住まい近くにあった寮を追い出された京大の貧乏学生などを住まわせていた。

 思想的な関係は不明だが、ジャズ喫茶などを通じて知り合った学生たちらしい。自宅はボロボロの借家で、雨漏り受けの洗面器を幾つも置いて生活していたが、そんな家に入れ替わり、何人もの放校された学生を住まわせていた痕跡があった。前に居た学生がそのまま残していった書物などが残されており、どの学生のものとも知れない書物の中から、たまたま整理に行った私が拾っておいたものである。おそらく旧制三高の蔵書印が押されていたりする。

 たまたまその時に、大学を放校されて、かつてこの家に住まっていた元学生が、供養に来てくれていた。まともな就職口もなく、臨時の作業員などで糊口をしのいでいるようだったが、部屋に何十枚もあったジャズのLPレコードを見つけて、これをかつての仲間たちに頒布して、お供養にしたいと言ってくれた。

 義兄はきわめて気の良い男で、私も気にいっていたが、唯一、酒癖が悪く、酔うとみさかいがなくなった。ある時には、自宅のガラス窓を一枚一枚割っていたところ、警察に通報され、やって来た駐在の胸ぐらをつかんだとかで、公務執行妨害で留置されたことがある。留置場では、自分の便器を手で洗わせられるんやで、とか状況を話してくれたりした。

 我々の結婚式にも、慣れないスーツに革靴姿で来てくれた。二次会では馴染みのない参加者らで気詰まりだったのか、革靴を脱いで椅子の上にあぐらをかいていたが、唐突にトイレに行く様子で出て行ったあと、そのまま帰って来なかった。ぽつんと残された革靴を眺めながら飲み続けたが、あとで聞くと、外へ出て帰る店が分からなくなったとか。

 鉄道での人身事故の現場跡は悲惨なものである。本人の姉と妹ら肉親を連れて現場に供養に行ったが、事故跡は関係者に綺麗に整理されて、新らしい砂利がまかれていた。ただ、ふと見た枕木の上に、小春日和の日差しで干からびた小指大の肉片を見つけてしまった。肉親の女性には見せられないと、とっさに足で砂利に紛れさせたのが記憶に残っている。

 義兄はクリスマスイブの夜、職人仲間との忘年会のあと、皆と分かれて一人で鉄道の線路内に入ったようであった。酒の上での事故死なのか、自殺なのかは、本人以外には伺い知りようがない。彼が亡くなってから、もうすでに30年以上が経過した。

Ⅰ【文学コラム】23.戦後ショービジネスと風俗小説 / 肉体の門

【文学コラム】23.戦後ショービジネスと風俗小説 / 肉体の門


 1947年8月 新宿・帝都座で初演された空気座による「肉体の門」の大ヒットは、その後の軽演劇に大きな影響を与えた。

 戦後のパンパン(米兵などを相手にした娼婦はこう呼ばれた)風俗を描いた田村泰次郎作の小説「肉体の門」は、大きな話題を呼び、帝都座で新宿空気座によって初演されると、やがて1000回を超えるロングランとなった。「肉体の解放こそ人間の解放である」というテーマが受け入れられたのかどうか、その後何度も映画化やドラマ化された。

 「肉体の門」 (1964年/映画/鈴木清順監督)では、野川由美子(ボルネオ・マヤ)・松尾嘉代(ジープのお美乃)・宍戸錠(伊吹新太郎)といキャスティングで、パンパンたちが盗んできた生きた牛一頭を捌くシーンなど、迫力があった。

 この当時、当方は中高生で、講談社名作全集の「田村泰次郎集」というボロボロの本を、偶然に納屋で見つけて隠れ読みした。昭和25年発行・大日本雄弁会講談社刊となっている。旧漢字旧仮名遣い、戦後すぐの粗雑な酸性紙で変色しており、すり減った活字で印刷されている。それでも頑張って読んだ(笑)

 納屋には、ほかにも江戸川乱歩の猟奇シリーズとかがいっぱいあって、宝の山だった。どうやら好事家のコレクションを、まとめてもらい受けたものと思われる。当時の我が家には、この手のものを読むインテリジェンスはいなかったはずで、どんな経緯で我が家の納屋にあったのか不明である。

Ⅰ【文学コラム】22.写真家林忠彦と無頼派作家

【文学コラム】22.写真家林忠彦と無頼派作家


 これは「紫煙と文士たち」と題した写真展の 展示作品集である。林忠彦という戦後間もない時期から活躍した写真家で、日本の風俗や文士・風景など多岐にわたる写真を撮影した。

 兵隊靴を履いた足でスツールにあぐらをかいて、めずらしく快活そうに酒を飲んで談笑する太宰治を写した有名な一枚の写真、この写真を撮った写真家として林忠彦の名前を知った。

 まだ戦後闇市が多く残る銀座にあったショットバー「ルパン」には、戦争を生き抜いた文士たちが集まった。なかでも「無頼派」と呼ばれる作家が談笑する場として有名になったのは、やはり林忠彦の作品が寄与したのであろう。

 林が「ルパン」で知り合った織田作之助のスナップを撮っていると、「俺も撮れよ」とからんできた酔っ払いが、上記の写真に納まった太宰だったという。その二年後、太宰はショッキングな心中をとげたため、一躍、写真家林忠彦を有名にした。

 紙屑に囲まれた仕事場の座卓で、下着姿のままでペンをとる坂口安吾の光景もまた、林忠彦の名を世に知らしめた一枚である。上記の織田作や太宰の姿や安吾の仕事風景は、「無頼派」とされる文士たちの文学作品を知らなくても、その作品世界を髣髴とさせる写真だった。

 最年少の織田作之助が、1947年(昭和22年)肺結核のため33歳で没。太宰治は、その翌年1948年(昭和23年)、38歳で三鷹の玉川上水に入水して没する。最も長くまで生きた坂口安吾でさえ、その剛健な身体も、戦後カストリ文化の象徴でもあるヒロポンやアドルムといった過激な覚醒剤・睡眠薬で蝕まれおり、1955年(昭和30年)脳出血で突然死、享年48。

 三者ともに、戦前戦中からすでに頭角を現わし、既成の作家として活躍したが、そのイメージは、戦後闇市・カストリ文化の中で討ち死にした文士として記憶される。「無頼派」という呼称がピッタリとくる所以である。

Ⅰ【文学コラム】21.書くこと話すこと

【文学コラム】21.書くこと話すこと


 ランダムな写真10枚ほどを見せて、「これらから一枚の写真を選び、それについて1000字(2.5枚)程度の文章を書け」とかやったら、ヘタな入社面接より有効だと思う。

 さらに詳しくその人物の思考能力を調べるなら、「ネット検索可で3時間で、4000字(10枚)程度の文章を書け」とする。これなら大卒4年間をどのように過ごしてきたか、ほぼ判断できると思う。これでチェックすれば、実際の大卒者でも8割は落第となるはずだが。

 1000字で即興なら、一通り知ってることを並べて、「それはさておき・・・」として、後は勝手な意見などを言う。これはどんなテーマでも対応でき、入社試験などで、たった一度だけなら使える手だ。

 作家なども使う手で、締め切りに迫られた雑文などで、発想が出て来ないとき、「なぜ書けないか」という理由だけで1000字程度なら書ける。ただし、この手を何度も使うと、二度と原稿依頼は来ないことになる(笑)

 4000字ともなれば、いくら資料や辞書や時間も使い放題でも、それらの資料から必要事項をセレクトし、それを自身の論旨にそって展開する能力が必要で、日ごろから訓練してないと支離滅裂になる。

 学部卒論では100枚(4万字)以上が義務だったが、日ごろから遊んでたからとても書けなかった。結局、資料やら表やら引用文やら、切り貼りしてなんとか枚数だけ帳尻を合わせた。

 そもそも日本では、ライティングとスピーチの訓練がまったくない。私の知ってる限りで、唯一作文指導は「せんせいあのね、と話しかけるように始めなさい」だった。しかしこの手は、中学生にもなれば、もう使えないだろうな(笑)

 小学低学年の時、作文がまったくの苦手だった。仕方なしに担任の女の先生に相談すると、「思っていることを素直に書きなさい」と言われた。しかし、「何も思ってない」ので、何も書けなかった。

 スピーチとなると、人前で話すのは大の苦手で、学生時代には多数を前にしてスピーチしなければならない場面は極力避けていた。会社に入ると、さすがにそうはいかなくなって、朝礼担当で朝のひと言スピーチなどが回ってくる。

 ああいうのは、気合を入れて始めると息切れして続かない。マイクをにぎって、うつ向いてぼそぼそ話し出す。それを続けていると弾みがついてきて、乗ってくるといくらでも続くようになる。そのうち、うんうんと頷いてくれるひとのよい人物が一人ぐらいは見つかるので、その人に向けて話すようにすると、いくらでも続けられる。やがて、あいつに朝礼担当させるな、と言われるまでになったのであった(笑)

 「思ったことを書きなさい」と言われたが、「何も思っていない」ので書けなかったというのは笑い話に過ぎないが、先生が言いたかったのは少し違う意味だったと思う。あれこれ頭の中でひねり出そうと考えずに、「見たり聞いたり体験したりしたことを書け」と理解すれば、納得できる。

 ファーブルの昆虫記を例に出すまでも、まずは「事実」だ、それをどう捉えてどう考えるか、それが文章というもので、頭の中だけでひねり出すものではないということだ。

 「頭の中に書きたいことがあって、それを文章に表現する」というのはとんでもない間違いだ。「書くという作業の中で、頭の中に文章が出来上がっていく」のである。

 それを事後的に振り返ると、先に頭の中にあって、それを文章化したと錯覚する。これは全くの錯視である。試しに、寝てる時に観た夢を文章にしてみよ、まったく形にならないはずだ。それは、夢には対象となる事実が無いからである。

 その後、小学生の私にも、先生の言わんとしたことが実現する機会が訪れた。あるとき、いつものように作文の時間に、困り切っていて、仕方なしに家で飼っている猫のことを書きだした。そうすると、いくらでも書き続けられる。そりゃあそうで、毎日家に帰ると、猫を相手に遊んでばかり、嫌でも猫のことを観察していたわけなのだから。

 その次の作文の時間も「猫のこと続き」とかにして、猫ばっかり書き続け、やがて、地域の作文集に掲載されるまでになったのであった(笑)

 芥川龍之介宅に、あるファンが訪れて、先生みたいに「話すように書きたい」というと、芥川は「私は、書くように話したい」と答えたとか。

 実際、「思ったことを話し、話したことを書く」というのは逆で、「書いたように話し、話したように考える」というのが正しい。話したり書いたりするのが苦手な人は、実はこの理屈が分かってないのである。

 「話すように書く」と思う人は、試しに、自分が人前で話したことを録音し、それを文字に起こしてみればよい。論理的に話したつもりでも、そのままでは読める文章には、なっていないはずである。

 同様に「思ったように話す」とする場合、思ったことを客体化できないので、代わりに夢に見たことを話してみればよい。浮かぶのはイメージだけで、他人に説明する言葉には出来ないはずである。このように、ひとは「書く、話す、思う」の先験性を逆順に認識している。

Ⅰ【文学コラム】20.平安朝女流文学

【文学コラム】20.平安朝女流文学


*1001頃/ 清少納言「枕草子」、この頃に成立か。この前年に出仕していた中宮定子が亡くなっている。
*1002頃/ 紫式部「源氏物語」の一部が成る。
*1004頃/ 「和泉式部日記」が完結する。
*1020.9.3/上総 上総介菅原孝標が任期を終え帰京の途につく。孝標の娘による「更級日記」の記述の始まりとなる。

〇清少納言「枕草子」

 「清少納言」は実際の名ではなく、父親清原元輔の一字”清”と、身近な人物の官職”少納言”を合わせたもので、女房として出仕した時の呼び名とされる。二度目の夫との間に女子をもうけた後、一条天皇の時代、正暦4(993)年冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。

 長保2(1000)年に中宮定子が出産時に亡くなり、それにともなって清少納言は宮仕えを辞した。宮中での出来事など、折に触れて書き留めたものなどをまとめて、この時期に「枕草子」が出来上がったと考えられる。

 清少納言が仕えた中宮定子は、父親の藤原道隆が急死し後見を失い、そのこころ細さなどが枕草子にも反映されている。一方で道隆の弟道長が権勢を握り、その子彰子を入内させると、彰子の女房となった紫式部が、清少納言のライバルとして語られることが多い。

 しかし実際に紫式部が彰子に仕えたのは、定子が亡くなってかなり後の事であり、両人は面識さえなかった可能性もある。遅れて出仕した紫式部は、その「紫式部日記」で清少納言を悪しざまに貶しているが、それ以前に成立したと見られる枕草子には、紫式部に直接言及した個所は見られない。
 
 「枕草子」は当時の他の女流文学と同じく、 平仮名を中心とした平易な和文で綴られ、洗練されたセンスと鋭い観察眼で、宮中の文物や出来事などを軽妙な筆致で描き出した。「源氏物語」の情的な「もののあはれ」の世界に対して、「枕草子」の方は「をかし」という理知的な感性美の情景を現前させる。

 清少納言の感性を端的に顕わしている「ものづくし」的な断章には、「虫は」「木の花は」「うつくしきもの」というような、評価の良いもののチョイスばかりでなくて、「はしたなきもの」「すさまじきもの」というように、自らの感性に合わないものを端的に切って捨てる歯切れの良さも見せる。

 日常生活や四季の自然を観察した随想風の断章でも、身近な事物を批評する鋭い視線を煌めかせる。あるいは定子亡きあとから、中宮定子周辺の宮廷社会を振り返った回想的章段では、当時の様子を懐かしみながら振り返る情の揺らめきも見せるが、「香爐峰の雪は」のように、自身の知性と手柄を自慢げに語る場面も見られる。

 「枕草子」という書名は、兄の伊周から献上された貴重な書き物用の御料紙に、中宮定子が、何を書くのがよいかと相談したときの返事として、「枕にこそは侍らめ」と応えたところから来ているという。だが、この「枕」が何を指すのかは明らかではない。

 すぐに読めるようにと「枕元に置くべき草子」という意味で「枕草子」と呼ばれたのは分かるが、それは内容を表したものではない。ちょっとした眠る前の読み物とか、備忘録として書き物だとか、あるいは「枕絵」と同様のポルノグラフィーでさえ考えられる。ここは、寝屋での軽い読み物程度に理解しておくべきか。

〇紫式部「源氏物語」

 紫式部は、下級貴族で漢詩人、歌人でもあった藤原為時の娘で、結婚して一女を儲けたが夫と死別、その後から「源氏物語」を書き始めたと思われる。寛弘3(1007)年ごろ、藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子に女房兼家庭教師役として仕え始めた。

 その当時の女房名は「藤式部」だったとされ、「式部」は父為時の官位に由来している。「紫式部」の「紫」の方は、源氏物語の「紫の上」からとられたもようで、後年になってから呼ばれだした筆者名かと想像される。

 彰子に出仕する以前に、藤原道長の正室付きの女房として仕えていたとの説もあり、道長がその才を知って彰子の指導役としてあてがったのではと考えられる。それを機に宮中に上がった紫式部は、藤原道長の支援の下で物語を書き続け、五十四帖からなる「源氏物語」を完成させることになった。

  紫式部が宮中出仕中に綴った日記や手紙は、「紫式部日記」として残されている。むしろこの日記での記述などから、源氏物語の作者が紫式部とされるようになったもので、物語への世人の評判や、同僚女房であった和泉式部・赤染衛門などへの言及もあり、彰子のサロンの盛んなさまがうかがえる。

 中宮定子に仕えていた清少納言とは出仕時期がずれており、既存の枕草子の断章などだけから、その人と為りを評価したものと考えられる。清少納言へのライバル心からか、軽薄な賢しらぶりなどと一方的に貶しており、和泉式部・赤染衛門らへのそれなりの評価とは、落差が激しい。

 京都御所の東にある天台宗廬山寺は、紫式部の出仕中ないし暇を取ってからの住まったと推定される邸宅跡とされており、そこで源氏物語の筆を執っていたものと推定される。また、紫式部が晩年に住まったとされ、のちに大徳寺別坊雲林院となる紫野の地には、小野篁の墓とともに紫式部の墓とされるものが建てられている。

 「源氏物語」は全54帖からなり、その大半は光源氏を主人公とした恋愛物語で、この時期では世界でもまれな大長編である。ただし末の10帖は、光源氏亡きあと、次世代の薫大将と匂宮という二人の貴公子を中心に、宇治を舞台にした物語で「宇治十帖」と呼ばれる。

 千年以上前に成立しtが物語を、近現代の小説・物語と同様に語るのには無理があるが、源氏物語が後世に与えた影響には多大なものがある。江戸元禄期の戯作者井原西鶴は、源氏のパロディとして「好色一代男」を書き、江戸後期には本居宣長が、「もののあはれ論」を展開する。

 近代になっても、与謝野晶子ほか多くの文学者が現代語訳を試み、谷崎潤一郎は現代語訳をするとともに、その時の経験を下敷きに、源氏の世界を現代に置きかえた「細雪」をものにしている。

 また影響ではないが、海外からはウィリアム・ジェイムズやアンリ・ベルクソンの「意識の流れ」論に沿った、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」やマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」と同様の作品と見なす考え方も現われた。

 たしかに、明示されないままにいつの間にか主語が入れ替わってゆくような、源氏物語の息の長い文章を読んでいると、一部の断章をしずかに音読してみるだけでも、夢と現実をない混ぜたような世界が顕われ、時空を超えた男女の人間模様が、重なり合って移ろっていくような想いにとらわれる。

〇和泉式部「和泉式部日記」

  あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな 和泉式部

 「和泉式部」は、越前守大江雅致の娘として生まれ、長保元(999)年頃には和泉守橘道貞の妻となり和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は、この夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との間に一女をもうけるが、まもなく破綻する。この娘が、後に母親同様に歌才を示す「小式部内侍」である。

  帰京して道貞と別居したあと、冷泉天皇の第三皇子為尊親王との関係が表沙汰になり、身分違いの恋だとして親から勘当される。為尊親王が若くして亡くなると、今度はその弟の第四皇子敦道親王(帥宮)の求愛を受け、親王の邸に入ると、正妃の方が家を出てしまう結果となった。

 敦道親王との恋の顛末は、物語風の日記「和泉式部日記」に如実に語られているが、和泉式部自身が書いたものかどうかは定かでない。その敦道親王も早世し、寛弘年間の末(1008年-1011年)ごろ、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕する。

 この時期の彰子の局は、赤染衛門・紫式部・伊勢大輔らに和泉式部も加わり、華麗な文芸サロンを形成していた。これらの女官は、藤原道長が娘 彰子を引き立てるためにスカウトしてきたものと思われる。

 和泉式部には赤裸々に恋を詠んだ歌が多く、実際に恋愛遍歴もあまた伝えられている。そのため、道長から「浮かれ女の扇」と落書きをされたという逸話があったり、また同僚女房であった紫式部からは「(和泉式部は)面白う書き交しける、されど、けしからぬ方こそあれ」などと素行のはしたなさを指摘されている。

 長和2(1013)年頃、道長の家司である藤原保昌と再婚し、その任国の丹後に下った。その後、万寿2(1025)年、娘の小式部内侍に先立たれた折には、痛切な愛傷の歌を残している。その後の晩年の動静は不明で、残した歌からは仏道への傾倒していた様子が伺われる。

  おほえ山いく野の道のとほければ まだふみもみず天の橋立 小式部内侍

〇菅原孝標女「更級日記」

 「菅原孝標女(むすめ)」は、地方貴族菅原孝標の娘というだけで、実の名は伝わっていない。父方は菅原道真の血を引き、母方の伯母には「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母、近親にも学者を輩出し、知的な環境の下で育ったと思われる。

 彼女は寛弘5(1008)年(1008年)に出生、清少納言・紫式部などより後の世代になる。寛仁4(1020)年、彼女の13歳の頃、父の上総介としての任期が終り、3ヶ月ほど掛けて京に帰国する。

 彼女は伯母から貰った源氏物語を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごすなど、多感な少女時代をおくったとみられる。この頃の家族とともに東国から帰国するあたりから、「更級日記」の記述は始められている。

 更級日記は、「日記」とはいえ現在のような形態ではなく、かなりの後になってから、過去の生涯を振り返って綴る回想記風のものである。しかも更級日記は菅原孝標女の存命中に出版されたわけではなく、かなり後に藤原定家によって発見されたものだったようである。

 更級日記では、娘時代の夢想的な世界から、その後の親王家への出仕、橘俊通との結婚、一男二女の出産、夫の単身赴任と病死、子供たちが巣立った後の孤独な境遇など、幾多の変遷を経ながら、次第に仏心が深まっていく心境変化が平明な文体で描かれている。

 書名の「更級(更科)」は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨に なにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、「古今和歌集」の一首「わが心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て(よみ人しらず)」を本歌取りしていることからと言われる。なお「更級」は信濃国( 姨捨山)の枕詞として、本歌で使われているだけである。

 作者の菅原孝標女が過ごした半生は、道長からその子頼通へと引き継がれる時代と重なり、平安朝の栄華の絶頂期から、次第に傾いてゆく時期を経験することになる。それに伴って、物語のロマンに心ひかれた少女時代から、やがて孤独な寂寥の境遇の現在へと、時代の流れと自己の境遇が重なってくる。

 若きころの夢に浮かれた浅はかさを「いとはかなく あさまし」と批評しながらも、その少女時代の感傷を懐かしみ心の支えとしている自己を見つめている。そのような状況を綴る文章は、近代日本文学の「私小説」などにも通じるものを伺わせる。

 菅原孝標女は、源氏物語の系譜をひく「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」の作者ではないかとも言われるが、まだ確証はない。また、「源氏物語」について最も早い時期から言及したものとして、貴重な史料的価値をも持っている。

(この時期の出来事)
*1001.5.9/京都 疫病を祓うため、紫野今宮社で御霊会が行われる。現在も続く「今宮祭・やすらい祭り」の初め。
*1005.9.26/ 陰陽師 安倍晴明(85)没。
*1006.7.27/京都 藤原道長が法性寺五大堂を建立する。
*1009.2.20/ 藤原伊周が、中宮彰子とその子 敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛したとして朝参を停止される。
*1011.6.13/ 一条天皇が居貞親王(三条天皇)に譲位し、敦成親王が皇太子となる。
*1012.2.14/ 中宮彰子が皇太后に、女御妍子(道長の娘)を中宮とする。
*1012.9.11/京都 僧源信が広隆寺で称名念仏を始める。
*1016.1.29/ 三条天皇が敦成親王(後一条天皇)に譲位し、道長が摂政となる。
*1017.3.16/ 藤原道長の子 頼通が摂政となる。
*1018.10.16/ 中宮妍子が皇太后に、女御威子が中宮となる。
*1018頃/ 「和漢朗詠集」成る。
*1019.3.28/対馬・壱岐 刀伊が来襲、壱岐守藤原理忠を殺害する(刀伊入寇)。刀伊は博多への上陸を目指すも、撃退される(4.9)。
*1020.2.27/京都 藤原道長が無量寿院(法成寺阿弥陀堂)を建立する。

Ⅰ【文学コラム】19.芥川龍之介の自殺と、その文学

【文学コラム】19.芥川龍之介の自殺と、その文学


◎1927(s02).7.24 作家 芥川龍之介(36)が自殺する。

 文壇の鬼才と呼ばれた芥川龍之介が、この日未明田端の自宅で、歌人で精神科医でもあった斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。一説では、青酸カリの服毒自殺だとも言われる。遺書として、妻・文に宛てた手紙、友人菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙などがある。また、死後に見つかり、久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」では、自殺に至る心理を詳述しており、中でも自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は一般に流布している。

 しかし一方で同文中で、レニエという作家の自殺者を描いた短編作品に言及し、「この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない」とも書いている。自殺者当人が、自身の自殺する理由を知っているとするのは、残された人間の思い込みに過ぎない。それは本人でも特定できるものではないし、またそういう特定の原因を明示できるものでもない。それを芥川は「ぼんやりした不安」と書いたに過ぎない。

 芥川龍之介は、幼時に生母が精神に異常をきたしたため、生母の実兄の養子とされ芥川姓となる。芥川家は江戸時代、徳川家の茶の湯を担当した家系で、家中に江戸の文人的趣味が残っていたとされる。学業優秀で、第一高等学校に入学、同期入学に久米正雄、松岡讓、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)らがいた。東京帝国大学文科に進むと、一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌『新思潮(第3次)』を刊行、さらに、第4次『新思潮』を発刊することになると、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛された。

 東京帝国大を卒業すると、海軍機関学校の英語教官となるとともに、初の短編集『羅生門』を刊行して、新進作家として華々しくデビューした。文芸活動の初期には、「羅生門」「鼻」「芋粥」など歴史物やキリシタン物など、明確なテーマとストーリー性をもつ短編作品を発表して人気を博した。

 中期になると、エゴイズムなどの人間心理をえぐった初期に対して、「地獄変」などの中編で、芸術至上主義的な傾向を示し、作品の芸術的完成を追及した。しかしやがて「安吉もの」など、身辺から素材を採った私小説風のものに転換してゆく。

 そして晩年になると、「河童」など寓意作品で人間社会を冷笑的に扱うとともに、最晩年では「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」「蜃気楼」「歯車」など、ほとんど自伝的な内面の告白となってゆく。

 この時期、長編を得意とする成熟期の谷崎潤一郎と誌上論争を展開し、「物語の面白さ」を主張する谷崎対し「話らしい話の無い」純粋な小説を称揚した。だがすでに芥川の才能は衰弱しており、論争は、円熟した谷崎の圧勝の気配を呈していた。

 はっきりしたストーリーとテーマで展開した初期の芥川であるが、本質的にはストーリー・テラーの才能はもっていなかった。明瞭な「筋をもつ小説」である初期の傑作も、そのほとんどは説話文学や中国古典などから素材を得たものであった。

 晩年に気力体力が衰えるとともに、新規素材を漁りそれから構想を立ち上げる創作力が無くなると、晩年の悲鳴に近い内面告白となっていった。芥川の自死は、このへんの創作源泉の枯渇から引き起こされたとも言える。谷崎がそのマゾ資質から堂々と展開する妄想的物語にたいして、芥川は決定的に「妄想力」に欠けていたのである。

Ⅰ【文学コラム】18.秋刀魚の歌 佐藤春夫

【文学コラム】18.秋刀魚の歌 佐藤春夫


 久々に秋刀魚が豊漁だというニュースが入ってきた。そこで思い起こす詩といへば・・・

あはれ
秋風よ
情あらば傳へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
 
あはれ、人に捨てたられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の兒は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。


 佐藤春夫の有名な「秋刀魚の歌」の一節だが、これには谷崎潤一郎とその最初の妻千代と、そして谷崎を文学の先輩としてしたう佐藤の、厄介な三角関係が背景にあった。

 谷崎潤一郎は既に新進作家としてスタートしていた29歳の時、芸者だった石川千代(19歳)と結婚式する。「悪魔主義」などという大仰な形容をされた新進作家谷崎にとって、妻としては申し分なくても、女としては平凡な娘であった千代はもの足りなかったようで、娘鮎子をもうけるも、夫婦愛をはぐくむことがなかった。

 15歳になる千代の末妹「せい」は、千代と正反対の奔放な娘であって、これを気に入った谷崎は、千代母子を実家に預けてせいと同棲、せいを思い通りの娘に育てようと、葉山三千子として女優デビューさせたりした。谷崎中期の問題作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミは、このせいをモデルにしたものとされる。

 一方、佐藤春夫は谷崎より六歳年少で、文壇デビューを支援してくれた先輩として、小田原に住む谷崎のもとに足しげく通う間柄であった。そんな中で、谷崎の不当な扱いに悩む千代の相談に乗ったりしているうちに、佐藤の千代への同情が愛に変わっていったとされる。一方で谷崎の方では、せいとの結婚を考えて、それを意図的に仕組んでいたふしもある。

 谷崎は千代と鮎子の面倒を佐藤に押し付け、自身はせいに求婚するも「いやぁよ」の一言で拒絶されると、千代との生活によりを戻すことを選ぶ。裏切られ怒り心頭に達した佐藤は、谷崎に絶交宣言をする(小田原事件)。

 その時期の恋情を、佐藤春夫はいささかセンチメンタルに絶唱する、「さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか・・・」

 大正12年関東大震災が起きると、谷崎は京都・神戸といった関西に拠点を移す。やがて、書生として谷崎家に居候していた和田という男と、千代夫人の関係が出来ると、谷崎は千代夫人と和田を一緒にさせようとも考えたが、すでに和解していた佐藤春夫は、若い和田との将来に懸念を抱き、結局和田は立ち去った。この間の経緯は『蓼食ふ蟲』として作品化された。

 そしてやがて世間を驚かせた「細君譲渡事件」が起こる。昭和5年8月、「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、 ・・・」

 このような声明文が、谷崎潤一郎、妻千代、佐藤春夫の三者連名で関係者に送付された。谷崎45歳、佐藤38歳という成熟期の著名文士間での「細君譲渡事件」として、当時の世間をにぎわせた。谷崎はすぐに、婦人記者だった古川丁未子と再婚するが、これもすぐに分かれる。この時すでに、終生の伴侶となる人妻森田松子と出会っていたという。

 細君譲渡事件は、三者満足の結果で他人がとやかく言うことでもないが、事情を知らない世間一般にはとんでもない事だと映ったに違いない。最初の試みから15年、円満離婚に至るまでの谷崎は、対外的には「夫としての立場」を保ち続けたという。

Ⅰ【文学コラム】17.坂口安吾の断章から

【文学コラム】17.坂口安吾の断章から


*坂口安吾botより
 「老人というものは、口を開けば、昔はよかった、昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られないと言う。何千年前から、老人は常にそう言うキマリのものなのだ。それは彼らが時代というものに取り残されているからで、彼らの生活が、すでに終っているからだ。」

*坂口安吾botより
 「太宰が死にましたね。死んだから、葬式に行かなかった」

 安吾は、戦争ですべてが灰燼に帰するのを見つめながら《生きよ、墜ちよ》と述べ、《正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ》と言い切っている(堕落論)。

 また、《終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生む》とし、《法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ》と断言する(日本文化私観)。

 「伝統の継承」などには微塵もこだわらない。焼けるものは焼ければよい、消えるものは消えればよい、その焼け跡から、新らしいものが生れて来るのだと主張する。伝統の「断絶」など、大いに結構だというスタンスであった。

 「芸」などというものは、自らその場を見つけるべきもので、その場を失ったものは消えゆく運命にある。大道芸、座敷芸、幇間芸、宴会芸などなど、必要なくなれば消え去ればよい。「伝統芸」だけが国費で保存されるというような謂れなどもない。所詮、テレビなんぞには、芸がその場を見つけ出す余地がないだけのことだ。

 安吾の「堕ちよ、生きよ」という言葉は、「ニヒリズムを、生き抜くことで超克せよ」という意味でもある。これは、ニーチェの「超人」とも重なる。

 同じく「無頼派」と呼ばれた仲間の太宰治は、すぐれた現実認識を示しながらも、その前で立止ってデカダンスに陥り、酒、女、薬、病気にはまり込んだ。「太宰が死んだ、だが葬儀には行かない」という安吾の言葉は、そのような太宰への、愛憎を込めた追悼の辞でもあったのであろう。

(追補)2020.07.22

(実存のアポリアとしての安吾)

 まず中世では「実存(現実存在)=エクシステンティア 」は「本質=エセンシア」の対概念とされてきた。

 これは古代ギリシャ哲学の「質量=マテリア」と「形相=フォルム」の対立を継承している。そして、プラトンのイデア論以降、「形相/本質」が真実在として優位に扱われてきた。

 これは大雑把に言えば、神によって意味(言葉=ロゴス)を与えられたものという性格を持っており、その「形相/本質」の哲学は、近代において「観念論」として行詰ってしまう。

 そこで「質量=実存(現実存在)」を真実在として取り上げようという哲学が起こって来て、ひとつは「唯物論=マテリアリズム」として展開された。これはマルクスらによってさらに展開された。

 そしてもう一方では、「実存主義=イグジステンタリズム」として勃興してきた。これはサルトルなどによって「実存(現実存在)は本質に先立つ」として規定された。

 問題は、実存に至る経路・論理的枠組みが規定されていないため、なんとなく気分的なものとされざるを得ない。これが「実存のアポリア」だ。

 サルトルが「嘔吐」など実存的小説を書き、カミュの「異邦人」など、もっぱら文学的なムードの中で実存主義はブームとなった。

 サルトルもハイデッガーもフッサールの弟子として出発しており、現象学に実存主義が混交されていった結果、現在の哲学的思想的には実存主義は現象学によって継承されていると思われる。(もっともフッサールの意図を継承しているのはメルロー=ポンティだろうが、道半ばに死去)

 さて、坂口安吾がどれだけ実存主義や現象学を理解していたかは知らないが、彼は文学者として、生き方そのものとして実存と取り組んだとは考えることができるのではないか。「生きよ、墜ちよ」とは、あるがままに戻れという、安吾自身が希求したものでもあるだろう。