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Ⅰ【文学コラム】07.吉行淳之介から 警句的抜粋

【文学コラム】07.吉行淳之介的世界


〇吉行文学と赤線地帯

 永井荷風の『墨東綺譚』で有名な玉の井は、東京大空襲で街のほとんどが焼失した。終戦後は、焼け残った「玉の井」の一部地域と、1キロほど離れた「鳩の街」とに移転して、赤線指定地域として営業を続けた。『寺島町奇譚』の滝田ゆうは玉の井で生まれ育ったため、旧玉の井の記憶をベースに描かれている。

 吉行淳之介は、事実上のデビュー作『原色の街』で鳩の街を舞台にしたが、この時点で遊郭や赤線などの登楼経験はまったくなかったという。その後、新玉の井や新宿二丁目などを徘徊し、戦後の赤線地域を主な舞台とした作品を多く書くようになる。

 吉行淳之介は、永井荷風や滝田ゆうのように「街の情緒」を描き出さない。ひたすら、男女の微妙な心の位相関係を描こうとする。そのせいか、戦前の情緒あふれる遊郭よりも、戦後のガサツな赤線地域が気に入っていた模様である。

 その赤線も、昭和33年4月1日に売春防止法が完全施行され、営業最終日の3月31日夜には「蛍の光」が流され、娼婦と登楼客の大合唱が夜空に響いた、などという出来すぎた話も伝えられた。

 「線後(赤線廃止後)」になると、吉行は銀座クラブなどの酒場にベースを移した。描く対象も、そのような酒場の女性が多くなったが、基本的に玄人女性を相手にするという点では変化はなかった。

 若くして入籍した女性との経緯などから、吉行には素人女性との恋愛を避けたいという傾向が強く刻印された。プロを相手にすることで、「恋愛・結婚」などという厄介な関係を避けようとしたわけである。

 にもかかわらず、吉行の作品には、そのような女性と恋愛関係に陥ってしまうというプロットが多く登場する。結婚だの家庭だのといった、いわば「ノイズ」を取り除いたところに、「恋愛の構造」というものが浮き上がってくるのではないか、そのような視点が吉行にはある。

 もちろん、「純愛」だの「無私の愛」などというものを認めるわけもなく、「恋愛」の背後には必ずエゴイズムが絡んでいるのを吉行淳之介は凝視し続ける。にもかかわらず、そのようなエゴの絡み合いが、当事者には見えなくなる瞬間がある、それを「恋愛」と呼ぶのではないか。それが「恋は盲目」ということの意味である。

〇宮城まり子の訃報と吉行淳之介の記憶

 宮城まり子の訃報で、久しぶりに吉行淳之介の名を見ることになった。私が文学にはまり出した20歳前後の時、吉行は40代前半で、作家としてもっとも脂の乗り切った時期で、同年代だが中だるみ気味の三島由紀夫よりも、文学世界では人気があった。

 昭和元年前後に生まれた世代は、文学界では「戦中派」と呼ばれる。戦時中に生まれたという意味ではなく、最も多感な「思春期を戦争中に過ごした世代」という意味だ。自己を確立する最も重要な時期、まわりは軍国主義一色だったが、それが戦争が終わったとたんに民主主義と、価値が180度逆転してしまったわけで、既存の価値観を一切信じられなくなる。そして彼らは、自分の皮膚感覚のみを頼りに文学を始め、自己を確立しようとする。

 彼らが売れない文学青年から、文学オジさんに差し掛かろうという昭和30年前後に、当時は地味だった芥川賞候補になるなどして、なんとなく一つの文学グループを形成しつつあった。それが揶揄的な意味で「第三の新人」と名付けられた。第一次・第二次戦後派と呼ばれた本格的な文学世代の、あとにやってきた小粒な三番手、といったニュアンスだ。

 平凡で自堕落な日常を送りながら、心の隅にニヒリズムを潜ませている。そして日常の裂け目から、かすかな実存世界を見定めようとする彼らの作品群が、私自身の心性にぴったりはまって読みふけった。

 近藤啓太郎・安岡章太郎・阿川弘之・遠藤周作・吉行淳之介等々、今となっては懐かしい名前ばかりだ。その当時、吉行の短編のなかにM・Mとして登場する女性のモデルが、宮城まり子だとういうことは、のちに作家自身が作中で明示することで知った。

〇吉行淳之介から 警句的抜粋

 ともかく、欲求不満はしばしば狂熱的行動を誘い出す。そして、恋愛と言うかたちの根本には、エゴイズムが絡んでいるというのが私の考えだ・・・(「狂熱的な恋」吉行淳之介)

 (オスカー・ワイルド「サロメ」に関して)たしかにサロメの行為は、変態的な現われ方をしているが、その内側に在るものはハイ・ミスの欲求不満という正常な形のものであることを、私はこの項で述べたいとおもったわけである。(「狂熱的な恋」吉行淳之介)

 そうである以上、恋愛にかならず別離というものが伴ってくる。たとえその恋人同士が結婚生活に入って、いつでも二人一しょに暮らすような形になったとしても、やはりどこかでその恋愛が終わりになった地点がある筈だ。(「別離」吉行淳之介)

 「女にモテル男には、必ず一つの共通点がある。それは、自分を女のレベルまで下げられる、という一点である。私は自分のレベルを下げてまで女にモテようとする種類の人間は、男としてダメだと思う。」(山口瞳より)

 山口の意見はまったくそのとおりである。・・・それで引っかかってくる女は上等といえないのはもちろんだが、フシギなことに容貌まで上等ではないようだ。(「やさしさ」吉行淳之介)


 男が相手を人間として尊重し、本気で関わりあっていくとき、男の優しさは途端に観念的な形で表れてくる。思いやりをうちに収めて密かに配慮して行動する。ところが、この男のやさしさは、女にはほとんど分かってもらえないし、逆に怒られたりさえする。・・・(「やさしさ」吉行淳之介)

 流行語を使うコツは、ネクタイに似ている。無意識に使えばエラい目に合うし、濫用すればバカに見える。気のきいたときに、気のきいた使い方を一度だけするのが秘訣である。(「ことばの感覚」吉行淳之介)

 『モモ膝三年尻八年』--(オリジナルは「背中三年尻八年」)『猥談は音楽に似ている』『外国では性交はできても情交はできない』(吉行淳之介)

 『猫と女はいじらねば肥る(山口瞳)』『猫と女は呼ばないときにやってくる(ボードレール)』・・・女は、長い間ほうっておくとたしかにへんに肥ってくる。

 ・・・だから、別の言い方をすれば、初恋というものは特定の相手に恋している、というよりも「恋」というものにアコガレて、自分で描き出した恋の幻影に恋している状態とも言える。(「初恋」吉行淳之介)

 (F・サガンの小説にからめて)その女子学生は、中年の男性と一つの申し合わせをします。「明日のない感傷のない浮気をしよう」と。つまり、一つの情事の共犯者として、限られた期間の共同生活を申し出るわけだ。

 スタートは、大そう勇ましいのだが、しかし結果は女性の側にとって香ばしくないことになることが多いようである。何故なら、男性にとっては肉体関係は恋の終点を意味しているが、女性にとってはそれが恋のはじまりとなることが多いからである。

 この相違は、男女の生理の相違に原因している点が多いようで、それだけ宿命的なものといえよう。肉体で割切ったあとくされのない情事というものは、女性が申し出た場合にも結局その女性を哀しみのうちに取り残して終わりになりがちである。(「移り気な恋」吉行淳之介)-筆者コメント/サルトルとボーボワールの関係など

 「恋愛は、快楽のための口実にすぎない」というその意見は、今から二百三十年ほど以前にフランスで出版された『危険な関係』という小説の中に出てくる言葉である。この秀れた作品は、その言葉の証明として書かれている観さえある。(「遊戯的恋愛」吉行淳之介)

 誘惑者というものは、相手を手に入れること自体よりも、手に入れるまでのプロセスを愉しむものである。従って、その過程が複雑になればなるほど、その愉しみも大きくなる。場合によっては、わざとそのプロセスを複雑にすることさえある。ヴァルモンもその例外ではない。(「遊戯的恋愛」吉行淳之介)

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