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Ⅰ【文学コラム】17.坂口安吾の断章から

【文学コラム】17.坂口安吾の断章から


*坂口安吾botより
 「老人というものは、口を開けば、昔はよかった、昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られないと言う。何千年前から、老人は常にそう言うキマリのものなのだ。それは彼らが時代というものに取り残されているからで、彼らの生活が、すでに終っているからだ。」

*坂口安吾botより
 「太宰が死にましたね。死んだから、葬式に行かなかった」

 安吾は、戦争ですべてが灰燼に帰するのを見つめながら《生きよ、墜ちよ》と述べ、《正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ》と言い切っている(堕落論)。

 また、《終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生む》とし、《法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ》と断言する(日本文化私観)。

 「伝統の継承」などには微塵もこだわらない。焼けるものは焼ければよい、消えるものは消えればよい、その焼け跡から、新らしいものが生れて来るのだと主張する。伝統の「断絶」など、大いに結構だというスタンスであった。

 「芸」などというものは、自らその場を見つけるべきもので、その場を失ったものは消えゆく運命にある。大道芸、座敷芸、幇間芸、宴会芸などなど、必要なくなれば消え去ればよい。「伝統芸」だけが国費で保存されるというような謂れなどもない。所詮、テレビなんぞには、芸がその場を見つけ出す余地がないだけのことだ。

 安吾の「堕ちよ、生きよ」という言葉は、「ニヒリズムを、生き抜くことで超克せよ」という意味でもある。これは、ニーチェの「超人」とも重なる。

 同じく「無頼派」と呼ばれた仲間の太宰治は、すぐれた現実認識を示しながらも、その前で立止ってデカダンスに陥り、酒、女、薬、病気にはまり込んだ。「太宰が死んだ、だが葬儀には行かない」という安吾の言葉は、そのような太宰への、愛憎を込めた追悼の辞でもあったのであろう。

(追補)2020.07.22

(実存のアポリアとしての安吾)

 まず中世では「実存(現実存在)=エクシステンティア 」は「本質=エセンシア」の対概念とされてきた。

 これは古代ギリシャ哲学の「質量=マテリア」と「形相=フォルム」の対立を継承している。そして、プラトンのイデア論以降、「形相/本質」が真実在として優位に扱われてきた。

 これは大雑把に言えば、神によって意味(言葉=ロゴス)を与えられたものという性格を持っており、その「形相/本質」の哲学は、近代において「観念論」として行詰ってしまう。

 そこで「質量=実存(現実存在)」を真実在として取り上げようという哲学が起こって来て、ひとつは「唯物論=マテリアリズム」として展開された。これはマルクスらによってさらに展開された。

 そしてもう一方では、「実存主義=イグジステンタリズム」として勃興してきた。これはサルトルなどによって「実存(現実存在)は本質に先立つ」として規定された。

 問題は、実存に至る経路・論理的枠組みが規定されていないため、なんとなく気分的なものとされざるを得ない。これが「実存のアポリア」だ。

 サルトルが「嘔吐」など実存的小説を書き、カミュの「異邦人」など、もっぱら文学的なムードの中で実存主義はブームとなった。

 サルトルもハイデッガーもフッサールの弟子として出発しており、現象学に実存主義が混交されていった結果、現在の哲学的思想的には実存主義は現象学によって継承されていると思われる。(もっともフッサールの意図を継承しているのはメルロー=ポンティだろうが、道半ばに死去)

 さて、坂口安吾がどれだけ実存主義や現象学を理解していたかは知らないが、彼は文学者として、生き方そのものとして実存と取り組んだとは考えることができるのではないか。「生きよ、墜ちよ」とは、あるがままに戻れという、安吾自身が希求したものでもあるだろう。

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