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XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍とパンパン

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】02.進駐軍とパンパン風俗


 敗戦後、連合国軍によるGHQの創設とともに、進駐軍として米兵を主とする多くの連合国兵が日本各地に駐留するようになった。そして進駐軍の駐留基地を中心として、多くの米国文化が日本にも普及しだした。

 ジャズをはじめとした米音楽やダンスが広まり、東京・大阪などの大都市に「米兵向けダンスホール」が急増(1946年頃には東京だけで200軒以上)。ここではルンバ、タンゴ、フォックストロット、ジルバ(ジルバ=ジャイブの日本風呼称)が盛んに踊られました。
日本人ダンサー・バンドマンが米兵相手に演奏・ダンス指導を行い、生計を立てるようになりました。有名な例では、後の大物ミュージシャン(服部良一、淡谷のり子、笠置シヅ子など)がこの時期にジャズやブギウギに深く関わっています。


戦後の混乱期(1945年~1950年ごろ)
昭和戦後の風俗文化は、敗戦直後の混乱期に**「パンパン」**と呼ばれる売春婦が街頭に立ち、赤線・青線地帯が形成され、**特殊飲食店(カフェー)が乱立したのが特徴で、これらが後の日本の風俗産業の土台となり、戦後復興と共に変化しながらも、「マントル嬢」「ソープ」「ファッションヘルス」**といった多様な形態へと変遷していきました。 
戦後の混乱期(1945年~1950年代初頭)

「パンパン」の出現: 2特殊慰安施設協会(RAA)廃止後、職を失った女性たちが街頭で客を引くようになり、「パンパン」と呼ばれました。新宿、有楽町、上野などが活動の拠点となり、北海道千歳市にも多く流入しました。

赤線・青線の形成: 1かつての遊廓や新規参入者が「カフェー」と称して営業し、赤線(純娼地域)や青線(混交地域)が形成されました。
特殊飲食店(カフェー): 1「パンパン」や「赤線」と並行して、カフェー(特殊飲食店)が多数営業し、後のバーやクラブの原型にもなりました。 


高度経済成長期以降(1950年代後半~1970年代)
制度の変化と業態の多様化: 3売春防止法の施行(1956年)により公娼制度は廃止されますが、裏社会や隠語の中で業態は多様化。
「マントル嬢」の登場: 3賃貸マンションの一室を仕切って売春を行う「マントル嬢」という形態が登場し、密室化が進みました。 
現代への繋がり
これらの戦後から続く風俗文化は、「ファッションヘルス(ヘルス)」やソープランドなど、より専門化・多様化した現代の風俗産業へと繋がっていきます。 
まとめ
昭和戦後の風俗文化は、戦争の爪痕と社会の混乱の中で発生し、一時的な現象に留まらず、日本の風俗産業のルーツを形成しました。それは、女性たちの生活の場でもあり、男性の娯楽の場でもあり、時代と共にその姿を変えながら、現代まで続いてきた社会の一側面と言えます。


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化

 【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】01.戦後闇市とカストリ文化


 「カストリ復刻版(s50年刊)」という雑誌が手元にあった。「カストリ雑誌」とは、戦後焼跡闇市の時期、雨後の筍のように発刊された粗悪な作りの雑誌の総称である。戦後の食糧不足時代、駅裏などの闇市で売られた粗悪な焼酎や怪しげな密造酒などを「カストリ酒」と呼び、同様に粗悪乱造され、エロ・グロ・ナンセンスを売りにした雑誌を「カストリ雑誌」と呼んだ。

 「三合も飲めば潰れる」と言われたカストリ酒にかけて、カストリ雑誌も「三号」も続けば良いというダジャレからそう呼ばれた。カストリ雑誌によく登場する当時の流行語らしきものを、ランダムに挙げてみると当時の世相がイメージされてくる。「カストリゲンチャー」「リンタク」「デンスケ」「裏口営業」「エロショウ」「モク拾い」「ピロポン」「パンスケ」e.t.c

 これらの文物が世間に見られた時代の大衆文化は、「カストリ文化」とも呼ばれ、それは「戦後闇市文化」でもあった。カストリ雑誌のブームは1946(昭和21)~ 1949年(昭和24年)頃と言われ、意外に短く終焉して行った。それは朝鮮特需が始まり、やっと物も行きわたり出し、敗戦のどん底から復興の兆しが見えてきたことと並行していた。

 この時期に活躍した写真家 林忠彦著「カストリ時代/レンズが見た昭和20年代」では、まさしく時代の空気を映し出した写真が多く見られる。林は当時の文士を切り取った写真でも有名である。

 太宰治、坂口安吾、織田作之助など「無頼派」とも呼ばれた彼らは、まさしく、この時代と格闘し討ち死にしたような作家生涯を送った文士である。当方は生まれて間もない時期だったので、当時の状況を知る由もないが、何故か彼らの生きた時代が懐かしく思える。

 当時の闇市で怪しげなカストリ酒を飲んで頓死したひとりの文学青年を悼んで、友人の若き詩人が記した一片の詩がある。

 「死にたい奴は死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」
ひたすら生きることへの切迫感のただ中だからこその、無二の親友への追悼詩である。

Ⅷ【生活文化コラム】14.【資生堂男性化粧品 MGギャラック】

【生活文化コラム】14.【資生堂男性化粧品 MGギャラック】


 めずらしい「MGギャラック」のポスター。資生堂男性化粧品で一世を風靡した「MG5」と「ブラバス」だが、その間に挟まれて短命で終わったのがMGギャラック。MG5の団次郎、ブラバスの草刈正雄はイメージが定着しているが、それらに比べるとMGギャラックの二瓶正也は影が薄い。
 わたしは昭和43(1973)年に資生堂に入社して、京都(販売)支社に配属された。MG5でばっちり整髪して支社での入社式にのぞんだのだが、階段でベテラン美容部員の集団とすれ違うとき、クッサ~という声が聞こえた。

 資生堂男性整髪料と言えばMG5としか知らなかったが、その時にはすでにブラバスなどが発売されていて、MG5は安物のランクに入っていたようだ。入社早々、いきなり美容部員集団の洗礼を受けた図であったのだ。

 入社式の帰り道、さっそく資生堂化粧品店に飛び込んで、ワンランク上のMGギャラックを買った。すでにブラバスも発売されていたが、MG5との価格差が大きく、その中間の価格帯にカネボウのエロイカやマンダムなどが発売されて、隙間を侵食されつつあった。そこで、その価格帯でMGギャラックを発売したのだった。

 しかし草刈正雄を起用して本格的にブラバスのCMが展開されると、ブラバスへの移行が進み、MGギャラックの使命は終わって杯盤となった。よって、MGギャラックを使った世代は極めて少ないと思われる。ギャラックを使った人がいたら手を挙げてくれ、アッピールするチャンスは二度とこないぞ(笑)

Ⅶ【サブカル関連コラム】15.【大衆芸能と伝統芸術】

 【サブカル関連コラム】15.【大衆芸能と伝統芸術】


 戦前昭和の芸能界の出来事を書いてたら、コメント欄で以外に面白い展開になった。ある種の「大衆芸能論」としても読めるので、収録しておく。

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『Get Back! 30's / 1937年(s12)-2』
○7.3 [東京] 浅草に国際劇場が開場。松竹少女歌劇団が国際東京踊りを上演する。
○9.- [東京] 益田喜頓・川田晴久・坊屋三郎・芝利英が「あきれたぼういず」を結成する。
○11.12 [京都] 松竹から東宝に移籍した俳優林長二郎(長谷川一夫)が、暴徒に切りつけられ、左顔面に重傷を負う。
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Satomi Koike 浅草と言えば...「伝助劇場」

佐々木 信雄 晩年にはTVに出てたから知っている。子供心に、どう見てもテレビ向きの芸ではないと思えた。すでにクレージーキャッツのコントなどに馴染んでいたので、デンスケは古い芸に思えた。やはり芝居小屋でやってなんぼの芸なんだな。これはエノケンなどにも言える。

ロス 恭子 いや、それは当時の佐々木さんが若かったからだと思う。伝助を舞台で知ってた人達はTVでも充分に楽しんでたと思う。伝助劇場の時は知らない人が何人も見に来てたもの。

佐々木 信雄 だから、舞台あっての芸、ということ。

ロス 恭子 漫才だってそうじゃないの??

ロス 恭子 ドリフの芸も舞台をそのままTVにしてたじゃん。8時だよ全員集合!なんて、ゴールデンタイムよ。

佐々木 信雄 漫才はエンタツアチャコの時代で、ラジオ放送でも聞かれるようになった。その後も、どんどんテレビ用に進化していった。

佐々木 信雄 ドリフなど、完全にテレビ用の大道具仕掛けで成り立っていた。あれは、観客が居なくてもなりたつコント仕立てだ。

ロス 恭子 伝助もそうだったよ! 強いて言えば、年末よく見る宝塚なんかと同じ。宝塚ほどつまらない芸はないと思っちゃうけど。。。


佐々木 信雄 宝塚も、入れ込んだファンの熱気があって成り立つ舞台、テレビで放映されても白けるわ(笑)

ロス 恭子 それはもの凄く言える!! あんなのにTV電波使うのはもったいない。

佐々木 信雄 元来、歌舞伎もそうだが、フリークなファンが醸し出す熱気の元で成り立つわけで、NHKがTV中継するのは「伝統芸」としてだけ(笑)

ロス 恭子 歌舞伎ねぇ。。。あれこそTVじゃダメよね。


でも、アップも撮れるから良いのかもしれないけどね。。。

佐々木 信雄 ほかの事しながら何となくTVをつけてる一般家庭では、歌舞伎も宝塚も、ほぼ関心ないのだなw

ロス 恭子 私は初めてベルばらをTVでやるからと、どんなものか観てみたのよ。観てるうちに腹が立ってしまった。だからなんとなくじゃない。で、もう二度と見ないな。

佐々木 信雄 テレビで観る価値があるのは、能の舞台の放映ぐらいかな。あれは一種の仮面劇で、舞台が「絵」として成り立つようになっている。舞台だけでは、微妙な仕草や能面の「表情」など、見えないないものが、テレビではアップで映し出される。



ロス 恭子 あ!それは同感したい!でもね、やっぱり能はあの踏み込んだときの反響音がないとダメよ。できれば野外がいい。
 渋谷にある能楽堂には、仕事で(舞台の中の修復作業ね)何度か行ったことがあるけど、素晴らしかった。野外ならもっと良かろうにと思ったものだわ。観世能楽堂のこと、今は引っ越してしまったけど、松濤という高級住宅街の真ん中にあった。

佐々木 信雄 能の舞台は、中学校の卒業研修とかで、京都岡崎の能楽堂でサワリだけ見学した。60年近く前だから、何一つ憶えておらん(笑)

ロス 恭子 今こそお金払ってでも観るべきよ!

佐々木 信雄 ニキビづらの中学生に見せても、馬に見学させるようなもんだw

ロス 恭子 ねぇ、京都にいるんだから、文楽観てきたら?あれもただの人形劇じゃないよ!いいんだわ、すごく。。。

佐々木 信雄 それが判るようになるには、30回ぐらいは足を運ばなくてはならん、めんどいわw

ロス 恭子 能が好きかも知れないと思うなら、きっとのめり込めるから、すんなり分かると思う。。。3回だな。

佐々木 信雄 歌舞伎も、学生のころ南座のマネキを観ただけ。それも3階最奥のチープ席、フランス革命のジャコバン党員になった気分だったわw

ロス 恭子 私もこっちでオペラをそういう席で観た!なんか、右手の拳を上げたくなる座席よね。。。

佐々木 信雄 崖の上から覗き込む感じだなw

ロス 恭子 それ!! でもね、パリのオペラ座では、オペラよりもシャガールが観たかったから得得した気分だった。

佐々木 信雄 エノケンもそうだが、舞台と観客との応答があって成り立つ芸。

佐々木 信雄 モーパッサンがフローベルに師事した時の話。

 丘の上にあるフローベルのアトリエに、毎日、同じ石畳の道をテクテクと通う。で、お茶飲み話し程度の雑談をして帰るのが日課だった。

 唯一フローベルが指示したことは、毎日通って来る石畳の道のことを、毎日書け!
 毎日同じ石畳だが、いざその様子を書くとなると、その日ごとに光線の具合とか、微妙に違っているのに気付く。

 能や文楽など、既に伝統芸能とされているものは、それぐらいに入り込まないと、さっぱり分らないと思う。今んとこ、分かるためのモチベーションがないから、テレビでたまに眺めるだけだな(笑)

佐々木 信雄 わりとまともな芸論とゲイ論の展開だ(笑)

Satomi Koike 江戸時代は役者は舞台がはねると売春しとったな、歳若い男なんぞは坊主に買われたり、金持ちの年増女に買われたり

佐々木 信雄 ホスト養成所みたいなもんやw

Satomi Koike 今の芸能界も売れるまでは枕営業は公然の秘密だし

佐々木 信雄 TVは商品展示のギャラリーみたいのもんだなw




Satomi Koike
 最近はネットアイドルとか地下アイドルとかご当地アイドルなんて言うのもいるしね


Ⅶ【サブカル関連コラム】14.【わらべうた】

【サブカル関連コラム】14.【わらべうた】


 わらべ歌に興味をもって調べたことがある。これらには歴史的背景が沈潜していて、怖い歌が多い。

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「とおりゃんせ」

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して くだしゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
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 なぜ「行きはよいよい 帰りはこわい」のか、歌って遊びながらも、子供ごころに意味はまったく分からなかった。調べると、このわらべ歌は江戸時代から歌い継がれていて、「関所」を通り抜ける過去の記憶が沈潜しているという。つまり「とおりゃんせ」は関所抜けの話で、二度と故郷に帰れないといった恐怖が込められているという解釈がある。

 遊び方は、二人の子供が向かい合って立ち、両手をつないで上にあげ関所をつくり、他の子供たちが歌に合わせて手の下をくぐっていく。歌の終わりで関所役の子供らがさっと手を下ろし、そこで捕まった子が今度は関所役と交代する。

 イギリスにも「ロンドン橋落ちた」という童謡があり、同じような遊び方をする。この童謡は「マザーグース」にも収録されていて、ロンドン橋が何度も落下して何百人もが死んだという、実際の恐ろしい出来事が背景にある。
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「はないちもんめ」


かってうれしい花いちもんめ
まけてくやしい花いちもんめ
たんす長持ちどの子が欲しい

あの子が欲しい
あの子じゃわからん
〇〇ちゃんがほしい
〇〇ちゃんがほしい

相談しよう そうしよう
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 「花いちもんめ」は日本の古い童謡・わらべ歌で、こども遊びで歌われる。

 2組に分かれて向かい合い手をつなぐ。交互に前後に行き来し、前に進んだ側が「〇〇ちゃんがほしい」と、相手側から引き抜きたい子を告げる。歌の区切りでじゃんけんして、勝ったチームが相手チームからひとり引き抜くという遊び。

 「花いちもんめ」とは、花売りが花を一匁(当時の銀の重さ)で売り買いする話とされているが、一方で、「花」は若い女性を指し、女の子が「人買い」に買われていくという哀しい風習を表しているという解釈もある。
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「かごめかごめ」


かごめかごめ
かごの中の鳥は
いついつ出やる

夜明けのばんに
つるとかめが滑った
うしろの正面だ~れ
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 鬼役の子が目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に、鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。

 「かごめかごめ」は、暗がりで繰り広げられる不思議な儀式と、「夜明けのばんにつるとかめが滑った」という意味不明な不気味な歌詞によって、さまざまな解釈がある。挙げだしたら切りがないが、その不気味さを暗示するような話を取り上げてみる。

 「籠目」とは竹で編まれた籠の編み目であり、籠目の形は「六芒星」という三角形を上下に絡み合わせた文様で、西洋では「ダビデの星」として有名。さらに角の一つ少ない「五芒星」は、陰陽師 安倍晴明が用いて、陰陽五行説に基づくともいわれる。

 そして、「かごめかごめ」は罪人が運ばれる「唐丸篭」の「籠目」であり、刑場へ運ばれて行く様子を歌ったとされる。「つるとかめが滑った」は、まったく別次元の意味不明な言葉で、罪人の首が切り落される瞬間を象徴したのかもしれない。で、「うしろの正面だぁれ?」となると、そこには首切り役人が刀を振り上げてるわけだ(笑)
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 これらのわらべ歌は、それに連動する子供遊びとともに歌われる。子供たちは、このような歴史的背景などまったく知らず、無邪気に楽しげに歌い遊ぶ。しかしその背景にある暗い歴史は、なんとなく感じ取っているのかもしれない。

Ⅰ【文学コラム】36.風に吹かれて(自動生成おちゃらけ文)

【文学コラム】36.風に吹かれて(自動生成おちゃらけ文)


#この文章は下記のサイトを利用して、スクリプトによって自動生成されたものです。
http://www.pandora.nu/pha/tools/spam/harukin.php (消失している)

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『村上春樹風にノーベル文学賞について語る』(おちゃらけ擬文)

 完璧なノーベル文学賞などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
 六月にデートした女の子とはまるで話があわなかった。
 僕が南極について話している時、彼女はノーベル文学賞のことを考えていた。
 ノーベル文学賞の目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。
エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。

 「ね、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしているわけ? シコシコッって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。
 「たぶんね」
 「男の人ってノーベル文学賞のこと考えながらあれやるわけ?」
 「まあそうだろうね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいはノーベル文学賞のことを考えながらやっているんじゃないかな」
 「スエズ運河?」
 「たとえば、だよ」
 「ノーベル文学賞?」と僕は聞いた。
 「知らなかったの?」
 「いや、知らなかった」
 「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。
 「彼にその趣味があるかは知らないけど、あれはとにかくノーベル文学賞よ。完璧に。二〇〇パーセント」


 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのノーベル文学賞」と呼んだ。
 そして今日でもなお、日本人のノーベル文学賞に対する意識はおそろしく低い。
 要するに、歴史的に見てノーベル文学賞が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。
 ノーベル文学賞は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それがノーベル文学賞だ。
 ノーベル文学賞は盲のいるかみたいにそっとやってきた。
 「それはそれ、これはこれ」である。
 冷たいようだけど、地震は地震、野球は野球である。
ボートはボート、ファックはファック、ノーベル文学賞はノーベル文学賞である。
 「どうせノーベル文学賞の話だろう」とためしに僕は言ってみた。
言うべきではなかったのだ。受話器が氷河のように冷たくなった。
 「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにしてノーベル文学賞をめぐる冒険が始まった。


 「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔っ払い方も、なんでも好きだよ」
 「本当にこのままでいいの?」
 「どう変えればいいかわからないから、そのままでいいよ」
 「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。
 「世界中のノーベル文学賞がみんな溶けて、バターになってしまうくらい好きだ」と僕は答えた。
 「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」
 僕はなんだか自分がノーベル文学賞にでもなってしまったような気がしたものだった。
誰も僕を責めるわけではないし、誰も僕を憎んでいるわけではない。
 それでもみんなは僕を避け、どこかで偶然顔をあわせてももっともらしい理由を見つけてはすぐに姿を消すようになった。

 「僕はね、ち、ち、ノーベル文学賞の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。
 「ノーベル文学賞が好きなの?」と僕は訊いてみた。
 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、ノーベル文学賞を作るんだ」
 ノーベル文学賞には優れた点が二つある。
まずセックス・シーンの無いこと、それから一人も人が死なないことだ。
放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
他人とうまくやっていくというのはむずかしい。
 ノーベル文学賞か何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える。
 「ずっと昔からノーベル文学賞はあったの?」
 僕は肯いた。
 「うん、昔からあった。子供の頃から。
 僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。
 でもそれがノーベル文学賞というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。
 ノーベル文学賞は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ。
 僕が年をとるにつれてね。何故だろう? 僕にもわからない。
 たぶんそうする必要があったからだろうね」

 その夜、フリオ・イグレシアスは一二六回も『ビギン・ザ・ビギン』を唄った。
 私もフリオ・イグレシアスは嫌いなほうだが、幸いなことにノーベル文学賞ほどではない。
 「それから君のフェラチオすごかったよ」
 直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。
 「ノーベル文学賞もそう言ってたわ」
 「僕とノーベル文学賞とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」
と僕は言って、そして笑った。
 彼女は少しずつノーベル文学賞の話ができるようになっていた。

 泣いたのは本当に久し振りだった。
 でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。
 僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・ノーベル文学賞が・好きだ。
 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、
 そして僕のことを覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。

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『村上春樹氏、村上春樹について語る』(戯文2)

 完璧な村上春樹などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
 六月にデートした女の子とはまるで話があわなかった。
 僕が南極について話している時、彼女は村上春樹のことを考えていた。
 村上春樹の目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。
 エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。

 「ね、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしているわけ? シコシコッって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。
 「たぶんね」
 「男の人って村上春樹のこと考えながらあれやるわけ?」
 「まあそうだろうね」と僕は言った。
 「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは村上春樹のことを考えながらやっているんじゃないかな」
 「スエズ運河?」
 「たとえば、だよ」
 
 「村上春樹?」と僕は聞いた。
 「知らなかったの?」
 「いや、知らなかった」
 「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。
 「彼にその趣味があるかは知らないけど、あれはとにかく村上春樹よ。完璧に。二〇〇パーセント」

 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたの村上春樹」と呼んだ。
 そして今日でもなお、日本人の村上春樹に対する意識はおそろしく低い。
 要するに、歴史的に見て村上春樹が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。

 村上春樹は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが村上春樹だ。
 村上春樹は盲のいるかみたいにそっとやってきた。

 「それはそれ、これはこれ」である。
 冷たいようだけど、地震は地震、野球は野球である。
 ボートはボート、ファックはファック、村上春樹は村上春樹である。

 「どうせ村上春樹の話だろう」とためしに僕は言ってみた。
 言うべきではなかったのだ。受話器が氷河のように冷たくなった。
 「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにして村上春樹をめぐる冒険が始まった。

 「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔っ払い方も、なんでも好きだよ」
 「本当にこのままでいいの?」
 「どう変えればいいかわからないから、そのままでいいよ」
 「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。
 「世界中の村上春樹がみんな溶けて、バターになってしまうくらい好きだ」と僕は答えた。
 「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」
 僕はなんだか自分が村上春樹にでもなってしまったような気がしたものだった。
 誰も僕を責めるわけではないし、誰も僕を憎んでいるわけではない。
 それでもみんなは僕を避け、どこかで偶然顔をあわせてももっともらしい理由を見つけてはすぐに姿を消すようになった。

 「僕はね、ち、ち、村上春樹の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。
 「村上春樹が好きなの?」と僕は訊いてみた。
 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、村上春樹を作るんだ」

 村上春樹には優れた点が二つある。
 まずセックス・シーンの無いこと、それから一人も人が死なないことだ。
 放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。
 他人とうまくやっていくというのはむずかしい。
 村上春樹か何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える。

 「ずっと昔から村上春樹はあったの?」
 僕は肯いた。
 「うん、昔からあった。子供の頃から。
 僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。
 でもそれが村上春樹というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。
 村上春樹は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ。
 僕が年をとるにつれてね。何故だろう? 僕にもわからない。
 たぶんそうする必要があったからだろうね」

 その夜、フリオ・イグレシアスは一二六回も『ビギン・ザ・ビギン』を唄った。
 私もフリオ・イグレシアスは嫌いなほうだが、幸いなことに村上春樹ほどではない。

 「それから君のフェラチオすごかったよ」
 直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。
 「村上春樹もそう言ってたわ」
 「僕と村上春樹とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。
 彼女は少しずつ村上春樹の話ができるようになっていた。

 泣いたのは本当に久し振りだった。
 でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。
 僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・村上春樹が・好きだ。
 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことを覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。

Ⅰ【文学コラム】35.風に吹かれて風の歌を聴け

【文学コラム】35.風に吹かれて風の歌を聴け(村上春樹文学について)


 「完璧な文章などといったものは存在しない。絶望が存在しないようにね」 ― 村上春樹『風の歌を聴け』冒頭より

 「完璧な"〇〇"などといったものは存在しない。"絶望"が存在しないようにね」――たとえばこの倒置された会話文を、本来の語順にもどすと「"絶望"が存在しないように、完璧な"〇〇"などといったものは存在しない」となる。この場合〇〇に入るのは、"希望"といった対義語に限定されるはず。この文に、原文のように"文章"という語を入れてみると、明らかに前後の脈略がなくなって意味不明な文章となってしまう。

 村上春樹の文章には、このように一見意味があるように思えるが、その内実のない空虚な文が多い。これは読者に自由かってな読み込みを許すとともに、若者が置かれている、意味が捉えがたくなっている今の世界の表象でもある。若者にとっては、取り巻く状況をうたい上げるフォークソングの歌詞のように、村上春樹の小説を「聞き流す」のがこころよいのだ。これが、「村上春樹文学」が世界中の言語の下でも受け入れられる根拠でもあろう。

 以前には、「完璧な"ノーベル文学賞"などといったものは存在しない。絶望が存在しないようにね」と言った単語置き換え遊びをやってみた。村上春樹の文の空虚さを確認する試みでもあったが、まさにこれがそのまま該当するかと思われる事が起こった。ボブ・ディランのノーベル文学賞がそれで、フォークソングの歌詞が果して文学かという議論もあった。

 これは、フォークソングの歌詞のように「気分だけ共有して聞き流せる」というものを、ノーベル文学賞選考委員会が「文学」だと認めたということで、同じような受容のされ方の「村上春樹文学」が受賞しておかしくないということだ。逆に言えば、一旦その種のものに文学賞を授与したからには、村上文学はしばらくスキップされるのかも知れないが、それはもはや関心外のことだ。

 もし日本に文壇史なるものがあったとすれば、その文壇が消えてなくなって久しい。文壇史を展望しようとした著作は伊藤整「日本文壇史」講談社、瀬沼茂樹「日本文壇史」講談社、さらに川西政明「新・日本文壇史」岩波書店と、膨大な巻数を数える。しかし私の知る限り、明治、大正、昭和と続く文壇も、・・・「第三の新人」、「内向の世代」ときて、ほぼ消滅したと見える。

 文壇が消え去っても何の痛痒もないし、文学に果たした文壇の独自の意味も見出しがたいが、同じような文学世界観を共有するグループの存在は、一通りの目安としての役割を果たしてくれた。ほとんど文壇スキャンダル史とも言える「新・日本文壇史」を書いた川西政明は、その文壇消滅の最後に、スキャンダルらしいスキャンダルもない「村上春樹」を単独でもってくる。

 文壇とは、ある程度「文学的世界観」を共有する緩やかな同時代人グループとでも呼べば良いのだろうが、明治以降の近代文学で一貫して共通するのは、少なくとも「純文学」と呼ばれた世界では「"私"をめぐる問題」が最優先された。それは日本文学固有の性格であり、その世界を狭隘にしたものでもあったが、とにかくそれは文壇史を一貫して来たと言える。

 然るに川西政明は、『春樹は「私が私であるのはいやだ」という自同律の不快から出発し、「世界の終り」にいた「僕」を救出する場所までやってきた。』と指摘する。つまり村上春樹は、「私」を拒否することで私の自己撞着から免れようとする。窮屈な近代世界の「私」に窒息しそうな若者たちにとっては、それはビデオゲーム同様の「私からの解放」とうつるだろう。

 村上春樹の文学は、たしかに「私からの解放」であった。それは、「文壇」および「文壇史」からの解放でもあった。しかしそれは同時に、日本文学固有の「私」の死でもあった。つまりは、日本文学の消滅を意味する。これは「私の自己同一性」を否定する現代思想/ポストモダンの思想と軌を一にするものであるが、そうであるなら、もはや「文学」である必要もないのではないか。

 私は村上春樹と同年代であるが、文学的には「第三の新人」など一世代前の文学に馴染んできた。そして、村上春樹以降の世代の文学は、まったく読めなくなった。それ以降の世界の表現には、文学よりも、漫画・アニメ・映画・ポップスソングなどという媒体がより適しているのではないかと思われる。当然これは、私の個人的な思いに過ぎないが。

Ⅰ【文学コラム】34.三島由紀夫と男と女・右脳と左脳

 【文学コラム】34.三島由紀夫と男と女・右脳と左脳


 いま手元に三島由紀夫著「文章読本」というのがある。粗末な紙の印刷で、古本屋の店頭ならべてあったのを50円で買ったものだ。奥付には、昭和34年1月号「婦人公論」の別冊付録となっている。「不道徳教育講座」というエッセイも同様に手元にあったのだが、遊びに来た知人が持って行ってそのままになった。これも同時期に、雑誌「週刊明星」に連載されたものらしい。つまり、ともに主として女性読者を対象に書かれたものだといえる。

 三島の小説作品はあまり評価していないし、その政治・文化思想や肉体改造などの行為も、ほとんどついていけない。つまり私は、熱心な三島支持者では決してないのだが、彼の評論やエッセーの類は、理性的に抑制されており、的確な指摘が多いと思われる。

 「男と女の一等厄介なちがいは、男にとっては精神と肉体がはっきり区別して意識されているのに、女にとっては精神と肉体がどこまで行ってもまざり合っていることである。女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いずれ肉体と不即不離の関係に立つ点で、男の精神とはっきりちがっている」-「不道徳教育講座」より-

 たとえばこの一節、これなどは内容的に見れば極めて妥当なもので、それをゲイだのバイだの肉体の虚弱だのと、三島由紀夫のパーソンルなセクシャリティと結びつける点は一切見られない。

 ここに書かれていることは、現在科学が解明する男女の脳の構造からも補完的に説明できる。男では右脳と左脳が明瞭に分化されているのに対して、女の脳は左右の脳をつなぐ橋梁部分が太く短く、その間の交流が即時的に行われるらしい。

 つまり、男は分析的か感性的か、いずれかに特化しないと処理できないのに対し、女は、同時に複数の処理を並行して行えるということらしい。デジタル処理で言えば、パラレルかシリアルかということだが、早い話が、どちらにもそれぞれの利点がある。

 三島が作品を書くときには、左右の脳を総動員するのだろうし、そのベースになるのは肉体と感性ということだろう。つまりは右脳が支配的になる。しかしエッセイなどでは、極めて分析的に徹して書いていると思われる。つまり三島にとって脳を総動員する必要がないわけで、ある意味、これを使い分けられるのは男の特性と言えるかも知れぬ。そして我々は、二人の三島由紀夫で、好きな側面だけを選択しても良いわけだ(笑)

Ⅰ【文学コラム】33.文学者 森鴎外と『舞姫』

 【文学コラム】33.文学者 森鴎外と『舞姫』


*1888.9.8/ 森林太郎(鴎外)がドイツ留学から帰国する。

 森林太郎(鴎外)は、東京大学医学部卒業後、陸軍省に入省し、1882(明15)年22歳の時、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるために、ドイツ留学を命じられた。ドイツでは、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンなど各都市に滞在した。

 ドイツ各地では、日本からの留学生と交流するとともに、当地の社交界にも顔を出すなど、社交的な研究生活を送った。ロンドンの下宿に引きこもって、書物相手の孤独な留学生活を送った、同時代人の夏目漱石とは対照的であった。4年後の1888(明21)年9月に帰国して、陸軍軍医学舎の教官に任ぜられた。

 鴎外は、軍医業務に就くかたわらで、学生時代から親しんだ文学でも才能を発揮する。外国文学の翻訳(「即興詩人」「ファウスト」など)や、評論的啓蒙活動をつづける中で、1890(明23)年には、ドイツ留学での経験をもとに「舞姫」を書き、続いて「うたかたの記」「文づかひ」と、ドイツ三部作と言われる作品を発表した。

 「舞姫」は、ドイツに留学中の主人公豊太郎が、ふとしたことでエリスというダンサーの少女と知り合い、恋仲におちいり同棲することになる。豊太郎は仕事の都合で帰国することになるが、妊娠していたエリスにはそれを告げられず煩悶する。やがて、そのことを知ったエリスは心労で発狂し、豊太郎は、後ろ髪を引かれつつも日本に帰国する。

 当時珍しい異国での日本人と外国人の恋愛物語は話題を呼んだが、ヒロインのエリスにはモデルが有るのではないかと噂になった。実際、鴎外が帰国した4日後に、横浜に入港した客船の乗客名簿に、「エリーゼ・ヴィーゲルト」というドイツ人女性の名前が残されている。

 エリーゼは1ヵ月ほど日本に滞在し、その間に鴎外とも面会し、帰国後も文通を続けたとされている。ドイツでの関係が「舞姫」に書かれた通りとは言えないが、憶測すれば、エリーゼは鴎外の後を追って日本にやって来た。しかし将来が嘱望される軍医官僚エリート森林太郎にとって、それはスキャンダルでしかない。それとなく説得されて、エリーゼは寂しく日本を去った、などという構図も考えられる。

 しかし鴎外が「舞姫」を発表したのは、この出来事の2年後であり、むしろ逆に、エリーゼとの接触から触発されて「舞姫」を構想したのではないかとも考えられる。もし、ドイツ留学中にエリーゼとの関係があったのだとしたら、逆に「舞姫」のような物語を書くわけがないとも言える。

 小説とモデルの関係は、さほど単純ではないであろう。留学中のドイツでは、東洋から来た留学生など眼中に置かれないであろうし、せいぜいが、場末のホールのダンサー兼売笑婦との一夜があった程度でしかない、と考える方が具体性がある。それを、エリーゼというドイツ女性と重ね合わせて、膨らませた結果「舞姫」が成立したのではないだろうか。

 そんなことよりも、文学史上における「舞姫」の位置付けが重要である。ちょうどこの時期、山田美妙や二葉亭四迷によって「言文一致体」が試みられていた時期に当たる。いわゆる「口語文」の成立過程であるが、「口語」だから口で語るように書けばよいというような簡単なものではない。

 当時は標準語とか共通語とかは無い時代で、初期の言文一致体は、江戸の話し言葉で書き記そうと試みられたが、とても読めるものにはならなかったという。本格的な言文一致体の最初と言われる、二葉亭四迷の「浮雲」でさえ、第一編は本人が不満だったという。

 柄谷行人「日本近代文学の起源」によると、本来、ロシア文学翻訳家であった二葉亭四迷は、「浮雲第二編」を書くにあたって、まず得意なロシア語で書いて、それを口語文として翻訳したという。つまり文としての骨格は、ロシア語という西欧語によって形成されているというわけである。

 同時期に書かれた「舞姫」は、文語体で書かれている。しかし、語尾活用や仮名遣いを変えるだけで、簡単に口語文に読み替えることが可能な文体であり、だからこそ容易に英訳可能だとも、柄谷は指摘している。ドイツ語に堪能であった鴎外は、ドイツ語で思考したものを文章化したから、文語体であっても口語文の骨格を持っているというわけだ。

 すなわち、「言文一致体」や「口語文」というものは、決して話し言葉を文字に置き換えたようなものではなく、明治維新で西欧語にさらされた上での、「新しい文体」の創出であったということである。明治の文豪とされる森鴎外も夏目漱石も、積極的に言文一致体運動に関わった訳ではない。しかし、ドイツ留学で鍛えられた鴎外と、英文学と格闘した漱石は、ともに必然的に新らしい「口語文」の文体を伴って登場したのであった。

 下記でどちらが読みやすいか、冒頭だけでも読み比べてほしい。

『舞姫』(森鴎外/青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/682_15414.html

『浮雲』(二葉亭四迷/青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/1869_33656.html

Ⅻ【現代伝説考】Ⅵ.美女と湖水04「水と妖怪」

Ⅵ.美女と湖水04「水と妖怪」


 今回の蒐集では、本格的な妖怪の話題は予想以上にすくなかった。その理由のひとつには、先にのべたように現代人の生活環境には妖怪が棲みづらくなっていることが考えられる。水に関連してでてきた妖怪は、水辺に棲む妖怪の代表である「河童」の話が三題、それと「蛇」が二題程度である。いずれも、躯がぬめぬめした爬虫類・両生類のたぐいである。

<河童>

『千鳥が淵のカッパ』
《 大堰川(おおいがわ:上流は保津川、下流は桂川と呼ぶ)の、この渡月橋の少し上には「千鳥が淵」と呼ばれる深みがあります。ここは水死者がよく出るので有名で、「河童が足を引っ張る」と言われていました。複雑な水流で、痙攣や心臓マヒを起こしやすいというのが実態でしょうか。もちろん、遊泳禁止になっています。
 酔っぱらいさんが「千鳥足」で飛び込んで水死したから「千鳥が淵」と言う、てのは小生がガキのとき勝手に思い込んでいたデマです(笑)。以上ガキの頃の記憶ですから、少なくとも30年ちかく昔になります。》

 「河童の川流れ」というぐらいだから、おもな棲息域は「流れる水」のある川であろうが特定はしがたい。いずれにしろ河童と海とはなじみにくいので、河川や湖沼といった陸水の周辺が中心であろうかとおもわれる。

 この話題にもあるように、河童の恐怖には水死事故の不安が下敷きになっているであろう。人間が泳ぐ姿勢を考えてみると、意識の中核である頭は水面上に出て、その肉体のほとんどは水中に沈む。いわば、水面という「境界」によって身体がが二つにひきさ裂かれた異常な状況におかれるのである。しかも普段はその足をささえているはずの地面が、いまは無い。足元はまったく無防備な状態であり、そこに足を引き込む河童の不安が頭をよぎってくる。

 水中での不安は陸上での脅威とは異質である。『ジョーズ』という映画があったが、海中で鮫に襲われる恐怖には地上で猛獣に襲われるのとは異なる種類の怖さをはらんでいる。水中では手足はすべて泳ぐことについやされ、その肉体はまったくの無防備にさらされている。しかも、自分の目にはみえない足元から恐怖はやってくるのである。映画では、そのような恐怖感を巧妙に描きだしていたようにおもえた。

『屋号の「河童屋」』
《 幼い頃まで、わが家は「河童家」と呼ばれていました。周囲の大人に何度かその理由を尋ねましたが、まともに答えられるものはおりませんでした。ご隠居様のご指摘の通り、今でこそわが家は高台にありますが、父が生まれる前は川のごく近くにあったようです。川幅もそこそこ広く、付近には「沼」のつく地名もあり、ところどころよどんだところもあったのでしょう。
 現在では治水事業によって水量も知れたものですが、昔はかなりの暴れ川であったということです。「先祖が泳ぎが達者だった」というのがおそらくこの屋号の謂れではないかと思うのです(わたしはカナヅチですが)。ちなみに、わたしの本名も河童っぽいんですよ。》

 頭のいただきにあるお皿が乾くとへばってしまうという滑稽な河童であるが、意外な凶暴性もみられる。子供や牛馬を川の中に引きずり込み、その尻の穴から内臓をひきだし食べてしまう習性もあるそうだ。農民にとって普段はめぐみの水をもたらす川も、一変すると凶暴な「暴れ川」の容貌をあらわす。そのような「流れる水」の凶暴さが、水の精でもある河童に託されたとしても不思議はないであろう。

『浄水槽のカッパ』
《 当時小学生だった主人に、今日聞いた20年前の夕張の浄水槽?の話。
 夕張市役所前の通りをまっすぐ行った、そんなさびれてもいず、民家も近くにある場所だったそうですが、コンクリの雪除けで覆われた浄水槽?があったそうです。半地下で、階段を降りると薄暗い中に4つほどにしきられたプールが広がっている。そこでやんちゃに泳いだりしたそうですが、かなり薄気味悪い場所で、泳ぐとカッパに足をつかまれる、という話があったそうです。
 シリコダマも抜かれるの?と聞いたら、そういう話はなかった、じゃ、カッパじゃないのかな?だそうです。》

 これも、水中に引き込まれる恐怖の話題である。かつての川や池は手軽な遊泳の場所でもあったろう。しかし現在ではその多くが危険な遊泳禁止地区とされたり、また泳ぐのには適さないほど汚染されたりしてしまっている。となれば河童の出没する機会もとぼしくなってしまうのは、むべなるかなである。かくして、河童はこのような浄水槽などにひっそりと潜むことになるのだろうか。

 川もないのに、河童はどこからやってくるのだろうか。「半地下の薄暗い浄水槽」というところから、あの「地下の水」との通路でもあるのかとも想像される。

< 蛇 >

『牛若丸産湯の井戸』
《 小生の生まれ育った町内に「牛若丸産湯の井戸」てのが在りました。平安朝の若女房達が牛車でハイキング?!に出かけるてな話しも今昔物語かなんかにあったようなので、おそらく当時は郊外の野っ原かなんかだったと思います。牛若(源義経)が当地で生まれたのだから、父義朝が別荘かなんかをこさえて、お妾さん(常盤御前かにゃ?)を囲っていたんでしょう。
 今は、井戸そのものは無く石碑が建っています。大正か昭和の始めにそのあたりが造成されその時石碑が建てられたようで、「牛若丸の誕生の折の産湯の水を汲んだ井戸があったという言い伝えがあるのでこの石碑を建てる、うんたらすーたら」とか書いてあったはずです。お役所が、ろくに詳しく調べもしないで建てたらしく、けっこう無責任な文章だったと記憶してます。
 「話し」自体は他愛もないものです。
 その石碑の裏には「白蛇様」が住んでいる。ヒト気のない時そこを通ると、時々、石碑の前で「白蛇様」がトグロを巻いていらしゃる。パンポンと柏手たたいてぐるりと一回りすると、もうその瞬間にお隠れになる。それだけです(^^;。》

 蛇は、さまざまに表象される。この「白蛇様」のように神性にまつりあげられるかとおもえば、邪悪の象徴にもなされる。人間にとって、蛇とはまさにあやしげな多義性をもった存在であろう。そのあやしさは蛇の神出鬼没性からもくるのであろうが、なによりもその足のない体型の異形性にもとづいているかとおもわれる。

 軟体動物のような下等なものをのぞいて、おおかたの動物の身体は頭・胴・足などに区分できる。そしてその区分から、ひとはその動物のあらかたの行動特性を推定することになるだろう。ところが手足のまったくない蛇からは、その特性をリアルに思い描きがたい。そのようなところから、蛇に対するさまざまな想念がわきあがってくるのではなかろうか。

 「試着室ダルマ」では、若い女性手足をもがれて蛇のように異形になる。そしてそれは、恐怖の変身のものがたりであった。「深泥池古伝説」では、池のぬしの大蛇が美女に変身するロマンでもあった。蛇とは、その固定した姿を定めがたい変成のありさまを表象している。そしてわれわれ現代人の自意識も、蛇のようにうねうねと正体を定めがたい多義性をはらんでしまっているかのようにおもわれる。

『池の水を飲みに来る大蛇』
《 今から5年ぐらい前,湖岸道路を15分ぐらいいった所にある,なんとか山の池の改修工事をしたときは,元請けと地元の人で,その池に水をのみにくる大蛇のお払いを,工事前にした。(一緒に聞いた人の補足によると,荒神山らしい)》

 池の水をのみにくる大蛇は、村のの娘たちを呑みこむ妖怪であるかもしれないし、大切な水を全部飲んでしまう怪物かもしれない。村の人たちにとっては、お払いをし鎮めるべき対象であろう。しかしこの水をのみにくる大蛇に、現代伝説「タクシーできて消える女性客」の幽霊を重ねあわせてみると、また別の様相が浮かびあがってくる。水をもとめて都会をさまよい、わずかな痕跡のみを残してはかなく消えてゆく現代人の姿をもものがたっているかも知れないの である。

<ペットボトルと現代伝説>

『ペットボトル』
《 P.S.「ペットボトル」とか言うのが流行ってるそうですが、当方(京都府南部地域)でも数週間前から目だつようになりました。みなさんの地域では如何ですか? ワンちゃんのおしっこぐらい、好きなようにさせてあげたらと思うんだけんど。
 ちなみに、1本だけ黄色い水の入ったボトルを見つけました。たぶん、酔っぱらいさんがおしっこを入れたのではないでしょうか(^^)。》

 この一片の追伸に端を発して、なんと30通ちかくの関連投稿がよせられた。蒐集実施時期(1994/9月-12月)には噂の最盛期で、単なる噂というより一種の社会現象の観を呈していた。やがて、家の脇に置いたペットボトルからボヤが発生する事件などがあって収束にむかったようである。

 ペットボトルとは素材を示す「P.E.T.ボトル」の意で本来愛玩動物のペットとは無関係らしいが、なぜかペットの糞尿よけ対策として家の脇に置かれるようになった。ジュースなどの入った1.8リットル程度のプラスチック容器で、どこの家庭でもでる廃棄物に水を入れるだけということで、見よう見まねで普及していったようである。

 このペットボトルの水も、やはり水道水からとった「人工の水」ではある。そして、量はわずかではあれ「淀む水」でもあろう。一方、家の前に糞尿をしていく犬や猫のペットは、迷惑をこうむる主婦などにとっては悪さをするある種の「妖怪」であるのかもしれない。ということで、このペットボトルの話題を無理矢理に「水と妖怪」の項に配列してしまおう。

 街角にペットショップの看板が目につくようになって久しい。スーパーの棚にはペットフードが山積みにされ、各家庭ではさまざまなペットが飼われている。かつては野放しがおおかった愛玩動物も、小型犬や猫などは部屋の中で生活をさせるのが普通になっている。自分の愛玩する動物は家族と同様にあつかう一方で、糞尿などのささいな迷惑をかける他人のペットは毛嫌いにする現代人の心性にはどのようなものが潜んでいるのであろうか。

 かつての村落共同体のような社会では、自分たちの生活世界とその外の区分は比較的明瞭であった。外の世界との境界も、当時の人々の意識のうちではそれなりの明示性をもっていたであろうと想像される。ところが現代では、そのような内と外の境界性ははなはだ不鮮明になり、あきらかな「内」は家庭であり自室であり、そして自己の内面世界程度にかぎられてしまっている。

 そして最後の牙城である「内」をまもるには、ドアをつけ鍵をかけてしまうほかないだろう。そういう意味では、家のそばの電柱にオシッコをかけるにくる犬猫は歓迎されざる闖入者であり、門柱のかたわらに置かれた何本ものペットボトルは「結界」の意味も託されているのであろうか。

 かつて「淀む水」に生活した村落共同体の人々は、「流れる水」と「地下の水」に自覚的であった。上流から流れてくる水と地下から湧きでてくる水は恵みの水であっただろうが、それらの水を完全にはコントロールできないものとして、その「境界」には畏れと祈りがあった。しかし現代人は、その地下の上層部にはり巡らされた「人工の水」には無頓着である。水道栓をひねれば必要な水は出てくるし、排水は流せばどこかでだれかが処理してくれる。かくして「水」の体系のもつ意味を忘れさってしまった。

 もちろんここでは、生活の必需品としての物理的な水だけをさしているのではない。水に込められた世界観としての「水」の意味である。かつて水が表象していた世界像は、われわれの意識から消えさってしまった。そしてわれわれの意識世界も、ペットボトルのような容器に詰めこまないかぎり形をもたない、ただの液体のような存在になってしまっているのではないだろうか。

 ペットボトルに詰められた「人工の水」は、そのままほうっておけば腐敗して汚濁するだけである。われわれの内面世界も、部屋に閉じこめられた愛玩動物やそれを模した縫いぐるみと同じく、まわりを囲いこんでいるばかりでは閉塞してしまうであろう。狂気を排除してクリアカットになったはずの近代理性も、現代では、ペットボトルに詰められた「人工の水」のように腐敗発酵をはじめているかのようにおもわれる。

 もちろん、いまさら過去にもどるわけにはいかない。もはや過去の伝説の輪郭をそのままなぞるのは不毛であろう。むしろ、過去の人々がその伝説にこめた意味と現代伝説との交錯するところに、現代のあらたな「水」の意味が浮かび上がってくるのかもしれない。現代の噂は、過去の民話・伝説のような鮮明な類型構造は示さない。それぞれが、かぎりなく断片的でばらばらに存在している。それは、あたかもわれわれの生活世界が断片化し散文化しているのを反映しているかのようである。

 そのような現代伝説から、かつての伝説と同じように類型構造を読みとろうとするのは不毛な迷路におちいるおそれがある。むしろ、それぞれの噂をテクストの断片として見て、それぞれの噂のあいだから浮かび上がってくる流動的な関係構造をながめてみるほかはないかとおもわれる。古典的な形態をとっているような伝説もまた、そのような読み方のなかで「現代伝説」としての姿をあらわしてくるであろう。もちろんそれは、水族館の巨大な水槽の中を泳ぎまわる魚の流れから、ある種のリズムをつむぎだそうとするような困難な作業ではあるにちがいない。

Ⅻ【現代伝説考】Ⅵ.美女と湖水03「水と霊・祟り」

Ⅵ.美女と湖水03「水と霊・祟り」

<水の特異空間>

『教会の井戸』
《 京都ハリストス正教会の話
 これは小生自身が直接取材した話なのですが、京都御所の南側、町中の一等地に京都ハリストス正教会があるのですが、なぜこんな良い場所にあるのか教会守のご婦人にお聞きしたところ、この場所はさる方の屋敷だったのだが、井戸の位置が悪いとかで不幸が続き、安く買い受けたのだとか。そんな理由で一等地が手に入るのかと、感心しました。今でも教会敷地の奥にその井戸がありますが、クリスチャンには全く関係ないことだということでした。》

 この井戸にはなんらかの因縁話でもあるのだろうが、この投稿文だけからはわからない。ここでは「井戸」一般のもつ意味を検討してみよう。井戸は、もちろん地下水を汲みあげる装置である。いままでおもにでてきた池や川は地表面の水であった。「流れる水/淀む水」の世界観を完成するには、「地下の水」をも考えてみなければならない。ここでも、その筋氏の考察を援用させていただく。結論部だけの引用である。

『地下にある水』
《(前略) つまりは,はっきりとは見えないが,地下のいたる所に水があり,それを随意に取りだしたり,防いだりすることは,大変な技術であるということではないでしょうか。
 また,お水取りと言う,奈良県で行なわれる行事に使う水は,敦賀で取られるという話をきいたことがありますが,なんでも水脈がつながっているということだったように記憶しています。(記憶ちがいかも知れません)
 九頭竜湖に,白山の山の神が姿を表したと言う,泰澄にまつわる伝説がありますが,これなども神の行く道として白山と福井県の九頭竜湖が水脈がつながっているということを表しているのでしょう。

 私の地域にある神社の縁起を読みますと,多くが行基を開祖とし,仏頭が,山頂などの湖の水中から出てきたので,それを本尊に仕立てなおしたという伝説をもっています。
 ここでは,水は地理的な空間を超えて伝わるものとされているのだといっていいでしょう。現在でも,近くにある<河内の風穴>の水は,三重県や岐阜県につながっているという説が行なわれています。TVで調査したこともあるのですが,真偽は定かではありません。
 地下にもぐった水は,私たちの目からはその行方を知ることができず,意外なところに姿を表しますが,その場合,ちょうど,ベクトルのように,始点と,終点だけが問題とされるのだといえるでしょう。その地下水脈は,丁度ドラエモンの,潜水鑑が,水のあるところなら何処へでも(しずかちゃんのお風呂場は定番であるとして)通えるように,私たちの想像力を連れていく,秘密の通路となっているのでしょう。

 そのような水脈をコントロールできる人々は,例えば,私たちが<金○氏>を,<ようかい>という呼び方でよぶように,魔術師の仲間になるのでしょう。
 <地下にもぐる>とき,そのものは,地上の世界で自分を表していた特性(名前,身分,形)などを失い,個々の存在として分離されない状態=水になるのだといえるかもしれません。とすれば,<みそぎ>というのは,本来川に入るだけでなく,その中にもぐることで,いったん自分のもっていた,多くは負の特性を失わせることであるのでしょう。
 <地上に出た水>は,そのきっかけとして,<大師>さんが杖をついて発見したとされる<泉>=湧き水がまずあります。これは,どんな日照りの時も枯れないとか,体に良いとかの効用があります。聖なるものとして祝福された,あるいは,地下にあったときの<悪>の部分をそぎおとした<水>といえるでしょう。

 しかし,例えば,<金気>をふくんでいる水は,飲み水には使えないし,そのまま田に流すこともできないでしょうから,雑用にしか使えないということになります。名水といわれるものが,取りざたされるということは,それだけそのままでは,飲めない水が多かったということを表しているのではないでしょうか。
 そういえば,足尾銅山や,神通川の鉱毒問題が,古くには,土地の風土病として処理されていただろう事も,思い当ることです。まさに,<水があわない>ことは,危険なことだったのだろうと思います。
 それらが溜まってできた<沼>,や<池>に,<地下世界>に通じる出入口を想定するのは自然なことのように思います。そこに,<主>が住み着いたのでしょうか。》

 われわれの目にふれる地表面の「流れる水/淀む水」は、地下の闇部にある「地下水」で四方八方につながっている。こう考えてはじめて「水の世界観」は完成する。となれば地表に水が噴き出したり地下に水がもぐりこむ場所は、重要な意味をもつ「境界」ととらえることができる。さきの「井戸」も、そのような意味づけをもたされているのであろう。そこに、霊や祟りがあっても当然のことになる。

 一方で、この存在構造はわれわれの「意識世界」と対応させて考えるみることもできる。われわれの自覚的な表層の意識にたいして、フロイトが発見した「深層意識(無意識)」を「地下水脈」に対応させてみよう。われわれの個別の意識はばらばらであるが、その深層では複雑な水脈でひとつにつながっている。そして、その「境界」にあたる場所で「水」が噴き出してくる。

 「噂」とは、そのような「境界」で発生してくる。となれば噂を分析することは、われわれの意識の深層をさぐることにもなる。「流れる水/淀む水」と「地下にある水」との接点から、その深層をかいまみることも可能であろう。

 その筋氏の説にそうと、農村のようなかつての集落は「淀む水」のある場所に形成された。そして、そのような村落でたくさんの民話も発酵した。近代になってから蒐集された民話の多くも、そういった村落共同体を母胎とするものであろう。そうしたリジッドな母胎をもつ民間伝承は、比較的同定しやすいだろうし考察の対象にもなりやすい。

 他方で、われわれが俎上にあげようとしている「現代伝説」とは、きわめて不定形な母胎しかもたない。「都市伝説」と呼んでみたところで、都市住民の総体から「都市の常民」といったものが抽象ができるわけでもないだろう。畢竟あやうい作業にならざるをえない。

 視線を転じて、現代都市における「水」をながめてみよう。現代の都市の多くは平野部に展開する。ここでは「流れる水/淀む水」という、自然界の水の概念は適用しづらい。むしろ都市という言葉から連想される「人工」に目をつけてみれば、われわれ都市住民のまわりには無数の「人工の水」のネットワークがある。下水道しかり、上水道しかり。このような人工の水が、蜘蛛の巣のようにはり巡らされているはずである。

 これらの水は「流れる水」であり、しかもほとんどが地中に埋められている「地下の水」でもある。そして、その上でわれわれの都市生活がいとなまれている。巨大な水槽のような都市空間で、あてどもなく泳ぎつづける現代人たち。その生活空間は、地下にはり巡らされた人工の管で維持されている。すべてが人工の水で構築された世界で、かつての人々が恐れおののいた自然の脅威とは、あたかも無縁である「かのように」生活できる。このような現代都市空間は、それ自体がひとつの「特異空間」ではなかろうか。

 冒頭の「教会の井戸」の因縁話は、礼拝におとずれる人々にとってはもはや関心をよばない。かつて「地下の水」との接点であった井戸は、すでに水道で生活する人々にとっては無縁の存在である。古井戸は、すでに「境界」としての意味を失っているのであろう。

<過去の水・現代の水>

『七里ヶ浜の落武者』
《 小生が小学生の頃、本で読んだ話なのですが、鎌倉の七里ヶ浜で海水浴中の学生たちが次々と溺れ死ぬ事故があって、助かった学生の話として、沢山のほつれ髪の落武者たちが足を引きずり込んだという話が出ていました。以来、小生は海水浴が怖くて怖くて、戦いのあった海での海水浴は一切していません。》

 この話題には二つの伝説が重ねあわされている。ひとつは鎌倉末期のものであろう古戦場での合戦の伝承。もうひとつは、明治の末ごろにあった旧制中学生の海難事故の伝説である。前者の合戦が凄惨なものであったことは想像するまでもないが、後者の悲劇も現代が克服したかにみえる水の恐さを思いおこさせる。そのような二つの恐怖の立体構造が、この噂の基調を構成している。

 そしてまた、この二つの出来事は明治以降唱歌として歌いつがれ、それに親しんだ人の脳裏に固有の伝説を形成しているであろうことが重要である。「七里ヶ浜のいそ伝い、……」、「真白き富士の峰(ね)、緑の江ノ島、……」、このような歌詞が想いうかぶ人も多いであろう。

 名将が剣を投じたという神性をおびた海と、近代の人工もむなしく若い魂を呑みこんだ海。この二つの悲劇は、歌によって徹底的に美化され伝説化されている。そのようなロマン化された二種類の海に、さらには現代の海水浴場としての浜辺の水が重なりあう。

 現代の海水浴場は、安全に囲いこまれたいわば人工の海といってよかろう。そのような人の世界に取りこまれた「人工の水」は、本来ならばその下にはり巡らされた目には見えないもうひとつの「水のネットワーク」で、幾重にも安全が確保されているはずである。もちろん、ここでいう「水のネットワーク」がメタファーであることはいうまでもない。現実には、現代社会が構築したさまざまな安全装置をさす。

 そのような安全なはずの海水浴場が、先にのべた二つの伝説と接点でつながるとき、わすれたはずの恐怖の記憶がもどってくる。いわば「人工の水」のタガがはずれて、自然の脅威をもつ海と「境界」を接することになるのである。いうまでもなく、広大な海はまだまだ現代人に克服しきれない恐怖をたゆたえているのであろう。

『恐山温泉の幽霊』
《 20年以上昔に学生だったとき東北を旅行しまして最後に恐山に行きました。三途の川とか色々看板が立っていましてもう観光のノリで見ていたら、たまたまタダのお風呂(温泉)がありまして多分湯治用だと思うんですけど、入りました。いい湯だった覚えがあります、湯気が気持ちよく上がっていました。
 後年青森の友達にその話をしたら、その風呂は出るんだよと顔をまじまじと見られました。「オバケ属」の心理的な圧力は、居住地の距離の短さとと比例しているようで、被害を受けないとよそ者はわかりませんね。》

 この話題も、過去の水と現代の水のもつ意味の対比がおもしろい。土地に根づいて住まっている人々にとっては、この温泉の湯のオバケはいまでも生きている。しかし、現代人としての旅行者にとっては無効であるらしい。もしこの旅行者が、土地になじんで根をはりだしたとたんにオバケはリアルな姿を見せることであろう。

『雨請い伝説』
《 毎年8月23日には,俊蔵祭が行なわれるが,これは,日照りの時に前田俊蔵という人が,岐阜の夜叉が池に,自分の命と引き換えに雨を降らしてくれと,祈りにいった。すると,大雨となった。百姓はみな助かった。俊蔵さんは,そのご切腹をして,池の神様との約束を果たした。それを讃える祭りである。だから,この日は,どんなに晴れていても,必ずちょっとは,雨が降るという。
 その後,町の役員としてこの祭りに関わったときに,祭りの由来書(ガリ刷り)を見たところによると,前田俊蔵は,T月町T月の28才の青年であり,明治16年8月の大干ばつの時に,夜叉が池へ雨乞いをしにゆき,実際に自害した実在の人物であると言うことです。

 同年10月に,顕彰会が作られたようです。なお,俊蔵祭の時は,地元で法要(禅宗)をつとめるだけでなく,代表が夜叉が池の竜神に参拝する。(現在も行なわれています)》
 これは明治の話であっても、かつての農村伝説の色を濃く残しているものであろう。農民にとって水の重要さはいうまでもない。もちろん池は「淀む水」であり、上流からの「流れる水」をたたえるところである。もしその上流の水がこなくなれば、もうひとつの上流である空からの水に頼るしかなかろう。そして、その空からの水を求める接点も「夜叉が池」にもとめられる。その接点は、ひとりの青年の命と村人へのめぐみの雨を交換する重要な結節点でもあったのであろう。

『水源地公園の兵隊幽霊』
《 5年前;札幌市豊平区の『水源地公園』;そこの近隣の40代の某社長婦人
 実際に行ったことはありませんが、札幌市豊平区の『水源地公園』は何やら第二次大戦当時日本軍の関連施設がどうだかだったとかで、日本兵の幽霊が出てたたられるので、昼日中でも行ってはいけないと、5年前そこの近隣の40代の某社長婦人に忠告されました。ローカルテレビでも取材をされている有名な場所な様です。》

 「水源地公園」という名称が、おのずから事の重要さをものがたっているだろう。北海道の開拓者たちの命の水であったのかもしれない。戦闘のなかったはずの北海道でその日本兵がどんな死に方をしたのかは知りすべもないが、昼ひなかでも祟るというのは興味ぶかい。

『小樽運河の霊』
《 また、小樽の運河にもかつて出る噂がたったことがありました。小樽運河の再開発のされる前(15年位前)の話です。今でこそ小樽運河は観光地化し、観光客が数多く来て賑わっていますが、その頃は随分とさびれた人通りの少ない所でした。そこで見たという人が何人も出て、新聞記事になったことがあります。
 で、運河建設当時のことを知る人の話で、運河建設のタコ部屋のタコたちが死ぬと、運河の基礎に埋め葬られたという話が出てきたのです。内地から連れて来られたり、朝鮮半島から来たりしたタコの姿を、小樽の町の人たちもかわいそうに思っていたそうでした。》

 運河とは、いうまでもなく自然の水に人工を加えることである。強引な運河工事でたくさんの悲惨な犠牲者がでたとなれば、鎮められようもない霊がさまよいでるのは無理もない。