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Ⅰ【文学コラム】30.谷崎潤一郎と阪神間モダニズム

【文学コラム】30.谷崎潤一郎と阪神間モダニズム


 1943年、月刊誌「中央公論」1月号と3月号に「細雪(ささめゆき)」の第1回と第2回が掲載された。谷崎は1941年に「谷崎潤一郎訳源氏物語(旧訳)」を完成させており、その優雅な源氏物語の世界の現代版とも言える「細雪」にとりかかった。大阪船場の旧家に生まれた妻松子の姉妹たちの生活をモデルに、軍国主義が深まる世相にもかかわらず、阪神間に住まう姉妹たちの家庭どうしの華やかな交友を描いた。

 小説には明示されていないが、描かれた世界は日中戦争勃発の前後から日米開戦の直前までの時期とされる。しかし発表の時にはすでに戦局が傾きつつあり、内容が時局にそぐわないと軍部から掲載を止められた。谷崎はそれでも執筆を続け、1944年7月には私家版の上巻を作り、友人知人に配ったりした。さらに中巻も完成したが出版できなかった。空襲を避け岡山の山間での疎開を経て、終戦後は京都の鴨川べりに住まいを移し、1948年にやっと下巻までを完成させる。『細雪 全巻』が中央公論社から刊行されたのは、その翌年1949年の末であった。

 東京で生まれ育った谷崎潤一郎は、1923年関東大震災の年、すでに所帯をもち横浜山手に居をかまえて、中堅作家として名をなしていた。震災前に結婚した最初の妻「石川千代」は谷崎の好みに合わなかったようで、その妹「小林せい子」を愛人にして、女優デビューさせたりしており、「痴人の愛」のナオミのモデルとされる。大震災では自宅が火災消失し、大震災の惨状をまのあたりにした生来の小心者谷崎は、関西に移住する。

 震災で阪神間に移住後、のちに「細雪」のモデルとなる「根津松子(旧姓森田松子)」と知り合うが、松子はすでに既婚者であった。一方で、谷崎に放置された状態の妻の千代は、谷崎の作家仲間であった佐藤春夫の同情をかい、やがて三者連名の挨拶状を知人に送り、谷崎は千代と離婚し、千代は佐藤と結婚するという「細君譲渡事件」として世間を賑わせる。そのあと谷崎は、その文名にひかれた古川丁未子(とみこ)と結婚するが、これも性癖が合わなかったもようで、のち離婚する。

 その間に松子も夫との間に離婚が成立し、松子と谷崎は芦屋で同居するようになる。谷崎は「盲目物語」「春琴抄」その他の女人崇拝の作品を書き、それらは松子を念頭に置いて書かれた。やがて松子と無事結婚した谷崎は、「松に倚(よ)る」という意味で「倚松庵(いしょうあん)」を名乗り、二人で住まった神戸市東灘区の住まいも「倚松庵」と呼ばれ、「細雪」が書かれた家として移設され保存されている。

 関西移住後、谷崎がおもに住まった阪神間には、芦屋市山手などを中心に、「阪神モダニズム」と呼ばれる近代的な住環境・芸術・文化・生活様式が出来上がりつつあった。しかも、大震災以降の復興しつつある関東と、震災で多くが移転して来た関西を中心に、「昭和モダン」と呼ばれる和洋折衷の近代市民文化が開花していた。そのような華やかな文化の息吹のもとで、没落しつつある旧家の生活・風習が重なり合って、陰影を漂わせ儚さを予感させる華やかな姉妹の生活が描かれる。これが「細雪」の世界であった。

(追補)
〇谷崎潤一郎『細雪』 嵯峨野・岡崎「平安神宮」
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 大沢の池の堤の上へもちょっと上って見て、大覚寺、清涼寺、天竜寺の門の前を通って、今年もまた渡月橋の袂へ来た。京洛の花時の人の出盛りに、一つの異風を添えるものは、濃い単色の朝鮮服を着た半島の婦人たちの群がきまって交っていることであるが、今年も渡月橋を渡ったあたりの水辺の花の蔭に、参々伍々うずくまって昼食をしたため、中には女だてらに酔って浮かれている者もあった。

 幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰を開いたが、今年は十三詣まいりで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ。そして再び渡月橋を渡り、天竜寺の北の竹藪中の径を、「悦ちゃん、雀すずめのお宿よ」などと云いながら、野の宮の方へ歩いたが、午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った。

 それからもう一度清涼寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三度渡月橋の北詰に来て一と休みした後、タキシーを拾って平安神宮に向った。

 あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―――海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あー」と、感歎の声を放った。
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 『細雪』は、大阪船場の旧家蒔岡(まきおか)家の4人姉妹、鶴子・幸子・雪子・妙子の繰り広げる物語。次女幸子は、谷崎の三度目の妻松子がモデルで、彼女から触発されて「細雪」を執筆した。大阪船場に育った四姉妹の間で、芦屋に居をかまえた幸子夫妻との行き来など、場面は阪神間を中心に展開されるが、引用部分は、毎年、桜の時期に訪れる京都が舞台となっている。

 東京下町に生まれ育ち、生粋の江戸っ子と呼んでもおかしくない谷崎潤一郎が、いくら関東大震災にビビったとはいえ、関西に移り住み、阪神間の文化にどっぷりと浸かって馴染んだのは不思議でもある。谷崎は、最初、京都に仮の居を定めたが、すぐに阪神間に転居する。おそらく谷崎には、京都の「伝統文化」というものには関心がなかった。引用部にあるように、谷崎にとって京都は、一年に一度花見などに行く場所なのであった。

 近年になって規定され出した言葉だが、「阪神間モダニズム」の最盛期が、まさに「細雪」に描かれた舞台であった。小林一三による阪急電車の阪神間山手沿線などに、風光明媚かつ快適な住環境の住宅地が供給され、そこに実業家や文化人などがモダンな邸宅を建設し、ゆとりのある趣味文化を形成した。

 阪神間モダニズムは、「ライフスタイルと都市文化」を示すものなのだが、具体的にはその時期の建築物が提示されやすい。野坂昭如『火垂るの墓』にも出てくる「御影公会堂」などもその一つだが、一方で、生活文化そのものは形がなくて示しにくい。「細雪」では、大阪船場の商人文化を継承維持しながら、それを阪神間モダニズムの中で具現したような日常生活が描かれていて、貴重な文献遺産ともなっていると言えよう。

*映画化・ドラマ化は何度も行われており、いつも四姉妹のキャスティングが話題となる。ここでは1983年市川崑監督のものを挙げておこう。

(追補2)
○ 1965年(s40)7月「文豪の名にふさわしい 谷崎潤一郎没」

 戦前から文豪と呼ばれた中では、比較的長寿の79歳没。日本文学の一つの時代が終ったとも言える。悪魔主義、耽美主義、変態文学、マゾヒズム、女性跪拝などと様々な呼び名が付けられたが、一貫して崇拝的な女性美像を追求した。谷崎の妻をめぐって友人佐藤春夫との三角関係に陥ったが、佐藤に妻を譲るという三者連名の声明文を発表、「細君譲渡事件」と騒がれたり、奔放な行動が話題を呼ぶことも多かった。

 日本最初のノーベル文学賞候補と仮想されることもあり、彼の死後は三島由紀夫が浮上し、さらに三島自刃後には結果的に川端康成受賞となった。これらの名を観ると、いずれも日本的な美の追求者という側面がうかがわれ、西欧側からのオリエンタリズムの色が濃く反映していることは否めない。

 現在の著作権法では保護期間が著作者の没後50年と定められており、谷崎の作品は昨年(2015)から一般に公開できることになった。たとえば青空文庫などでは順次公開されつつあり、いつでも無料で読める。
 ところが「環太平洋パートナーシップ(TPP)協定」が発効すると、アメリカなどにあわせた「没後70年」に延長される(音楽なども同じ)。すでに期限切れには適用されないが、たとえば、2020年に切れる予定の三島由紀夫の作品は、2040年にまで延長されることになる。


(追補3)
○1930.8.18 谷崎潤一郎夫妻が離婚を発表

 「妻(千代)を友人(佐藤春夫)に与える声明」を3人連名で、知人友人に送付する。「細君譲渡事件」「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、 ・・・」 このような声明文が、谷崎潤一郎、妻千代、佐藤春夫の三者連名で関係者に送付された。谷崎45歳、佐藤38歳という成熟期の著名文士間での「細君譲渡事件」として、当時の世間をにぎわせた。

 谷崎潤一郎は既に新進作家としてスタートしていたが、29歳の時、芸者だった「石川千代」19歳と結婚式を挙げる。「悪魔主義」などという大仰な形容をされた新進作家谷崎にとって、妻としては申し分なくても、女としては平凡な娘であった千代は気に入らなかったようで、娘鮎子をもうけるも、夫婦愛をはぐくむことがなかった。

 15歳になる千代の末妹「せい」は、千代と正反対の奔放な娘であって、これを気に入った谷崎は、千代母子を実家に預けてせいと同棲、せいを思い通りの娘に育てようと、葉山三千子として女優デビューさせたりした。谷崎中期の問題作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミは、このせいをモデルにしたものとされる。

 一方、佐藤春夫は谷崎より六歳年少で、文壇デビューを支援してくれた先輩として、小田原に住む谷崎のもとに親しく通う間柄であった。そんな中で、谷崎の不当な扱いに悩む千代の相談に乗ったりしているうちに、佐藤の千代への同情が愛に変わっていったとされる。ただし谷崎の方では、せいとの結婚を考えて、それを意図的に仕組んでいたふしもある。

 谷崎は千代と鮎子の面倒を佐藤に押し付け、自身はせいに求婚するも「いやぁよ」の一言で拒絶されると、千代との生活によりを戻すことを選ぶ。裏切られ怒り心頭に達した佐藤は、谷崎に絶交宣言をする(小田原事件)。その時期の恋情を、佐藤春夫はいささかセンチメンタルに絶唱する、「さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか・・・」
 大正12年関東大震災が起きると、谷崎は京都・神戸といった関西に拠点を移す。やがて、書生風に谷崎家に居候していた和田という男と、千代夫人の関係が出来ると、谷崎は千代夫人と和田を一緒にさせようとも考えたが、すでに和解していた佐藤春夫は、若い和田との将来に懸念を抱き、結局和田は立ち去った。この間の経緯は『蓼食ふ蟲』として作品化されている。

 そしてやっと冒頭の「細君譲渡事件」に至る。三者満足の結果で他人がとやかく言うことでもないが、事情を知らない世間一般にはとんでもない事だと映ったに違いない。最初の試みから15年、円満離婚に至るまでの谷崎は、対外的には「夫としての立場」を保ち続けたという。

 翌1931年(昭和6年)、谷崎は古川丁未子と結婚するが、この時すでに根津(旧姓森田)松子と知り合っており、兵庫の根津家の隣に転居すると同時に丁未子と別居、やがて1935年(昭和10年)両人ともに離婚が成立すると、谷崎潤一郎と森田松子は無事結婚に至る。

 ほとんど気が遠くなるような経緯を経て、谷崎は終生の伴侶を得ると、松子の実家、船場商家の四姉妹のあでやかな社交をモデルに『細雪(ささめゆき)』を書き上げる。発表の場さえ期待できない戦時中にも、ランプの灯を頼りに黙々と書き続けたという。

 密かな女性遍歴がありながらそれを作品に反映させられなかった芥川龍之介、愛人から小説の素材を得るか心中の伴侶にしかできなかった太宰治、これらに比して「小男、醜男、小心、変態」の谷崎が、接した女性を肥しに次々と名作をものにし、艶福家、美食家、文豪として終生を全うしたこの摩訶不思議を見よ!(笑)

Ⅰ【文学コラム】29.高野悦子『二十歳の原点』

【文学コラム】29.高野悦子『二十歳の原点』


 NHK「かんさい熱視線」(2017/2/10)で、高野悦子『二十歳の原点』が取り上げられた。50年近くたった今でも、読まれているというのが驚きだ。

 半世紀近く前、学園紛争や反体制活動の狭間で、社会活動と個人の恋愛などの葛藤に悩み自殺した女子大生の日記。というと、いまや大時代的な過去の遺物になりつつある。番組では、それから現代の若者との接点を見出そうという編集方針でドキュメントされていたようだ。

 私自身、この『二十歳の原点』を読んでいないし、出版そのものをかなり後日になって知った。ただ、同年代で同じような学生生活を送り、そして同時期に京都の街中を徘徊していたという縁から、多少当時の状況を探ってみたことがある。

 高野悦子が『二十歳の原点』の基になる日記を記し、その6月に鉄道自殺した1969年(S44)という年は、激しい学園紛争の後遺症で、あの東京大学の入試が出来なかった年だというだけでも、その様子がうかがえる。いまや風化しつつあるこの当時の状況を、高野の最後の半年の動向を中心に振り返ってみる。

 この年の1月東大キャンパスに機動隊が導入され、全共闘系学生がバリケード封鎖中の安田講堂が解放された。以後、関東の各大学では次々と機動隊導入による封鎖解除が行われ、関東での大学紛争は沈静の動きを見せる。

 一方、関西では、関東より一年ほど遅れて大学紛争の時期がやってくる。高野が文学部史学科2年生として在学した立命館大学では、他の関西の大学よりいち早く、2月に早々と機動隊の導入が行われた。これは立命館が置かれていた、活動家学生の勢力関係の影響も大きかった。

 立命館では民主青年同盟(民青/日本共産党の青年組織/代々木系)が学友会(大学自治会)を支配しており、他大学に比べてその勢力が圧倒的に強かったし、教職員にも共産党支持者が多かった。それに対抗して反民青系全共闘が結成され、立命館広小路キャンパスを占拠して封鎖した。入試を目前にした大学側は、右翼系学生などを動員して、封鎖解除を目指し、学友会を支配する民青系学生も、自力でバリケードを撤去しようとして衝突した。

 結果的に、大学側は機動隊導入を要請し、まもなく封鎖は解除された。関西の著名大学の中では、いち早く機動隊を導入したのが立命館で、このような力関係が、機動隊の導入を安易にしたと思われる。今では信じられないだろうが、当時は「大学の自治」が金科玉条であり、官憲がキャンパスに入ることなど考えられなかった。それが、東大安田講堂攻防で導入されてからは、もはや聖域でなくなったと言うわけであった。

 この時期、高野悦子は反代々木系全共闘のシンパ(同調支援する一般学生)として集会などに参加していたもようである。やがて、機動隊による封鎖解除などを見るにつけて、活動にのめり込んで行き、中核派など過激派セクト(全共闘に集っているが、それぞれ主張が異なる各派)のデモなどにも参加するようになる。

 私は一年浪人して1968年4月、神戸の大学に入学したが、夏休みに実家に戻ってぶらぶらしているうちに、二度目になる鬱病を発症した。神戸の下宿も引き払い、秋の学期は始まってからも実家で過ごしながら、やっと鬱を脱して登校し出したころ、12月に全学封鎖となった。以来、1969年を通じて、京都の街で、高校時代の友達と交友しながら過ごす。

 高野悦子とは同じ年齢であるが、一浪した分、大学生としては一年下級であった。高野が京都の街での出来事を記した日記の、1969年の最後の半年は、同じように京都の街を徘徊していたわけである。以下の記述は、『二十歳の日記』の足跡をたどり、関係者にもインタビューして詳細に記述された、下記のWEBに基づくことになる。

『高野悦子「二十歳の原点」案内』
 1969年2月1日の日記に、ジャズ喫茶「しぁんくれーる」で過ごしたという記述がある。ここは広小路キャンパスに近い河原町荒神口角にあり、私も何度か通ったことがある。一階がクラシック、二階がジャズのレコードを鳴らしていた。「明るい田舎」という意味のフランス語と「思案に暮れる」という語呂合わせの店名が、微妙な若者の心理に受け入れられたのかもしれない。

*この年の10月、私は、関係がうまくいっていなかった彼女とシャンクレで待ち合わせをした記憶がある。結局彼女は現れず、それっきりとなったw

 3月になると「京都国際ホテルにウエイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界を知った。」と書かれた。親の仕送りから自立をしようとアルバイトを始めたようだが、このホテルのバイト経験が、のちに高野悦子に恋愛問題の波紋を引き起こす。高野は栃木県の田舎町で、栃木県庁勤務の地方官僚の娘として生まれ育った。

 大学で京都に出て、都会生活を満喫する生活を始めたのだろう。芯はしっかりしているが、地味でおとなしい性格で、いささかウブな彼女にとって、東京ではなくて京都というこじんまりした都会は、むしろ向いていたかもしれない。酒を一杯飲んで真っ赤になり、タバコを一本吸ってくらくらするなど、いかにも背伸びして大人経験をしようとする、初心な記述が散見される。同い年ながら、すでにヘビースモーカーでハードドランカーだった私とは、かなり違う初々しさが感じられる。田舎育ちの良家の娘さん、といった感じか。

 以下、彼女が大学生活を満喫し、せっせと通った喫茶店・洋酒喫茶などを羅列してみる。まず洋酒喫茶「ニューコンパ」に「白夜」、若い学生カップルがちょいと洋酒カクテルを呑む、そういった健全な風俗を演出したのがコンパ・チェーンで、各地で展開された。とりあえずボラれる心配もなく行ってみるというのが洋酒喫茶であった。

 喫茶店では、「六曜社」に「リンデン」、さらには「フランセ」というのもあった。六曜社は、狭い店内に長椅子の席を中心に、押し詰めて客が同席するというのが売りであった。どの店も、みんな学生にとっては有名店で、口コミで聞いて行ってみるというパターンだった。おかしく思えてくるぐらいだが、これらのすべて、私もよく知っている。私自身、神戸で同じように有名各店を渡り歩いたもので、彼女の学生生活が手に取るように分かる。

 このように楽しげな学生生活を始めながら、やがて学生運動に関わるとともに、一方でバイト先での淡い恋愛経験と失恋。このような挫折が、彼女を自殺へと追いやったと考えても間違いはないだろう。6月24日午前2時ころ、高野悦子は下宿を「チョット外出します」と声をかけて出た。下宿のすぐ近くを国鉄山陰線(当時非電化単線)が走っており、高野は踏切から線路内に入り、西に向けて歩いた。そして西から京都駅方面に向かう貨物列車に轢かれて亡くなったとされる。

 当時の国鉄山陰線(現JR嵯峨野線)は本線とはいえ、きわめてローカルな路線で、京都駅を発して嵯峨野を経由、山陰地方に向う。実は、私事ではあるが、この10年余りのちに、私の一歳年長の義兄が、この近くの線路上で鉄道事故死している。クリスマスイブの夜、仕事仲間と酒を飲んで別れた後、線路上に入り込んで轢かれたという。酔っぱらったせいか自殺なのかは、不明であった。

 数日後、現場に花を手向けに行った。現在は複線電化され高架上を走っているが、その時はまだ高野の事故現場と同じく単線線路だった。事故跡は係員によってきれいに整備され新しい砂利がまかれていたが、枕木の端に小さな肉片が残ってこびりついているのを見つけた。同行した実の姉妹には見せないように、そっと足で肉片を砂利の下に隠した。鉄道自殺などするもんではない、と思った。

なお、この時期の私自身の状況は、以前にブログに記した。参考までにリンクしておく。

Ⅰ【文学コラム】28.月やあらぬ・・・

【文学コラム】28.月やあらぬ・・・


 伊勢物語には、挿入歌として次の歌がある。

「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして」

 これは在原業平に擬せられた主人公が、想い続けた高貴な身分の女性と無理やり引き離されて、居なくなってしまった侘しい心を、月に託して歌ったものとされる。

 昔から様々な情緒を、月に託して語られることが多い。中でも、満月以降、徐々に欠けていく「下弦の月」には、なかなか風流な呼び名がついている。

 15日目=十五夜・満月・望月(もちづき)
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の・・・」と藤原道長がうたったとされるが、これは時の権力者のおごりが目だってスノビッシュで風情がない。満月自体が満ち足りすぎていて、むしろ恐怖感を抱かせるので、西洋では狼男が出現したりする。

 16日目=十六夜(いざよい)
日没と同時に昇る満月よりは、少し遅れて「いざよい=ためらい」がちに出てくるからだそうだが、「十六夜日記」などがあるように、古代の人はその奥ゆかしさを愛でたのかもしれない。

 以降、17日目= 立待月(たちまちづき)、18日目=居待月(いまちづき)、19日目=寝待月(ねまちづき)と続く。それぞれ、月の出るのを、立って待つ、座って待つ、横になって待つという時間を指している。月を待つことになってるが、それを恋人を待つ気持と考えれば、そのまま和歌になる。

 20日目=更待月(ふけまちづき)
文字どおり夜更けまで待つわけだが、実際には今の午后10時ごろらしく、昔の人はきわめて早寝だったようだ。

 23日目=下弦の月(かげんのつき)
ちょうど左半分が残った月で、見え出すのはまさに深夜。上弦、下弦というのは、月の形を弓に見たてたからである。

 26日目=有明の月(ありあけのつき)
明け方になってやっと昇ってくるので、月が有りながら夜が明けるところから。いにしえの恋人たちが「後朝(きぬぎぬ)の別れ」をする時刻である。なんとなくこころ残りな気もちを抱きながら、互いの衣(きぬ)の擦れ合うカサコソという音を惜しむ(笑)

 西洋にはこんな風流な呼び名はないだろう。せいぜい、サロメがヘソ踊りしたり狼男が叫ぶシーンぐらいか。

 上弦の月には、あまり呼び名が付いていない。日が暮れた瞬間に西の空に見えてきたりするから、東の空から上ってくるのをまだかなと待つ時間がないので、情緒を感じる時間の経過が無いせいかと思われる。だから日が暮れると西の空に見えてきて、すぐに沈んでゆく三日月を、浴衣姿で眺めるとかぐらいしか話題にならない。

 そのほかに、上弦で名前がついているのが「十三夜月」。これは十五日の満月の二日前で、満月には少し足りない月だが、場合によっては満月より美しいともいわれる。秋の月見には、十三夜と十五夜と、二度見るという風習がある。一方だけだと「片見月」といって縁起がよくないとされるが、これは遊郭で月見の宴を催して、旦那衆を二度登楼させるという、商魂が作り出した風習だともいわれる。

 樋口一葉に「十三夜」という短編がある。官吏に嫁いだお関だが、DVにあって実家に逃げ帰ったところ、メンツを重んじる父親に追い返される。いやいやながら婚家に帰る道で拾った人力車の車夫は、かつてのお関の幼馴染の録之助だった。互いに淡い恋心を抱いていた2人だったが、お関が他家に嫁がされてしまい、自暴自棄になった録之助は車夫にまで堕ちぶれていたという話だ。十五夜に少し足りない十三夜月に、一葉は古い世界に生きる女の、満ち足りなさを託したのかもしれない。

(追補)
「中秋の名月に寄す」(2017-10-04)

「名月も スマホで撮れば こんなもん」(笑)

 今夜が中秋の名月だというので、いちおう夜空を見上げて写真を撮ってみたが、これじゃいかんと思って、いくつか画像を探してみた。

「両方に ひげのあるなり 猫の恋」 小西来山

 「猫の恋」はれっきとした春の季語で、漱石は歳時記でこの句を見つけて、ひとり笑いころげていたという。しかし、これは中秋の名月とは関係ない。

 印象的な月のイメージといえば、映画『E.T.』の月面にかかる空飛ぶ自転車の陰。閑話休題。

 旧暦(太陰暦)で8月15日の月を「中秋の名月」と呼ぶらしい。今年(2017年)は、本日10月4日がそれに当たる。しかし今夜の月は、十五夜(満月)ではなくて十三夜月だとのこと。つまり10月6日が、本来の満月になる。

 なぜそのような事になるかというと、よく分からないが、月の公転が楕円軌道になっているからだということだ。まあ、そんなこと分からなくても、兎に角、月見団子でも食って月を眺めればいい。なぜ兎に角があるのか、それもほっておこう(笑)
か。

「いたづらに冴えざえと見ゆ下り月」  何爺

Ⅰ【文学コラム】27.瀬戸内寂聴入寂と墓碑銘もろもろ

【文学コラム】27.瀬戸内寂聴入寂と墓碑銘もろもろ


 瀬戸内寂聴さんの訃報が報じられた。作家瀬戸内晴美としては、特に思い入れがあるわけではないが、いろいろその名を耳にすることが多い人だった。合掌。

 追悼記事が多くみられるが、さっそく「自身の墓碑に刻む言葉は決めていた」(読売)と報じられた。「愛した・書いた・祈った」というのがそれだと言うことだ。どこかで聞いたことがあると思って確認したら、フランスのモンマルトルにあるスタンダールの墓碑銘に「書いた・愛した・生きた」と書かれているようだ。

 自分の生涯を、三つの行為でシンプルに記すのはカッコ良いなと思い、自分も考えてみたが「食った・寝た・遊んだ」ぐらいしか思いつかないし、糸井重里の「くうねるあそぶ」のパクリとも言われたくない。寂聴さんも文学者として、情熱的恋愛を主張したスタンダールの墓碑銘は知っていただろうし、あえて真似したわけでもあるまい。

 西欧では、ギリシャ語で墓碑銘を意味する「エピタフ”epitaph”」の語があり、墓碑銘を刻むという風習が古くからある。日本ではせいぜいが戒名を彫り込んだ墓碑で、辞世の句ないし歌をしたためるという風習はあっても、墓碑に刻むのは一般的ではない。

 西欧の墓碑銘は、必ずしも偉人の業績を書き記すという狙いではなく、一般的な故人を家族など縁者がしのぶ意味で刻まれることが多い。故人が生前に記したものから、後世の人が考えたものなど様々だが、その文面は含蓄のあるものが多い。>欧米の墓碑銘

+「けちん坊の墓」ここに眠る男は薬代のために小銭を出すのを渋り、そして命を失った。

 彼にもう一度生き返ってほしいとは思うが、そしたら彼は葬儀代がいくらかかるか心配することだろう。

 誰が考えたか知らないが、墓碑にこんなことを書かれたくなければ、自分で生前に墓碑銘ないしは辞世の句ぐらいは、したためておこう(笑)

Ⅰ【文学コラム】26.【アンナ・カレニナ】"Anna Karenina"

【文学コラム】26.【アンナ・カレニナ】"Anna Karenina"(1948/英)

ジュリアン・デュヴィヴィエ監督/トルストイ原作

 「幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」

 このような意味のフレーズをうろ覚えで記憶していたが、これがトルストイの『アンナ・カレーニナ』 の冒頭に出てくる言葉と知ったのは、比較的最近だ。

 トルストイの「アンナ・カレーニナ」はずっと気にはなっていたが、実は原作を読んでいない。高校生の頃、河出書房版「世界文学全集」というのが実家にあって、『赤と黒(スタンダール)』『風と共に去りぬ(マーガレット・ミッチェル)』『カラマーゾフの兄弟(ドストエフスキー)』などは面白く読んだのだが、『戦争と平和(トルストイ)』と『誰がために鐘は鳴る(ヘミングウェー)』は途中で挫折した。

 「戦争と平和」はアウステルリッツ三帝会戦のあたりまで読んで、退屈して読むのをやめた。70年前後の当時、ソ連が国力をあげて「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」の超大作映画を公開し、日本でも俳優座が河内桃子主演で「アンナ・カレーニナ」を上演するなど、かなりの話題になっていたが、結局アンナ・カレーニナを読むことはなかった。

 今回たまたま、ジュュリアン・デュヴィヴィエ監督・ヴィヴィアン・リー主演の「アンナ・カレニナ」(1948/英)を観ることになった。1948年と言えば自分の生まれた年、70年以上前の作品だ。オーソドックスなモノクロ画面で、ストーリーは分かりやすく展開されるので退屈することはなかった。

 デュヴィヴィエ監督は戦後日本で、「巴里の空の下セーヌは流れる」などで好評を博したフランスの監督で、この分かりやすさがその理由なのかも知れない。長編の原作を一時間半あまりの映画にまとめるために、登場人物はアンナを除いて、簡略に類型化されている。

 アンナの夫で高級官僚のアレクセイ・カレーニンは、政府の業務に熱心で世間体を気にする典型的俗物。若い貴族将校で社交界の花形ヴロンスキーは、アンナを魅了して駆け落ちするがその愛を貫けない。映画では少ししか登場しないが、実直真面目な農業主リョーヴィンは、アンナの義妹キティと平和な家庭を築きロシアの善意の体現者とされる。

 「平和はどれも同じで退屈だか、戦争はそれぞれに刺激的である」という風に、冒頭のフレーズを変換して記憶していた時期があった。それが「戦争と平和」に出てきたものと思い込んでいたが、違っていたようだ。

 「平和と幸福」「戦争と不幸」を同じレベルで対比するわけにはいかないが、トルストイはそれらを「善と悪」の問題として提示する傾向にあると思える。映画ではほぼ略されているが、原作ではアンナとヴロンスキーの恋愛と同等に、リョーヴィンとキティの築き上げる平穏な家庭の愛が対比される。

 そこで冒頭の「幸福な家庭はどれも似たようなもの」というフレーズが浮かんでくる。生活における「善と悪」の問題は、トルストイが生涯格闘した主題だろうが、もちろんトルストイは結論を提示しない。しかし「平和で幸福な家庭」は、どう見ても小説のテーマには向かないし、退屈に感じてしまうのであった。

 
 ヒロインを演じたヴィヴィアン・リーは、1939年『風と共に去りぬ』で華々しくデビューして10年余り、三十代半ばで最も脂ののりきった時期であり、その美貌も際立っていたが、鼻っ柱の強いスカーレット・オハラにはピッタリでも、アンナ・カレーニナの悲劇的な結末にはそぐわない気がした。

 その後の1951年の『欲望という名の電車』では、ヴィヴィアン・リーは南部の名家に生まれながら、落ちぶれて妹のアパートに逃げ込む未亡人ブランチ・デュボワを演じ、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞する。容色の衰えも抱え込みながら気位の強さだけは持ち続ける演技は際立っていたが、私的には双極性障害(当時は躁鬱病)に悩むぎりぎりの演技だったという。

Ⅰ【文学コラム】25.『ペスト』アルベール・カミュ

【文学コラム】25.『ペスト』アルベール・カミュ(新潮文庫/Kindle版)

2020.4.1記

 初めて電子版で書籍を読んだ。小説も読まなくなって何年にもなるが、さらにモニター画面で読むと、かつての読書という感じとは異なる。とりあえずダウンロードして読み始めたが、どれだけボリュームがあるかもわからないので、かつて読んだ『異邦人』と比べたら、同じ文庫版で3倍以上のページがあるようだ。とにかく、ざっと読み終えたが、現在、新型コロナのパンデミックが進行中で、思い付きのコメントなどしづらいところがある。

 ペストは、歴史上で何度もパンデミックを引き起こしている。なかでも14世紀なかば、アジアからヨーロッパへ伝播したペストは、世界規模のパンデミックとなった。全世界でおよそ8500万人、当時の中世ヨーロッパでは、人口の3分の1から3分の2に当たる約2000万から3000万人が死亡し、「黒死病"Black Death"」として恐れられた。

 人口が壊滅的に減少したヨーロッパでは、中世の社会構造までもが破壊され、それがルネサンスのきっかけになったとも言われる。ルネサンス文学の代表の一つボッカッチョ『デカメロン”Decameron”』は、ギリシャ語の「10日"deka hemerai" に由来して『十日物語』と訳されるように、大流行したペストから逃れるためフィレンツェ郊外に引きこもった男女10人が、一日ごとに退屈しのぎの話をするという構成で書かれている。

 小説『ペスト』の作者アルベール・カミュは、フランス領時代の北アフリカ・アルジェリアに生まれ育ち、第二次大戦中に『異邦人』を書いて一躍人気作家となった。1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『ペスト』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。

 不条理の作家としてのカミュは、『異邦人』でムルソーという人物を作り出し、個人における不条理を表現した。そして大著『ペスト』においては、ペスト大流行という社会的不条理と対峙する市民をリアルに描き出す。

 このようなコントロールできない不条理は、「ペスト」に閉じ込められた人々の思考や行動を通して描かれるが、直前に終わったところの戦争の記憶も大きく反映されている。このようなコントロールできない不条理のもとで、閉塞した閉鎖空間での人々の行動様式は、現行の新型コロナウィルスでロックダウンされた武漢などの都市の市民の様子と重なってくる。

 物語は、閉鎖された街で、語り手でもある市井の医師や、それぞれ立場状況の異なる市民たちが、自発的な自警的組織を作りペストの猛威に立ち向かう様子が展開される。しかしそれは、決して英雄的な華々しい行為としては描かれない。手の施しようもない不条理を前に、黙々と遺体の処理や感染者の隔離を行う医師たちは、ほとんど感情を失ったように運命に翻弄される。

<<もうこ の とき には 個人 の 運命 という もの は 存在 せ ず、 ただ ペスト という 集団 的 な 史実 と、 すべて の 者 が ともに し た さまざま の 感情 が ある ばかりで あっ た。>>カミュ. ペスト(新潮文庫)

<<われわれ の 町 では、 もう 誰一人、 大げさ な 感情 という もの を 感じ なく なっ た。 その かわり、 誰 も 彼 もが、 単調 な 感情 を 味わっ て い た。>>カミュ. ペスト(新潮文庫)

 当初は、閉鎖された街からいつ解放されるのかと希望を持っていた市民たちは、次々と死者が出る環境の中で、将来がまったく見通せなくなると「単調な感情」のみとなり、陰鬱な日々を生きるばかりとなる。このような社会的不条理と、どのように対峙し、かつてのような生き生きした精神をいかに維持してゆくかが、主題として浮かび上がる。

 カミュは『ペスト』においては、その解答は出さないが、エッセイ『反抗的人間』で一つの人間像を提示している。これは直接的にはソ連などの左翼全体主義を批判して書かれたものだが、人間存在の不条理性に対する反抗から集団的な反抗の思想へと、思想を展開させたものでもある。

 なお、今回の感染症に絡めて『ペスト』を取り上げた文章があったので、参考までにリンクしておく。
>「新型コロナの予言に満ちた小説『ペスト』が示す感染症の終わり」坂口孝則
https://www.gentosha.jp/article/15125/