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XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】09.戦後昭和の音楽流行シーン(1)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】09.戦後昭和の音楽流行シーン(1)


 戦後昭和の時期の流行歌は、その時代の空気を大きく反映している。大きく3つのフェーズに分けて、その時代の変遷を振り返ってみよう。

1. 終戦直後〜1950年代
 敗戦直後の焼け野原から立ち上がろうとしてる人々に、ラジオから明るく軽快なリズムが流れ、明日への希望を抱かせる曲が鳴り響いた。

・「リンゴの唄 」(1945年/並木路子)
 戦後ヒット曲の第1号で、「並木路子」の明るい歌声は、敗戦に打ちひしがれた人々を元気づけた。戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年)で歌われた。

・「東京ブギウギ」(1947年/笠置シづ子)
 「ブギの女王」と呼ばれた「笠置シヅ子」よって、爆発的なヒットをもたらされた。明るく歌って踊れる笠置シヅ子は、戦中は演技を制限されたが、終戦によって解き放たれた大スターであった。

・「青い山脈」(1949年/藤山一郎/奈良光枝)
 石坂洋次郎作の青春小説が原作で、1949(s24)年に原節子主演の映画「青い山脈(映画)」が製作され、同時に発表された同名の主題歌(西條八十作詞/服部良一作曲)とともに大ヒットとなった。新しい時代の幕開けを象徴する、軽快で爽やかな青春賛歌であった。

・「君の名は」(1953年/織井茂子)
 NHKのラジオ連続ドラマが社会現象になり、放送時間になると銭湯の女湯が空になるという伝説が生まれた。冒頭に「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」とのセリフが入り、このテーマ曲が流れる。

 1953年には松竹で、岸恵子と佐田啓二の共演で映画化されると大ヒット、「すれちがい」「真知子巻き」などの流行語を生んだ。脚本、小説、作詞のすべてを「菊田一夫」が手がけた。作曲は「古関裕而」で、放送版の歌は高柳二葉だが、映画とレコードは「織井茂子」によって吹き込まれた。

 ほかにも戦前から活躍していた歌手が多く、岡晴夫「憧れのハワイ航路」、近江俊郎「湯の町エレジー」、藤山一郎「長崎の鐘」、田端義夫「島育ち」、菅原都々子「月がとっても青いから」、菊池章子「星の流れに」などのヒット曲が生まれた。

・「三人娘」
 三人娘は、若い女性歌手の「美空ひばり」「江利チエミ」「雪村いづみ」の人(3人とも1937年生まれ)を指し、のちにこの3人にあやかって何組も登場したので「元祖三人娘」と呼ばれることがある。
 「元祖三人娘」は抜群の歌唱力と個性を持ち、1950年代の日本歌謡界・映画界で絶大な人気を誇って。1955年の映画「ジャンケン娘」などの共演作で一世を風靡し、現代のアイドルグループの先駆け的な存在となった。

「美空 ひばり」… 「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」
「江利 チエミ」… 「テネシー・ワルツ」「酒場にて」
「雪村 いづみ」… 「想いでのワルツ」「マンボ・イタリアノ」
https://www.youtube.com/watch?v=MCeevNO2DDQ&list=RDMCeevNO2DDQ&start_radio=1

2. 1960年代
 高度経済成長とテレビビジョンの普及で、テレビが茶の間の主役となり、洋楽の影響を受けた新しいスタイルの楽曲が登場した。テレビの浸透とともに、テレビ歌謡・青春歌謡が黄金期を迎えた。

・「上を向いて歩こう」(1961年/坂本九)
 「SUKIYAKI」としてアメリカでリリースされ、全米ビルボード1位を獲得し、世界に知れわたった。

・「恋のバカンス」(1963年/ザ・ピーナッツ)
 ジャズの4ビートを生かした、歌謡曲としてはかつてなかったほどのスウィング感に満ちあふれた楽曲。「バカンス (vacances)」というフランス語が、日本で流行語となった。

・「こんにちは赤ちゃん」(1963年/梓みちよ)
 高度成長期の家庭の幸せを象徴するような一曲。NHKテレビの人気番組『夢であいましょう』の今月の歌コーナーにて紹介され、梓みちよはこの曲で第5回日本レコード大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。


・「いつでも夢を」(1962年/吉永小百合 橋幸夫)
 橋幸夫と吉永小百合のデュエットで、第4回日本レコード大賞受賞曲。翌年に橋と吉永の主演によるドラマ映画『いつでも夢を』が公開され、ヒット曲からの映画化作品となった。

・「高校三年生」(1963/舟木一夫)
 舟木一夫のデビュー曲で、舟木の代表曲となった。「青春歌謡」ブームを牽引した橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の3人は、学園ものや叙情的な曲でアイドル的な人気を誇り、「青春歌謡  御三家」と呼ばれた。

・「君といつまでも(1965年/加山雄三)」「お嫁においで(1966年)」
 若大将シリーズは、加山雄三主演青春映画の大ヒットシリーズとなった。「若大将」は加山の愛称ともなり、上記の曲は加山主演青春映画の中で歌われた。

 60年代後半には、ベンチャーズやビートルズの来日があり、エレキギターブームやロックバンドブームが起った。それらの影響下で、素人グループが雨後の筍のように登場して、ジャズ喫茶・ゴーゴー喫茶などを中心に活動した。これらは「グループ・サウンズ(GS)」と呼ばれ、やがてTVやレコードなどの商業ベースに取り込まれていった。

 1967(s42)年から1969(s44)年)にかけての最盛期には、300を超えるグループがあったといわれる。ブームは短期に収束したが、解散後のメンバーたちは様々な音楽場面で活躍し、以降の音楽シーンに大きな影響を及ぼしている。

・タイガース(沢田研二)
・スパイダース(堺正章、井上順、かまやつひろし)
・テンプターズ(萩原健一)
・ワイルド・ワンズ(加山雄三のサポートも)
・ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

代表的な曲
「君だけに愛を」(ザ・タイガース)

「バン・バン・バン」(ザ・スパイダース)

「想い出の渚」(ザ・ワイルド・ワンズ)

「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)

「ブルー・シャトウ 」(ジャッキー吉川とブルー・コメッツ)

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】08.テレビの黄金期と消費生活への反映

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】08.テレビの黄金期と消費生活への反映


 テレビジョンのカラー放送は1960(s35)年に始まったが、1964(s39)年の東京五輪を契機に本格化し、1970(s45)年大阪万博の前後から爆発的に普及した。1973(s48)年にカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回り、1970年代後半にはほぼ全家庭に普及するようになった。

 1970年代には、カラーテレビの普及で番組も大きく変化し、バラエティ豊かな番組構成へ移行し、家族団らんの「お茶の間テレビ」文化が一般化した。映像が鮮やかになり、バラエティやドラマの表現力が向上、ニュースやスポーツ中継の臨場感が増し、視聴時間は1975年頃にピークを迎えて、家族で夕食後や土曜夜に番組を楽しむ習慣が定着していった。 

 学生運動や政治闘争が沈静化する中、番組はアイドル・コント・ホームドラマ中心の明るい娯楽へシフト。「シラケ世代」といわれた若者層にも響く、日常や人情を描く作品が増えた。10代のタレントがテレビで活躍する場が拡大し、アイドルブームが本格化する。

*ホームドラマ・家族もの
 TBSの『ありがとう』(平岩弓枝脚本/石井ふく子プロデュース)は、ドラマ史上最高視聴率50%を越え「お化け番組」と呼ばれた。『時間ですよ』(久世光彦演出)、『寺内貫太郎一家』(向田邦子脚本)など、下町人情やギャグを交えた温かい家族像が人気で、さらには山田太一・倉本聰・向田邦子らの脚本で、現実の家族の暗部や心の空洞を描く深みのある作品(例:『岸辺のアルバム』1977年)へ進化してゆき、ドラマの黄金期を形成した。 

*バラエティ・コント番組
 公開収録の笑いが全盛で、TBS『8時だョ!全員集合』(ザ・ドリフターズ)、フジ『コント55号の世界は笑う』、そして萩本欽一の『欽ちゃんのドンとやってみよう!』は素人を起用した参加型で大ヒット。関西発の視聴者参加番組(『プロポーズ大作戦』など)も全国区になった。 

*アイドル・音楽番組
 『スター誕生!』は萩本欽一司会の公開バラエティで、歌とコントを披露する場が豊富で、子どもたちが真似する文化を生みだした。新人オーディションコーナーでは、山口百恵、桜田淳子、森昌子(花の中三トリオ)らアイドルを輩出する。

*子ども向け・特撮/アニメ
 『仮面ライダー』シリーズ、『ウルトラマン』、『ドラえもん』など特撮・アニメが家族視聴の中心。ロボットものや魔法少女ものも活況。


*報道・その他
 あさま山荘事件(1972年)のライブ中継で視聴率89.7%を記録するなど、リアルタイム報道の影響力が拡大。時代劇のニューウェーブやスポーツ中継も充実。

 1970年代はテレビが「情報と娯楽を同時に届ける」メディアとして国民生活を変えた時期で、政治色が薄れ、明るい家庭向けコンテンツが増えた一方で、後半には家族のリアルな葛藤を描く作品も登場し、視聴者の意識を反映。視聴率競争が激しく、「お化け番組」が次々生まれ、「家族で共有するテレビ」のピークで、テレビの黄金時代を形成した。 


 1970年代のテレビCMは、テレビの家庭普及とカラーブームに乗り、キャッチーなコピー・有名タレント起用・印象的な音楽が特徴で、社会現象になるほど話題となった。視聴率の高い番組と連動し、家族で共有される文化が強かった時代である。

話題・流行したCM
*「モーレツからビューティフルへ」(富士ゼロックス)
シンプルで印象的なコピーが流行語に。仕事の激しさから美しさへのシフトを表現し、企業イメージ向上に大きく貢献しました。

*「男は黙って」(サッポロビール)
三船敏郎が出演。男らしさを象徴する力強い演出で、ビールCMの定番スタイルを確立。1970年代の男性像を反映した話題作。 

*マンダム「う〜ん、マンダム」
チャールズ・ブロンソン出演。海外セレブを起用した大胆な演出と低音のセリフが男性向けCMの象徴となり、強烈なインパクトを残しました。

*「いい日旅立ち」キャンペーン(国鉄 現JR)
心温まる映像と主題歌が融合し、旅行ブームを後押し。

*「お正月を写そう」(フジカラー)
家族の思い出を呼び起こす情感豊かな作品。

 1970年代のCMは、経済成長期の明るさや家族の日常を反映して、タレント起用(アイドル・海外スター)が活発化し、広告賞で高評価の作品が多数生まれた。政治色が薄れ、娯楽性が高いものが人気を集め、テレビ番組と同じく「お茶の間」で繰り返し話題になった。 

Ⅰ【文学コラム】37. 『小野小町と小町伝説について』(文学部レポート)

Ⅰ【文学コラム】37. 『小野小町と小町伝説について』(文学部レポート)

 

『小野小町と小町伝説について』(S47年度前期、国文学特殊講義レポート/23歳)

 なぜ小野小町を取り上げるか、ということから始めようと思う。


小野小町という名を聞いて、まず私の頭に浮ぶのは絶世の美女というイメージである。何々小町と言えば美女の代名詞となっており、いつの世の男性にとっても憧れの対象となった女人像であろう。そしてこの理想の女性像は、決して良妻賢母とか貞女の鏡といったもう一方の理想的女性像とは結びつかない。その結びつかないところが魅力の所以である、と私には思われる。小野小町という名は、世慣れた男をニタリと喜ばせ、純情な青年の心をときめかせるような魅力をもっているのである。そして、私の中のミーハー精神もまたその魅力に感応した、というわけだ。これが、ここで小野小町について愚考してみようとする動機である。

 「をのゝこまちは、いにしへの衣通姫[そとおりひめ]の流なり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり。」

 これは古今集仮名序に紀貫之が記している有名な一節である。古今集撰者としての貫之は、ここではもちろん小町の歌そのものについて述べているのであって、必ずしも容色について云々しているわけではあるまい。しかし素直な気持で読んでみると、どうしても小町は美女でなければならないというような響きが感じ取れないだろうか。「衣通姫」というのは、躯[からだ]の色が衣を通して光り輝くほど美しかったのでその名が付いたと言われているそうだから、この当時の美女の代名詞だったと解することができる。その衣通姫にたとえられる小野小町が、実のところ醜女であったということになれば、小町の歌そのものがグロテスクな様相を帯びてきて具合の悪いことになるのではないだろうか。また、「いはゞよきをうなの、なやめる所あるにゝたり」とある「よきをうな」とは、「美き女」という字を充てるのが適当な気がする。やはり小野小町という女性は、「美[よ]き女[をうな]」でなくてはいけないのである。

 一方、小町の歌才については、貫之が六歌仙の一人に挙げているという事実だけで十分であろう。したがって、「才色兼備の女人」という小町のイメージが成立していたと推定してよいと思われる。多くの小町伝説が後世に語られるようになったその原動力を、私はこのイメージに求めたいと思う。それはまた、初めに書いた小野小町という名の持つ魅力として、現代の我々の空想力を刺激するのである。

 種々の小町伝説が形成される原動力は想定された。次に問題となるのは、その原動力が展開していく方向を規定したものは何かということである。結論的に言うと、その方向付けに重要な作用をしたものとして、古今集その他に残されている小野小町自身の歌を挙げたい。要するに、才色兼備の女人というイメージを結んだ小野小町の魅力が原動力なり、彼女自身の歌がその展開を方向付けた、という乱暴な仮説を立ててみたわけである。

 以上によって、このあと私に残された仕事は明らかになってきた。巷間に残されている種々の小町伝説なるものを、何らかの形で歌人小野小町の歌と結びつけてみせるという仕事である。ところが遺憾ながら、私にはその能力もないし根気もない。したがって、以下の文章は実証的研究とは程遠い出鱈目な考察となってくることと思われるので、その点は予め御了承いただきたいものです。

 まず、小町の歌を手っ取り早く片づけてしまおう。と言っても、歌の出来栄えについては私に云々する資格がない。ここで問題とするのは、その内容についてである。さて、数少ない小町の歌を内容的に見ると、次のような三つの系統のものが見出せる。

(A)遂げられぬ想いを嘆く歌。
(B)我が身の容色の衰えを悔む歌。
(C)言い寄る男をうまく受け流す歌。

 分類Aの例。
うたたねに恋しき人をみてしより 夢てふものは頼みそめてき

 分類Bの例。
花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに

 分類Cの例としては、安倍清行とのやり取りを挙げておこう。
  あべのきよゆきの朝臣
つゝめども袖にたまらぬ白玉は 人をみぬめの涙なりけり
  返し 小町
おろかなる波だぞ袖に玉はなす 我はせきあへずたぎつ瀬なれば

 なお、この小町の返し歌については、抑制しえぬ激しい恋心を詠んだものとする説があるが、それではこのやり取りの妙味がなくなってしまう。ここはやはり、小町の機知が清行の戯れの求愛歌を、白々しい間の抜けたものにしてしまった、という所に解釈の焦点を置いておきたい。

 以上に例として挙げた三つの歌からだけでも、小町と言う女人像が朧げに浮び上がってくる。試みにそれを考えてみよう。

 何よりもまず、絶世の美女という但し書きがある。それだけでも、世の男性としては小町に対して好意的にならざるを得ない。花の色の衰えを悔むにしても、これが醜女であれば、何と浅ましい女だということになる。ところが絶世の美女ということになると発想の展開の仕方が、ぜんぜん異なってくる。容色だけにしか頼ることのできない女の性[さが]の哀しさ、という同情的な方向に考えが向いていくのである。

 男を突っぱねるにしても、そこに機知の閃[ひらめ]きがあるだけに、決して非情な女とは映らない。その突っぱね方で、多少の冷酷さを感じさせる程きっぱりした調子であるいことで、むしろ第三者的立場に在る男にとっては痛快であり、よりいっそう魅力をつのらせるものである。

 このような驕慢とも思える強さを示す女性が、いったん恋に身を置く立場に陥ると、夢をも頼みとするような弱々しい女に変貌する。この落差が、小町の読者たる男性諸氏を一挙に小町ファンに仕立て上げてしまう。少なくとも、多少ロマンティックな要素を持った男性であれば、まずはひとたまりもないであろう。あとは、各自の頭の中にある具体的な美女のイメージをそれに当てはめて、空想のおもむくままに楽しめばよいというわけである。

 いづれにしても、空想の展開するのに十分な条件は整ったことになる。かくして、様々な空想を経て種々の小町伝説が流布することになったとしても、そこに不思議はないであろう。

 今から、種々の小町伝説を取り上げて先に分類した歌と結びつける作業に移るわけであるか、残念なことに私の手元にはほとんど資料がない。たった一冊だけあることはあるのであるが、それが資料として利用するには甚だ心もとないものである。手の内を見せてしまうことになるが、ここでその唯一の資料、というよりも種本[たねほん]に近いものとして利用しようとする書物を紹介しておきます。

 吉行淳之介著『小野小町』がそれである。これは、著者自身「戯作」と称する作品で、週刊誌上に連載された小説である。小説である以上、それを資料として用いるということ自体に問題があるのであって、そこから生じる誤りの責任は当然私の方にある。しかしまあ、そんな堅いことを言っても仕方がないので、この小説で取り上げられている伝説を引用させていただきます。なお、この小説における著者の解釈はすこぶる興味深いので、この点に関しても大いに頼らさせていただくことになります。

 まず有名な、深草少将百夜通いの伝説を取り上げよう。言い寄る深草少将の心の誠を試みるため、小町が少将に百夜通いすることを課す、という噺である。この説話はかなりすんなりと、分類Cの系統の歌からくる小町につながる。この説話に於いては、小町は少将に惚れられた強い立場にあり、結局少将は百日目の晩に雪の中で倒れるという、悲劇とも喜劇ともつかない落ちになっている。

 ところで、前出の吉行氏の小説の中では、藻之瀬[ものせ]二郎説なるものが紹介されている。著者吉行氏が古本屋で見つけた『小野小町』という書物の著者が藻之瀬二郎であり、その書物からの引用という形で吉行氏の小説に書き込まれているのが藻之瀬説である。その藻之瀬説に於いては、小町と少将のやり取りが、全く別の方向へすこぶる面白く展開されているのであるが、長くなるのでここでは省略せざるをえない。なお、この藻之瀬二郎とその著書なるものは、小説の中では明言されていないが吉行氏自身のでっちあげではないか、と私見する次第である。

 次に取り上げるのは、いわゆる髑髏[どくろ]伝説なるものである。簡単に紹介すると、落魄窮死した小町の髑髏が行きすがりの旅人に語りかけ「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ 小野とはいはじ薄[すすき]生ひけり」という歌を詠む、といった筋書きである。誰のものとも判別できない髑髏の眼窩から薄が生い出ているという荒涼たる風景は、容色の衰えを悔む分類Bの系統の歌を延長した線上にあり、しかもその最極点に位置するものであろう。

 これに類似したもので落魄した小町の後日譚の系統の説話はかなり多くあるようである。なぜ絶世の美女であった小野小町が、このような老醜をさらす説話に登場しなくてはならなかったのか。これはかなり興味深い問題だと思われる。後世の仏教的無常観や儒教観が何らかの作用を及ぼした、ということは十分に考えられることである。しかしそれだけでは納得しきれないような要素が残るように思われる。私は次のように考えてみたい。

 小野小町は絶世の美女ということになっている。ありふれた平凡な男女にとっては、とうてい手の届かない位置にあるのである。そこで、これでは癪だから何とか自分たちのレベルにまで引きずり降ろしてやろう、いうことになる。つまり、「美人美人と言うけれど婆[ばばあ]になれば皆同じ」という糞リアリズム的発想へと行きつくのである。この発想が逆に働くと、最初から自分たちとは比較不可能な神様の位置にまつり上げてしまうことになる。その例が御伽草子に見られるようである。「小町草紙」という説話で、小町という色好みの遊女が実は如意輪観音の化身であった、という噺である。まるで古典落語の世界のような、荒唐無稽でユーモラスなこの噺は、私の好みに合いそうなので一度原文にあたってみたいと思っている。

 最後に、分類Aに属する歌、つまり遂げられぬ想いを嘆く歌に結びつく伝説を取り上げようと思うのであるが、なかなか適当なのが見当たらない。やむを得ず、鎖陰伝説なるものに登場願うことになった。これは伝説というより俗説と呼ぶのが適当なもので、噺の筋書きも何もありはしない。要するに、小町は鎖陰であったという俗説である。鎖陰とは吉行氏の説明を引用させてもらうと、「要するに男性と交わることが不可能な陰部構造」ということが分かればよろしいとのことである。ちなみに、糸を通す穴のあいていない針を小町針と呼ぶのは、この俗説に由来するらしい。

 想いが遂げられないで夢を頼みにしている歌など、フロイト流の分析でも用いれば何とか鎖陰伝説にこじつけられそうである。また、「想いが遂げられない」という意味を適当に解釈すれば、もっと直接的に結びついてしまう。しかしここで重要なのは、如何なる過程を経てこの俗説が形成されたのか、という問題である。この点については吉行氏の絶妙な解釈があり、私もその見解に賛成なのでここで簡単に紹介しておこう。

 小野小町は絶世の美女であり、また歌才にも秀でていた。いわば、当時における才色兼備の大スタアであったのである。となるとファン気質としては、特定の人物にスタアを独占させないためには、女性としての肝心な部分を抹消してしまえ、ということになる。こういうプロセスで、小町の躯から局部が消え失せた。(もちろん、人々の観念上に於いてである)以上が吉行氏の解釈である。このようにして形成された俗説は、小町自身が詠んだ歌とも微妙に結びつけられて流布されていったのである。

 いわゆる小町伝説として総称されているものは、必ずしも起源を歌人小野小町にもつものばかりではなく、全く異なった起源に発するものも多いということである。しかしながら、その区別が判然とせずに、小町伝説として小野小町に結びつけて伝えられてきたからには、やはりそれなりの結びつく要素があったからであろう。とすれば、その結びつきに視点をあてて、その糸をたぐってみるという作業にも、それなりの意味を与えることができる。そのような観点から、このレポートを書くに至った次第である。もっとも、かなりデタラメな作業ではありましたが……。

 なお、前記の書以外に、目崎得衛著『在原業平・小野小町』(筑摩書房刊・日本詩人選6)を参考にさせていただきました。

「千年前の女流詩人“小野小町”」
https://www.youtube.com/watch?v=G_EoYCxJwMY


XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】07.少年雑誌と漫画の世界

XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】07.少年雑誌と漫画の世界


 1888年に創刊の「少年園」が、日本初の総合的少年雑誌といわれているが、当初の雑誌は男女や年齢層を明確に区分していなかった。しかし、1914年に「大日本雄弁会(講談社の前身)」から「少年倶楽部」創刊されると、「怪人二十面相」などの小説、「のらくろ」や「冒険ダン吉」といった漫画を掲載し、飛行機などの紙製模型を付録にするなどして、男子の人気を得えて、少年雑誌の代表例となった。

 また、大日本雄弁会では、小学生から中学生を中心読者とした少年雑誌「少年倶楽部」、義務教育を終えた層向けの大衆雑誌「キング」と、年齢階層別の雑誌展開を進めていく。さらに、少女向けの「少女世界」が創刊されるなど、少女雑誌というジャンルが分離していった。

 第二次世界大戦後は、少年雑誌の漫画雑誌化が進み、ベビーブーム世代が就学するころには、ほぼマンガ誌と呼べる内容になっていった。そして、いくつもの「紙製付録」をつけて付録合戦の様相をしめした。さらに、人気漫画シリーズの「別冊付録」も登場して、付録が少年雑誌の間にはじけそうにはさまれた月刊漫画誌が、書店店頭にうず高く並んだ。

 1960年代になってテレビが普及する前には、少年少女月刊誌は、子どもたちにとって唯一のメディアであり、娯楽、遊びなどの情報すべてを提供していた。毎月の雑誌販売日ともなると、いちばんに書店に飛び込んで雑誌を買い、好みの連載漫画を真っ先に読むというあんばいで、厚紙と輪ゴムなどで作る組立て付録でさえ楽しみにした。

 漫画中心になっていたが、読み物も、SFや推理、冒険もの等の小説は、挿絵たっぷりの絵物語風でまだ残っていたし、兵器やメカの図解、スポーツ情報、一口知識や笑い話、世界の謎といった少年向けの情報も提供された。それらの情報が、子供たちの遊びの流行を作り出していた。

 当時のおもだった少年雑誌と、ヒットした漫画を挙げてみよう。

『少年画報』       「まぼろし探偵」(桑田次郎)・「赤胴鈴之助」(福井英一/武内つなよし)
『少年クラブ』   「月光仮面」(川内康範 作/桑田次郎 画)
『冒険王』            「アラーの使者」(川内康範 作/九里一平 画)
『少年』                「鉄腕アトム」(手塚治虫)・「鉄人28号」(横山光輝)
『ぼくら』            「七色仮面」(川内康範 作/一峰大二 画)・「少年ジェット」(武内つなよし)

 「まぽろし探偵」「月光仮面」「七色仮面」「少年ジェット」などは、テレビで実写ドラマ化され、人気の連続番組となった。「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などのロボットものは、実写ドラマには無理があり、のちにアニメ化されてから大人気となった。テレビ番組でのキャストには、少女時代の吉永小百合、藤田弓子、山東昭子などがいた。

 高度経済成長下の1960年代にはいると、テレビという新しい娯楽メディアが各家庭に入り込み、プラモデルや最新玩具が登場すると、流行が早くなるとともに、紙工作の組み立て付録も通用しなくなった。そして1959年には、「少年サンデー」(小学館)・「少年マガジン」(講談社)が発刊され、週刊漫画雑誌の世界に移っていった。

Ⅶ【サブカル関連コラム】16.【つげ義春の訃報】

Ⅶ【サブカル関連コラム】16.【つげ義春の訃報】


 つげ義春の訃報が伝えられた。 「ねじ式」「沼」「 紅い花」など芸術性の高い前衛漫画で知られ、国際的にも高く評価されていた「つげ義春」が、2026年3月3日、 誤嚥性肺炎のため88歳で死去したという。

 つげ 義春は1937(s12)年生まれで、18歳で「貸本雑誌」でデビューしたが、その後1967年に月刊漫画雑誌「ガロ」で「ねじ式」を発表、多くの読者・文化人に衝撃を与えた。私自身は「ガロ」のさほど熱心な読者ではなかったが、その評判は気になっていた。

 1960年前後は、「少年サンデー」「少年マガジン」といった少年向け週刊誌が発刊され、漫画誌の移行期であり、少年向けの漫画家が多く誕生した。一方で、テレビの誕生で紙芝居が廃れて、紙芝居画家の多くは「貸本漫画」に移行していて、「影」「街」などホラーやサスペンスの「劇画」が隆盛しつつあった。
 「ガロ」は1964年、貸本漫画の編集者 長井勝一と漫画家 白土三平により発刊された。白土のスケールの大きな作品「カムイ伝」を連載するのが、創刊の最大の目的だったが、同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。

 「ガロ」は、先見性と独自性で一時代を画し、それまで無かった個性的な漫画家たちが集い、それらの作風は「ガロ系」と呼ばれた。それまでの少年漫画と異なり、より高い年齢層の青少年に読まれて、新しい「青年漫画雑誌」というジャンルを切り開いた。

 当初の「ガロ」は、白土の「カムイ伝」と水木の「鬼太郎夜話」の2本柱で展開されたが、そこにつげ義春が登場すると、その幻想性、叙情性の強い哲学的作風により、さらに「ガロ」の世界を拡大した。

 つげ義春の漫画は、商業的な娯楽漫画とは一線を画し、暗い叙情、ユーモア、不安、疎外感を静かに描き、全共闘世代などにもガロは熱狂的に支持された。漫画史に画期をなし、寡作ながら作品の芸術性は国内外で高く評価されている。映画化や全集刊行も多数あり、近年は欧米での翻訳・再評価も進んでいるという。


つげ義春 代表作
『ねじ式』(1968年):夢のような超現実世界を舞台にした前衛的な短編。迷路のような不条理な物語で、漫画表現の革新として衝撃を与え、「つげブーム」を巻き起こした。シュルレアリスム的と評されることが多い。

『紅い花』(1967年):少女が大人になる瞬間を叙情的に描いた作品。夏の日の情感が美しい。

『沼』『李さん一家』『ゲンセンカン主人』『もっきり屋の少女』など:うらぶれた温泉や漁師町を舞台に、暗い情念や日常の不条理を織り交ぜた短編群。

『無能の人』(1980年代):主人公の「無能さ」や貧困・挫折を淡々と描いた私小説風連作。