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Ⅰ【文学コラム】30.谷崎潤一郎と阪神間モダニズム

【文学コラム】30.谷崎潤一郎と阪神間モダニズム


 1943年、月刊誌「中央公論」1月号と3月号に「細雪(ささめゆき)」の第1回と第2回が掲載された。谷崎は1941年に「谷崎潤一郎訳源氏物語(旧訳)」を完成させており、その優雅な源氏物語の世界の現代版とも言える「細雪」にとりかかった。大阪船場の旧家に生まれた妻松子の姉妹たちの生活をモデルに、軍国主義が深まる世相にもかかわらず、阪神間に住まう姉妹たちの家庭どうしの華やかな交友を描いた。

 小説には明示されていないが、描かれた世界は日中戦争勃発の前後から日米開戦の直前までの時期とされる。しかし発表の時にはすでに戦局が傾きつつあり、内容が時局にそぐわないと軍部から掲載を止められた。谷崎はそれでも執筆を続け、1944年7月には私家版の上巻を作り、友人知人に配ったりした。さらに中巻も完成したが出版できなかった。空襲を避け岡山の山間での疎開を経て、終戦後は京都の鴨川べりに住まいを移し、1948年にやっと下巻までを完成させる。『細雪 全巻』が中央公論社から刊行されたのは、その翌年1949年の末であった。

 東京で生まれ育った谷崎潤一郎は、1923年関東大震災の年、すでに所帯をもち横浜山手に居をかまえて、中堅作家として名をなしていた。震災前に結婚した最初の妻「石川千代」は谷崎の好みに合わなかったようで、その妹「小林せい子」を愛人にして、女優デビューさせたりしており、「痴人の愛」のナオミのモデルとされる。大震災では自宅が火災消失し、大震災の惨状をまのあたりにした生来の小心者谷崎は、関西に移住する。

 震災で阪神間に移住後、のちに「細雪」のモデルとなる「根津松子(旧姓森田松子)」と知り合うが、松子はすでに既婚者であった。一方で、谷崎に放置された状態の妻の千代は、谷崎の作家仲間であった佐藤春夫の同情をかい、やがて三者連名の挨拶状を知人に送り、谷崎は千代と離婚し、千代は佐藤と結婚するという「細君譲渡事件」として世間を賑わせる。そのあと谷崎は、その文名にひかれた古川丁未子(とみこ)と結婚するが、これも性癖が合わなかったもようで、のち離婚する。

 その間に松子も夫との間に離婚が成立し、松子と谷崎は芦屋で同居するようになる。谷崎は「盲目物語」「春琴抄」その他の女人崇拝の作品を書き、それらは松子を念頭に置いて書かれた。やがて松子と無事結婚した谷崎は、「松に倚(よ)る」という意味で「倚松庵(いしょうあん)」を名乗り、二人で住まった神戸市東灘区の住まいも「倚松庵」と呼ばれ、「細雪」が書かれた家として移設され保存されている。

 関西移住後、谷崎がおもに住まった阪神間には、芦屋市山手などを中心に、「阪神モダニズム」と呼ばれる近代的な住環境・芸術・文化・生活様式が出来上がりつつあった。しかも、大震災以降の復興しつつある関東と、震災で多くが移転して来た関西を中心に、「昭和モダン」と呼ばれる和洋折衷の近代市民文化が開花していた。そのような華やかな文化の息吹のもとで、没落しつつある旧家の生活・風習が重なり合って、陰影を漂わせ儚さを予感させる華やかな姉妹の生活が描かれる。これが「細雪」の世界であった。

(追補)
〇谷崎潤一郎『細雪』 嵯峨野・岡崎「平安神宮」
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 大沢の池の堤の上へもちょっと上って見て、大覚寺、清涼寺、天竜寺の門の前を通って、今年もまた渡月橋の袂へ来た。京洛の花時の人の出盛りに、一つの異風を添えるものは、濃い単色の朝鮮服を着た半島の婦人たちの群がきまって交っていることであるが、今年も渡月橋を渡ったあたりの水辺の花の蔭に、参々伍々うずくまって昼食をしたため、中には女だてらに酔って浮かれている者もあった。

 幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰を開いたが、今年は十三詣まいりで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ。そして再び渡月橋を渡り、天竜寺の北の竹藪中の径を、「悦ちゃん、雀すずめのお宿よ」などと云いながら、野の宮の方へ歩いたが、午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った。

 それからもう一度清涼寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三度渡月橋の北詰に来て一と休みした後、タキシーを拾って平安神宮に向った。

 あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―――海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、「あー」と、感歎の声を放った。
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 『細雪』は、大阪船場の旧家蒔岡(まきおか)家の4人姉妹、鶴子・幸子・雪子・妙子の繰り広げる物語。次女幸子は、谷崎の三度目の妻松子がモデルで、彼女から触発されて「細雪」を執筆した。大阪船場に育った四姉妹の間で、芦屋に居をかまえた幸子夫妻との行き来など、場面は阪神間を中心に展開されるが、引用部分は、毎年、桜の時期に訪れる京都が舞台となっている。

 東京下町に生まれ育ち、生粋の江戸っ子と呼んでもおかしくない谷崎潤一郎が、いくら関東大震災にビビったとはいえ、関西に移り住み、阪神間の文化にどっぷりと浸かって馴染んだのは不思議でもある。谷崎は、最初、京都に仮の居を定めたが、すぐに阪神間に転居する。おそらく谷崎には、京都の「伝統文化」というものには関心がなかった。引用部にあるように、谷崎にとって京都は、一年に一度花見などに行く場所なのであった。

 近年になって規定され出した言葉だが、「阪神間モダニズム」の最盛期が、まさに「細雪」に描かれた舞台であった。小林一三による阪急電車の阪神間山手沿線などに、風光明媚かつ快適な住環境の住宅地が供給され、そこに実業家や文化人などがモダンな邸宅を建設し、ゆとりのある趣味文化を形成した。

 阪神間モダニズムは、「ライフスタイルと都市文化」を示すものなのだが、具体的にはその時期の建築物が提示されやすい。野坂昭如『火垂るの墓』にも出てくる「御影公会堂」などもその一つだが、一方で、生活文化そのものは形がなくて示しにくい。「細雪」では、大阪船場の商人文化を継承維持しながら、それを阪神間モダニズムの中で具現したような日常生活が描かれていて、貴重な文献遺産ともなっていると言えよう。

*映画化・ドラマ化は何度も行われており、いつも四姉妹のキャスティングが話題となる。ここでは1983年市川崑監督のものを挙げておこう。

(追補2)
○ 1965年(s40)7月「文豪の名にふさわしい 谷崎潤一郎没」

 戦前から文豪と呼ばれた中では、比較的長寿の79歳没。日本文学の一つの時代が終ったとも言える。悪魔主義、耽美主義、変態文学、マゾヒズム、女性跪拝などと様々な呼び名が付けられたが、一貫して崇拝的な女性美像を追求した。谷崎の妻をめぐって友人佐藤春夫との三角関係に陥ったが、佐藤に妻を譲るという三者連名の声明文を発表、「細君譲渡事件」と騒がれたり、奔放な行動が話題を呼ぶことも多かった。

 日本最初のノーベル文学賞候補と仮想されることもあり、彼の死後は三島由紀夫が浮上し、さらに三島自刃後には結果的に川端康成受賞となった。これらの名を観ると、いずれも日本的な美の追求者という側面がうかがわれ、西欧側からのオリエンタリズムの色が濃く反映していることは否めない。

 現在の著作権法では保護期間が著作者の没後50年と定められており、谷崎の作品は昨年(2015)から一般に公開できることになった。たとえば青空文庫などでは順次公開されつつあり、いつでも無料で読める。
 ところが「環太平洋パートナーシップ(TPP)協定」が発効すると、アメリカなどにあわせた「没後70年」に延長される(音楽なども同じ)。すでに期限切れには適用されないが、たとえば、2020年に切れる予定の三島由紀夫の作品は、2040年にまで延長されることになる。


(追補3)
○1930.8.18 谷崎潤一郎夫妻が離婚を発表

 「妻(千代)を友人(佐藤春夫)に与える声明」を3人連名で、知人友人に送付する。「細君譲渡事件」「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、 ・・・」 このような声明文が、谷崎潤一郎、妻千代、佐藤春夫の三者連名で関係者に送付された。谷崎45歳、佐藤38歳という成熟期の著名文士間での「細君譲渡事件」として、当時の世間をにぎわせた。

 谷崎潤一郎は既に新進作家としてスタートしていたが、29歳の時、芸者だった「石川千代」19歳と結婚式を挙げる。「悪魔主義」などという大仰な形容をされた新進作家谷崎にとって、妻としては申し分なくても、女としては平凡な娘であった千代は気に入らなかったようで、娘鮎子をもうけるも、夫婦愛をはぐくむことがなかった。

 15歳になる千代の末妹「せい」は、千代と正反対の奔放な娘であって、これを気に入った谷崎は、千代母子を実家に預けてせいと同棲、せいを思い通りの娘に育てようと、葉山三千子として女優デビューさせたりした。谷崎中期の問題作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミは、このせいをモデルにしたものとされる。

 一方、佐藤春夫は谷崎より六歳年少で、文壇デビューを支援してくれた先輩として、小田原に住む谷崎のもとに親しく通う間柄であった。そんな中で、谷崎の不当な扱いに悩む千代の相談に乗ったりしているうちに、佐藤の千代への同情が愛に変わっていったとされる。ただし谷崎の方では、せいとの結婚を考えて、それを意図的に仕組んでいたふしもある。

 谷崎は千代と鮎子の面倒を佐藤に押し付け、自身はせいに求婚するも「いやぁよ」の一言で拒絶されると、千代との生活によりを戻すことを選ぶ。裏切られ怒り心頭に達した佐藤は、谷崎に絶交宣言をする(小田原事件)。その時期の恋情を、佐藤春夫はいささかセンチメンタルに絶唱する、「さんま、さんま さんま苦いか塩つぱいか・・・」
 大正12年関東大震災が起きると、谷崎は京都・神戸といった関西に拠点を移す。やがて、書生風に谷崎家に居候していた和田という男と、千代夫人の関係が出来ると、谷崎は千代夫人と和田を一緒にさせようとも考えたが、すでに和解していた佐藤春夫は、若い和田との将来に懸念を抱き、結局和田は立ち去った。この間の経緯は『蓼食ふ蟲』として作品化されている。

 そしてやっと冒頭の「細君譲渡事件」に至る。三者満足の結果で他人がとやかく言うことでもないが、事情を知らない世間一般にはとんでもない事だと映ったに違いない。最初の試みから15年、円満離婚に至るまでの谷崎は、対外的には「夫としての立場」を保ち続けたという。

 翌1931年(昭和6年)、谷崎は古川丁未子と結婚するが、この時すでに根津(旧姓森田)松子と知り合っており、兵庫の根津家の隣に転居すると同時に丁未子と別居、やがて1935年(昭和10年)両人ともに離婚が成立すると、谷崎潤一郎と森田松子は無事結婚に至る。

 ほとんど気が遠くなるような経緯を経て、谷崎は終生の伴侶を得ると、松子の実家、船場商家の四姉妹のあでやかな社交をモデルに『細雪(ささめゆき)』を書き上げる。発表の場さえ期待できない戦時中にも、ランプの灯を頼りに黙々と書き続けたという。

 密かな女性遍歴がありながらそれを作品に反映させられなかった芥川龍之介、愛人から小説の素材を得るか心中の伴侶にしかできなかった太宰治、これらに比して「小男、醜男、小心、変態」の谷崎が、接した女性を肥しに次々と名作をものにし、艶福家、美食家、文豪として終生を全うしたこの摩訶不思議を見よ!(笑)

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