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Ⅰ【文学コラム】16.昭和文学的自殺三態

【文学コラム】16.昭和文学的自殺三態


○1927(s2).7.24 [東京] 作家 芥川龍之介(36)が自殺する。

 文壇の鬼才と呼ばれた芥川龍之介が、この日未明田端の自宅で、歌人で精神科医でもあった斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。一説では、青酸カリの服毒自殺だとも言われる。遺書として、妻・文に宛てた手紙、友人菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙などがある。また、死後に見つかり、久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」では、自殺に至る心理を詳述しており、中でも自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は一般に流布している。

 しかし一方で同文中で、レニエという作家の自殺者を描いた短編作品に言及し、「この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない」とも書いている。自殺者当人が、自身の自殺する理由を知っているとするのは、残された人間の思い込みに過ぎない。それは本人でも特定できるものではないし、またそういう特定の原因を明示できるものでもない。それを芥川は「ぼんやりした不安」と書いたに過ぎない。

 芥川龍之介は、幼時に生母が精神に異常をきたしたため、生母の実兄の養子とされ芥川姓となる。芥川家は江戸時代、徳川家の茶の湯を担当した家系で、家中に江戸の文人的趣味が残っていたとされる。学業優秀で、第一高等学校に入学、同期入学に久米正雄、松岡讓、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)らがいた。東京帝国大学文科に進むと、一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌『新思潮』(第3次)を刊行、さらに、第4次『新思潮』を発刊することになると、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛された。

 東京帝国大を卒業すると、海軍機関学校の英語教官となるとともに、初の短編集『羅生門』を刊行して、新進作家として華々しくデビューした。文芸活動の初期には、「羅生門」「鼻」「芋粥」など歴史物やキリシタン物など、明確なテーマとストーリー性をもつ短編作品を発表して人気を博した。

 中期になると、エゴイズムなどの人間心理をえぐった初期に対して、「地獄変」などの中編で芸術至上主義的な傾向を示し、作品の芸術的完成を追及した。しかしやがて「安吉もの」など、身辺から素材を採った私小説風のものに転換してゆく。そして最晩になると、「河童」など寓意作品で人間社会を冷笑的に扱うとともに、最晩年では「大道寺信輔の半生」「点鬼簿」「蜃気楼」「歯車」など、ほとんど自伝的な内面の告白となってゆく。

 この時期、長編を得意とする成熟期の谷崎潤一郎と誌上論争を展開し、「物語の面白さ」を主張する谷崎対し「話らしい話の無い」純粋な小説を称揚した。だがすでに芥川の才能は衰弱しており、論争は、円熟した谷崎の圧勝の気配を呈していた。

 はっきりしたストーリーとテーマで展開した初期の芥川であるが、本質的にはストーリー・テラーの才能はもっていなかった。明瞭な「筋をもつ小説」である初期の傑作も、そのほとんどは説話文学や中国古典などから素材を得たものであった。

 晩年に気力体力が衰えるとともに、新規素材を漁りそれから構想を立ち上げる創作力が無くなると、晩年の悲鳴に近い内面告白となっていった。芥川の自死は、このへんの創作源泉の枯渇から引き起こされたとも言える。谷崎がそのマゾ資質から堂々と展開する妄想的物語にたいして、芥川は決定的に「妄想力」に欠けていたのである。

○1948(s23).6.13 [東京] 作家太宰治(38)が玉川上水に入水自殺する。

 1948年6月13日、太宰治はその愛人山崎富栄と共に玉川上水へ入水心中し、太宰39歳の誕生日となるはずであった6日後の6月19日、両人の遺体は発見された。この日は彼の作品にちなんで「桜桃忌」と名付けられ、今でも多くのファンが太宰の墓前に集うという。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。

 だが憶測は憶測にすぎない。一方が人気作家であれば、マスコミやファン筋からは身びいきの推測が流されることが多い。そのような意向は、両者の遺体が引き上げられた後の扱い方にも反映されたのか、太宰の遺体は立派な白木の棺に収められ、富栄の方はムシロを掛けたまま数時間も土手にうち捨てられていたという。

 太宰治のもっともお気に入りと思われる一枚の写真がある。銀座のショットバー・ルパンで、ご機嫌な様子をとらえた有名なカットだが、撮影者の林忠彦によればこの時、同じく無頼派作家の織田作之助を撮っていたそうだ。その時「俺も撮れ」とからんできたベロンベロンの酔っぱらいが太宰だったという。

 太宰というのは、いささか厄介な作家であったりする。同じ無頼派作家とされた坂口安吾の場合など、そのファンだと広言するのは誇らしくさえ思えるのに、太宰の愛読者であると披露するのはいかにも恥ずかしく感ぜられる。若いころ文学仲間と談笑するときには、太宰を糞味噌にけなすのがいわばオヤクソクなのだが、そんな友人の部屋を訪問すると、しっかり太宰治全集を買い込んであったりする。しかも本棚の隅っこに、紙で覆って隠してあったりするのだ。むしろ、ファンであることを公言し、桜桃忌には墓前で太宰をしのんだりできる読者の方が健全なのかも知れぬ。

○1970(s45).11.25 [東京] 三島由紀夫、割腹自殺 自衛隊員に演説のあと。

 三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説したあと自刃したことを知り、11月25日付けで雑記帳に、この事件への感想が簡単に記してあった。

 文学にはまり込んでいた時期だが、三島作品には距離を置いた読者だったと思う。派手な政治的演出にもかかわらず、芥川・太宰の自殺とも並べて「文学的な自殺」としてのみ捉えていた。

 その日の夕刻、当時の文学仲間が私の部屋を訪れて来た。西日が差し込む部屋で、「困ったことになったな」「そうだな、ほんとに困った」と語り合った記憶がある。おそらく、二人だけにしか分からないやり取りだっただろう。

 それにしても思想と行動の問題として、大きな主題を受け取ったことはたしかであった。三島が東大全共闘の集会に飛び込んで、思想的にはまったく両極に属する両者にもかかわらず、ある種の共感を保持し得たのも、このあたりの主題に関係しているのであろう。

Ⅰ【文学コラム】15.漱石における"明暗"

【文学コラム】15.漱石における"明暗"


 漱石は、本格的に作家としてやっていくために、朝日新聞に籍を置いて「虞美人草」を書いた。恋愛というエゴと、日常の打算というもう一つのエゴのせめぎ合いを、藤尾という女性キャラに照らし合わせて、分光してみせた。

 それまでの漱石と比べて、思いっきり拡張した世界を描いたが、さすがに手に負えかねたのか、唐突に藤尾を殺して終わらせる。いわば、"無駄"な部分をいっぱい拡大したわけで、漱石自身、失敗作と評している。

 しかし、私にはこの作品がいちばん面白かった。スタンダールの「赤と黒」みたいな心理活劇的絢爛さを感じながら読んだ。漱石の後半作品でのテーマを、すべて含んでいると思う。

 「三四郎」に始まる前期三部作では、恋愛というエゴの行く末を描いた。三四郎の淡い思春期ロマンスが、「門」では、煮詰まった夫婦生活の小さな幸せへと収斂してゆく。ある意味、愛をネガティブに照射して見せたと言える。

 後期三部作では、ロマンス要素の無き、日常の下でのエゴが描き出される。ロマンスを剥ぎ取られたエゴは、つまるところ「こころ」での先生の自殺に行き着く。日常でのエゴもまた、やはりネガティブなものとして描かれた。

 漱石は「私の個人主義」では「自己本位」を説いて、エゴの重要性を主張している。一方で「則天去私」などということも言って、ある意味、矛盾を抱えているように思われるが、これは一つの「自己」というものの両面を表現したに過ぎない。

 「明暗」は、そのような新境地を開いたかのような作品と思われたが、漱石の死によって中断された。"明暗"とは、まさしくエゴのポジティブとネガティブを合わせ表象したものとも考えられる。

Ⅰ【文学コラム】14.「悲しみよこんにちは」とよもやま話

【文学コラム】14.「悲しみよこんにちは」とよもやま話


 NHK BSプレミアムで「悲しみよこんにちは」をやっているのを観た。フランソワーズ・サガンの原作も昔よんだが(朝吹登水子訳)、映画は1958年英米合作で、セリフは英語。モノクローム・ベースで、回想シーンだけがカラー。 
https://www.youtube.com/watch?v=-bxjMs3UboM

 新人ジーン・セバーグがヒロインのセシルに抜擢され、18歳の少女の潔癖さと残酷さを演じきっている。上映当時「セシル・カット」と呼ばれたショートカットヘアーが流行った。
デボラ・カー、デヴィッド・ニーヴン、ミレーヌ・ドモンジョという名優陣が脇をかため、よくできた映画になっている。

 さらに劇中では、戦後パリ、サン・ジェルマンに集うサルトルら実存主義者たちに、「実存主義者たちの歌姫」と呼ばれたジュリエット・グレコがテーマを歌う。これらの名前を並べるだけで、戦後欧州思想界を彷彿させる懐かしい世界が再現前されるようだ。

 18歳の「ジーン・セバーグ」は、1957年『悲しみよこんにちは』で、ヒロインのセシルに抜擢され一躍有名になり、彼女のヘアスタイルは「セシルカット」として大流行した。さらには、1959年、ジャン=リュック・ゴダールの初監督作品『勝手にしやがれ』に主演、ヌーヴェルヴァーグの寵児となる。しかし、その後はヒット作には恵まれなかった。

 その後アメリカで、公民権運動や反戦運動に傾倒し、ブラック・パンサーなどと関りFBIからマークされ、父親不明の子を孕んで流産するなど、かなり厄介な生活状態になっていたようだ。セバーグは精神面でバランスを崩し始め、ドラッグ、アルコール中毒、うつ病にはまり込み、パリ郊外の車の中で自殺遺体となって発見された。享年40。

 「フランソワーズ・サガン」は、18歳で出版された『悲しみよ こんにちは』で一躍文壇の寵児となり、以後、プチブル階級の男女の複雑な関係を描き続けた。若年での成功で、パリ、サン=ジェルマン=デ=プレで文学者ら名士らと交遊したが、当然悪い取り巻きも集まり、ドラッグ・アルコール・ギャンブル、バイセクなどゴシップクイーンとしても名を馳せた。晩年は経済破綻と薬物中毒に悩まされつつ、69歳で死去。

 「わたしが大嫌いなものはお金で買うことのできるものではなく、お金によって作られる人間関係やお金が大部分のフランス人に課している生活態度なのです」――プチブルに生まれ、プチブルから一歩も出ようとせず、プチブルの裏表世界を知り尽くした彼女の言葉であった。

 「悲しみよこんにちは」を読んでこの18歳の少女の才能に驚いた私は、さらに『ブラームスはお好き』を読んだ。新潮文庫版のカバーは、当時ブームだったベルナール・ビュフェのリトグラフがデザインされていた。「ブラームスはお好き」は、イヴ・モンタン&イングリッド・バーグマン主演で『さよならをもう一度』(1961)として映画化されたようだ。

 「ベルナール・ビュフェ」は、パリで権威のある新人賞・批評家賞を受賞、若くして天才画家として有名になった。鋭く直線的な輪郭線、原色に近い明瞭な色彩で、無機質で機能的な都会生活での不安や苛立ちを表象した。日本でもバブル期、大企業のオフィスに最適な絵画として、リトグラフ作品がよく掲げられていた。

 ビュフェは、あまりにも早い時期に名声を得すぎたため、さらに、その素人にも分かりやすい画風のせいで、後年の作品ではマンネリ化が指摘され、飽きられていった。孤独にさいなまれる中で、パーキンソン病を患い、71歳で自らの命を絶つ。

 私自身、
額装業の友人を少し手伝ったときに、ビュフェの「アイリスと百合」を額装したものをもらった。サインとエディションNo.のあるリトグラフではなく、たぶん印刷の複製ものだったと思うが、いつの間にやらどこかへ消えてしまった。若くして世に出た才能たちも、パリで生き抜くのは大変なのだと知った。

(追補)
 この小説は「エレクトラ・コンプレックス」をテーマにしたものだとの指摘があったので、少し補足しておく。

 まずは、エディプス・コンプレックスだのエレクトラ・コンプレックスだのと、定式化されたものに沿って小説を理解するのは意味がないと思っている。とりわけ、エレクトラ・コンプレックスという概念には疑問がある。

 フロイトは、エディプス・コンプレックスをあくまで、秘匿された個人史を遡行することで解明しようとした。一方ユングは、それを人類の普遍史とした結果、神話に行きついた。そしてさらにそれを拡張して、人間の無意識の奧底には人類共通の素地(=集合的無意識)が存在すると考えた。

 フロイトが提唱しラカンによって定式化されたエディプス・コンプレックスは、主として男子が父親を通して社会化される過程を描き、それはあくまで男性中心社会を前提にしている。そして、女子の社会化は事実上無視されているが、これは事実上の男性社会では女子の社会化は望まれないで、むしろ抑圧される(家庭封じ込め)という現実を反映したものである。

 ユングは人間普遍を前提にするから、エディコンに対して別の理論が必要と考えたのだろうが、その提唱したエレクトラ・コンプレックスは、事実上「男性中心社会の下における女性の社会化」を取り扱うことになり、フェミニズムなどと絡めて拡散した議論にしかならない。日本でも、小此木啓吾などが「阿闍世コンプレックス」を提唱してたが、継承者は出てこないわけで、同上の理由による。

 エディコンは「パパ・ママ・ボク」の世界として図式化されるが、エレコンが描こうとする「パパ・ママ・ワタシ」の関係は、ママとワタシの関係が複雑な二重性をはらみ、シンプルに切り分けられない。それは、女性の社会化に抑圧的に働く男性中心社会が厳然と存在するからであり、そこでは「嫉妬」という社会化されえない感情の世界に紛れ込むからである。

 「悲しみよこんにちは」でも、セシルの攻撃対象となるのは、実の母親ではなく父親の愛人アンヌであった。だからこそアンヌを、自覚していない嫉妬による攻撃対象として描けたのわけで、あくまでセシル個人の、自覚していない嫉妬が引き起こした悲劇として理解すべきである。

Ⅰ【文学コラム】13.ロートレアモンとシュルレアリスムとの偶然の邂逅

【文学コラム】13.ロートレアモンとシュルレアリスムとの偶然の邂逅


”Salvador Dalí - Sewing machine with umbrellas”
 シュルレアリスムを語るときに、必ず引き合いに出されるロートレアモン伯爵の一節「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い(のように美しい)」

 これは、無名のまま人生を終えた若者、ロートレアモン伯ことイジドール・リュシアン・デュカスが、かろうじて自費出版で残した『マルドロールの歌』の中の一節だ。

 学生の頃、詩人栗田勇訳で入手した「マルドロールの歌」には衝撃を受けた。その「第一の歌」には次のような一節がある。

 《まず二週間、爪を伸ばしっぱなしにする必要がある。おお、なんという素晴らしさ、上唇のうえにまだ産毛も生えていない、目をぱっちりとみひらいた子供を、ベッドから荒々しくもぎはなし、その美しい髪をうしろになでつけながら、額を心地よく撫でるふりをする! それからとつじょ、不意をついて、長い爪をぐっさりと、だが殺してしまわない程度に柔らかい胸に突きさすのだ。》

 なぜ、このような残酷な話を、と考える人には文学をかじる資格もない。この残酷さは、人間固有の、しかも青春期に固有の残酷さの表現であって、他の動物にはみられない。

 人の無意識世界に漂うこの残酷は、野生でもなんでもない、まさしく「人間」なのであって、それが、アンドレ・ブルトンやフィリップ・スーポーなどのシュルレアリストによって「再発見」された。ロートレアモン伯爵と名乗った若者は、伯爵でも何でもなく、パリの貧相な下宿部屋で、20代で孤独な一生を終えた独りの若者でしかなかった。

 このような文学空間の空気は、たしかに一度は吸ってみたい気がする。

 「解剖台の上での・・・」の一節は、「デペイズマン」の例として引き合いに出されるのだろう。これは、意外な組み合わせをおこなうことによって、受け手を驚かせ、途方にくれさせるというシュルレアリスムの一手法として組み込まれた。

 いくら意外とはいえ、ウナギと梅干しみたいな「食い合わせ」では、腹痛を起こして終わりなんだろうが(笑)
若い時に、何となくまね事でやってみたことはある、読んで笑うな(笑) http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20141028

「ロートレアモン伯爵」

Ⅰ【文学コラム】12.江戸川乱歩 没後50年

【文学コラム】12.江戸川乱歩 没後50年(2015. 8記)


 NHK ETV特集「二十の顔を持つ男〜没後50年・知られざる江戸川乱歩〜」を観た。

 乱歩に出会ったのは中学生の頃、少年向けポプラ社の「怪人二十面相」シリーズ。その後、家の物置に講談社探偵小説全集が転がっているのを見つけて、旧字旧仮名にも拘らず密かに読みふけった。何となく子供ごころに、大っぴらに読んでいてはいけない雰囲気を感じ、物置に隠れたりして読んだものだ。

 乱歩の作品は三期に分けられるという。初期の「二銭銅貨」や「D坂の殺人事件」など、謎とトリックと論理的推理を重視したもの。

 次に「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「芋虫」など、エログロ小説として評判になった猟奇シリーズ。並行して「黒蜥蜴」など、のちの怪人怪盗ものにつながるものもあった。

 そして「怪人二十面相」「少年探偵団」という少年向けシリーズ。ご存知、名探偵 明智小五郎、探偵団 団長小林少年、怪人二十面相が大活躍するシリーズだった。

 以前に書いた「芋虫」が、戦争末期になってから、戦時時局に反すると発禁にされた。戦闘で四肢を無くし芋虫のようになった兵士の性生活を描いたが、そのエログロ性よりも、「英雄ではない無残な兵士」を描いたからであろう。

 すべての作品が絶版とされ、執筆依頼も無くなった乱歩は、沈黙し、書斎に篭って洋書ミステリーなどを濫読したという。戦後になると、その博識を発揮し、西欧の著名ミステリーの紹介と、日本におけるミステリーの発展に尽力した。

 戦後、少年向けの「二十面相シリーズ」は、過去の蓄積から楽しみながら書けたが、本格的な作品はほとんど書かなくなった。たまたま古本屋で見つけた「ぺてん師と空気男」という作品を読んだが、かつての乱歩の才能のきらめきは観られなかった。

 しかし戦後の乱歩の活躍は、「少年探偵団」シリーズなど青少年もので人気を博しただけでなく、日本推理作家協会の初代理事長に就任するとともに、推理小説専門の評論家としても健筆をふるい、日本のミステリー小説界の発展に多大な貢献をした。

(追補)
 昭和30年代半ば、まだあちこちに空き地があり、近隣の子供たちが集まって様々な遊びをした。自分の町内でも、近くの神社境内などでわいわいと遊んだが、我々より数年年長のジャイアンみたいなガキ大将がいて、あれこれ仕切っていた。

 そのジャイアンが突然「少年探偵団つくる!」と言い出した。さからうと殴るので、みんな仕方なしに、自動的に「団員」となった。まさに月刊雑誌「少年」に、小林少年が活躍する「少年探偵団」が連載されている時期だった。

 すると団長は、会費を徴収すると言い出した。毎月の少ない小遣いから、泣く泣く10円を差し出すことになった。そして団員には呼子笛が配布された。これは、近くの駄菓子屋で5円で売ってるやつだと、みんな知っている。

 団長は、町内を巡回して、事件を発見したらこの呼子笛を吹けという。もちろん平和な町内に事件など無いが、何も報告しないと、また殴る。仕方なしに、「ていへんだ、横町の路地裏にネズミの死体が・・・」などと報告して、その場をしのいだ。

 こうして三ヵ月ほどすると、もう飽きたのか、ジャイアン団長は探偵団の話題をしなくなって、少年探偵団は自動消滅した。三ヵ月分の会費として30円を徴収されたはずだが、配布されたのは5円の呼子笛だけだということは、いまでも忘れてはいない(笑)

Ⅰ【文学コラム】11.【1970年 三島事件の記憶】

【文学コラム】11.【1970年 三島事件の記憶】


≪爆報!THEフライデー【三島由紀夫の妻…壮絶人生】≫ 2017.11.24

 三島由紀夫の没後47年として、TBS系で上記の番組が放映された。残された三島由紀夫(平岡公威)の妻平岡瑤子に焦点をあてたドキュメンタリーで、それなりに興味深い内容だったが、三島のセクシュアリティーには触れないまま終始したのには不満が残った。つまり、事実上のバイセクシュアルだった三島由紀夫の妻として、いかにしてその痛みを耐え忍び、いかにして三島と家庭を守ったかという視点が欠落していたわけである。

 私自身の三島事件当日の記憶をたどって、次のような記述をしたことがある。

>>
*1970年11月25日「三島由紀夫、割腹自殺 自衛隊員に演説のあと」

 三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説したあと自刃したことを知り、11月25日付けで雑記帳に、この事件への感想が簡単に記してあった。

 文学にはまり込んでいた時期だが、三島作品には距離を置いた読者だったと思う。派手な政治的演出にもかかわらず、自分の関心はまったく別のところにあって、芥川・太宰の自殺とも並べて「文学的な自殺」としてのみ捉えていた。

 それにしても思想と行動の問題として、大きな主題を受け取ったことはたしかであった。三島が東大全共闘の集会に飛び込んで、思想的にはまったく両極に属する両者にもかかわらず、ある種の共感を保持し得たのも、このあたりの主題に関係しているのであろう。<<

 三島由紀夫の良き読者であったわけではないので、三島の全体像に触れるのは避けて来たが、今回、もののはずみで、少し立ち入ってみた。

>>
 誰かかから、三島自身の抱いていた「老いの恐怖」が指摘された。老いへの恐怖は、オスカー・ワイルドの「ドリアングレイの肖像」に端的に表現されている。三島由紀夫はそれを絶賛していて、それに触発されて「仮面の告白」を書いたと考えられる。

 彼にとって生涯のテーマは「装う "disguise"」ということであった。彼の「観念的小説」そのものが "disguise"であったし、実生活でも「装う」ことが必然とされた。

 三島の妻の瑤子とともに、「健全な家庭」を演出することが、彼の「義務」でもあった。彼は生涯それを徹底し、妻もそれに合わせた。まさに、仮装パーティで、ダンスを踊る良きパートナーであることを二人は通した。

 三島由紀夫は「潮騒」で、アポロン的に制御されたギリシャ美を描き出した。それは作品としては完璧であったが、一方で、彼の中のディオニュソスはおとなしくしていられるわけがなかった。

 ディオニュソスは、アポロンのような均整を許さず、ダイナミックな破壊を要求する。それは「行為 "action"」を要請する。三島は、肉体を改造し、ボクシングに励み、まさにアクター "actor" にもチャレンジする。しかしそれは、誰が見ても "disguise"でしかなかった。

 やがて三島は、政治思想的な "action"に入れ込むようになる。それは「装い」を脱した「本来の行為性」であると、三島は信じ込んだ、いや、そう信じようとした。

 しかし誰が見ても「盾の会」など、オモチャの兵隊ゴッコでしかないし、三島自身にも明白であったが、それを知った上でも突き進むしかなかった。

 三島個人のセクシュアリティに、政治思想という公的行為を重ね合わせることによって、自身の分裂を隠蔽しようとした。彼自身、それを知りながら、見て見ぬふりを通した。

 それは決して三島の「肉体的な老い」ではなく、むしろ「精神の老い」であった。アポロン的な健全性という「観念」を維持しきれなくなったわけだが、それでディオニュソス的な「本来性」に立ち返ったわけでもない。

 三島自身が「金閣寺」で描きだした放火犯の修行僧のように、美という「観念のオバケ」の前に圧倒された「精神の疲弊」でしかなかった。

 三島由紀夫が強いられた「装う」ということは、いうまでもなく彼の「バイ・セクシュアリティ」に促されている。それをストレートに表明することは、彼の育った境遇や時代が許さなかった。<<

 三島と同年代ながら、まったく対極的な位置にあった作家吉行淳之介のエッセイの中で、次のような記述を読んだ記憶がある。

 戦後の混乱期、闇市で飲んだバクダンだかメチルだかにあたって、唯一無二の親友を亡くした若き詩人が、ノートに書きなぐった一節。「死にたい奴は死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」

 戦後の混乱の中で生き抜くための切迫した生活感が反映されており、ここまできっぱり言い切れない曖昧な生活を送っていた我々は、次のようにつぶやき合うしかなかった。

>>三島が自決した日の夕刻、当時の文学仲間だった友人が訪ねて来た。われわれは二人にしか通じない言葉で、西日が差し込む私の部屋でつぶやきあった。「こまったことになったな」「そうなんだよな」。たしか当日は小春日和で、その夕日だけは記憶に残っている。<<

(追補)
 三島は「仮面の告白」で、自分が生まれた時の産湯をつかっている情景の記憶を描写している。そんなことは100%ありえないのだが、その場に居合わせた縁者の話とかから、後日にそういうい記憶がインプットされることはあり得る。記憶というものはそういうもので、一つの記憶を何十年も記憶していることなどありえない。その後何度も反芻するなかで、記憶は変遷しているはずである。

 つまり記憶とは自らを欺くようにできている。ならば、「正直に記憶をそのまま描いた」などというのこそ、眉唾なのだ。三島は、心酔していたオスカー・ワイルドの「虚言の衰退」というエセーなど当然読んでいるはずで、フィクションとは文字通り作り事(嘘)であるが、それ故に現実以上にリアリティを持ちうる、と考えていたはず。

 「潮騒」は、古代ギリシャのエーゲ海のイメージを想定して描いたと言われる。古代ギリシャの彫像の美を、瀬戸内海の小島の若者の褌姿にそれを形象しえたかどうかはともかく、三島はそれを信じて書いていたはず。「観念を実体化する」、それが三島の創作の源泉にあった。それは文学的リアリティの根本であって、きわめて正しい。しかし三島はそれだけでは満たされることはなかった。すなわち、自分の観念を自身の肉体にも適用しようとし、さらに現に生きている現実世界にも適用しようとした。

 「実現不可能であるからこそ創作で表現する」という地点に、もはや三島は立ち止まれなくなる。自身の観念(妄想、とも言える)を実現しようとする。これは倒錯性欲者が妄想を実現しようとするのと、さほど距離をもたない。かくして三島は、そのようなリアリズムを放擲して、遺作となる「豊饒の海」を完成する。その後市ヶ谷自衛隊での自刃になるのだが、この時点で三島は自ら信奉する陽明学の「知行合一」からははるかに離れた地点に至っていた。「知行合一」とは、正しい知が自らそれを実行するということであるが、三島のそれは「誤った知=妄想」でしかあり得なかった。

Ⅰ【文学コラム】10.【金閣炎上】水上勉と三島由紀夫

【文学コラム】10.【金閣炎上】水上勉と三島由紀夫


 1950年7月2日の未明、国宝の鹿苑寺舎利殿(金閣)から出火、金閣は全焼し、舎利殿に祀られた足利義満の木像など国宝・文化財もともに焼失した。不審火で放火の疑いありと捜索中、同寺徒弟見習い僧侶であり仏教系大学に通う林承賢が、裏山で薬物を飲み自殺を図っているところを発見され逮捕された。

 足利三代将軍義満の創建した鹿苑寺は、その金箔を貼りつめた荘厳な舎利殿から金閣寺として知られている。応仁の乱では西陣側の拠点となり、その多くが焼け落ちたが、江戸時代に舎利殿金閣などが修復再建された。のちに国宝指定されたその時の金閣が、いち学僧の放火によって焼失したのである。

 吃音症などのコンプレックスで孤立する徒弟僧と荘厳華麗な金閣の対比は、識者の関心を呼んだ。1956年に、三島由紀夫は『金閣寺』を書く。綿密な取材に基づいた観念小説であり、『仮面の告白』の続編とも言える。同時期に始めたボディビル等の「肉体」改造と同じく、この作品を通じて「文体」の改造構築を試みた。三島にとって、自己も自分の肉体も、ありのままなど認められない「構築すべきもの」であった。

 一方、水上勉は1967年に『五番町夕霧楼』で、同じ放火犯の修行僧を主人公とした。吃音などのコンプレックスが内向し、観念上で創り上げてしまった金閣の前で自意識が堂々めぐりし、結局焼失させるより仕方なくなったという三島「金閣寺」に対して、水上の「五番町」は、西陣の遊郭五番町に売られた同郷の幼なじみ夕子を登場させ、修行僧の一縷の安逸の場をもうけている。


 水上勉が数歳年長とはいえ、三島由紀夫とともに文学的には「戦中派」世代に属する。戦中派とは、昭和初年(1925年)前後に生まれ、十代後半の思春期を戦争さなかに過ごした世代で、自意識が確立する前後の時期に世の中の価値が180度転換してしまったわけで、その心には深い虚無感が刻み込まれている。しかしその後の両者は正反対の展開をみせる。

 高級官僚の家庭に生まれ、若くして早熟の天才として注目された三島とは対照的に、水上は若狭湾に沿った寒村に生まれ、砂を噛むような貧窮のもとで、早くから京の禅院に小坊主に出された。幾度か禅門から逃亡し文学をこころざすも、文筆活動では食えず生活苦を極めた。40歳を過ぎてやっと、小坊主体験をもとに描いた『雁の寺』で直木賞を受賞し世に認められた。

 水上の「五番町」が、三島の「金閣寺」を意識して書かれたのは間違いない。しかし、水上は放火犯林承賢とは若狭湾沿いのほぼ同郷であり、ともに禅林に徒弟修業に出され孤立をかこっていたのも同じような境遇。自己の投影の単なる素材として扱う三島作品に対して、「それは違う」という異議申し立ての気分が強かったと思われる。20年以上たってからも『金閣炎上』というドキュメンタリー作で、再度林承賢の実像に迫り続けたことが、それを示していると言えよう。

 ちなみに、この年の11月には国鉄京都駅の駅舎が全焼した。もちろん、ともに私が2歳になる前後の火災なので直接おぼえているはずもない。しかし、のちの両親の話などから火災があったことは記憶に植え付けられている。この3年後に、のちに在学することになる中学校の校舎が焼けた。ちょうど中学に在学していた近所のお兄さんに手をひかれて、焼け跡を見に行った事は記憶は残っている。たぶん、金閣や京都駅舎の火災も、この時の焼け跡の残像と重ね合わされ記憶に残るようになったのであろう。

*水上勉 ノンフィクション『金閣炎上』関係のブログ。
http://naoko-mt.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html

*三島由紀夫「金閣寺」は、市川崑監督『炎上』(1958)で映画化された。
http://movie.walkerplus.com/mv25685/

*水上勉『五番町夕霧楼』は、1963年東映版と1980年松竹版と二度映画化されている。
・1963東映版 佐久間良子主演
*水上勉については、別個にこちらでも書いた。
【水上勉と京都】