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Ⅴ【音楽関連コラム】09.そこにはフォーク・クルセダーズが流れていた




【音楽関連コラム】09.そこにはフォーク・クルセダーズが流れていた


◎フォーク・クルセダーズとフォークソングブーム
*1968.2.20/ 大ヒットの「帰って来たヨッパライ」に続く第2弾として、翌2月21発売予定の「イムジン河」が、突如、発売中止される。

 この時期のラジオ局は、「オールナイトニッポン」「セイ!ヤング」「パックインミュージック」など、各局が個性的なパーソナリティを起用してディスクジョッキー(DJ)番組を競った。この時期、団塊世代がまさに受験期にさしかかり、深夜ラジオを聴きながら机に向った。

 1967(s42)年4月から私もまた受験浪人生となっていたが、深夜ラジオに投稿したりするほど熱心な方ではなかった。それでも受験生同士の話題には必須なので、それなりに聞いていた。そんなとき耳に飛び込んできたのが「帰ってきたヨッパライ」で、神戸のローカル局「ラジオ関西」の放送だった。

 こちらは京都なので電波状態がよくなく、主に「ラジオ京都(KBS京都)」に合わせることが多かったが、こちらでは同じくフォーク・クルセダーズの「イムジン河」をよく流していた。そして勉強に飽いた仲間が夜中に窓をつついて、いま何を聴いてるんだとかさぐりに来たりする。みな孤独感と不安を抱きながら、こうやってラジオを共有して安心していたのだった。

 フォーク・クルセダーズは、京都のアマチュアグループとして関西中心に活動していたが、メンバーの都合で解散を決め、その記念に自主制作盤のアルバム「ハレンチ」を制作した。そのアルバムから、関西のラジオ局のパーソナリティがピックアップして来たのが上記の曲だった。

 1967(s42)年末ごろ、大手レコード会社からプロデビューの声が掛かり、「加藤和彦」「北山修」が新たに「はしだのりひこ(端田宣彦)」を加え、「一年間だけ」という約束で再結成して、大手レーベルから出したシングル盤「帰ってきたヨッパライ」が、いきなりミリオンセラーとなった。

「帰ってきたヨッパライ」
https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw

 さっそく次の曲をということで、同じく「ハレンチ」から「イムジン河」を取り上げ収録した。すでに13万枚が出荷されていた発売予定日の前日、1968(s43)年2月20日になって、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定する。北朝鮮系の団体からクレームが付けられたのがその理由だった。

「イムジン河」

 そこでまた急きょ別の曲を作れと、音楽出版社の一室に閉じ込められ、加藤和彦がギターをいじっているうちに出来上がったのが「悲しくてやりきれない」で、1968(s43)年3月21日に発売された。TV番組で「イムジン河のコードを逆にたどって出来上がった」と紹介されたこともあったが、加藤和彦自身は、ギターでいろいろ遊んでただけと言っている。

「悲しくてやりきれない」
 
 フォーク・クルセダーズは、そのあと矢継ぎ早にヒットを連発し、1968(s43)年10月17日、大阪でのさよならコンサートの末、一年という約束通りに解散した。フォークルが日本のフォーク史に残した足跡は大きく、各メンバーはその後も音楽に関わったので、解散後にも大きな影響を及ぼしている。

 なお、一連の日本のフォークブームについては、下記ブログでまとめた。

「日本のフォークブーム」

(2021.12.07追記)
「悲しくてやりきれない / フォーク・クルセダーズ」

 夜中に酒をのんで過去の想いにふけって、この曲を思い出した。1968年春、大学に入学し、4月から神戸の青谷というところに下宿した。三畳ひと間に押し入れのみという部屋だったが、それなりに生活できた。

 入学当初、あれこれ張り切って動き回ったが、やがていわゆる五月病というのにはまり込み、夜になってひとりになるとホームシックな気分に落ち込んだ。下宿のすぐ向かいにある川べりの小公園で、ひとりこの曲を口ずさんでいた。

 受験などバタバタしている時期に、「イムジン河」の発売中止騒ぎがあったが、当時はなぜ中止されたかよく分からなかった。急きょ代わりの曲を作れと、レコード会社に缶詰めにされた加藤和彦が、ギターコードをいじっているうちにできあがったのが「悲しくてやりきれない」だそうだ。

 そのままディレクターが、当時著名の作詞家サトーハチローのもとに走って、詩を付けてもらい出来上がったという。「かな~しくってかな~しくって」と、ひたすら哀切でペシミスティックなリフレインが続き、加藤和彦自身、歌っていてどうかなと思ったそうだが、いざレコードとして発売後ヒットすると、曲に馴染んだ詩だと納得したそうだ。

 実際「雲を眺めて涙ぐむ」などと、理由もない哀しさというのは、口ずさみながらもいささか恥ずかしい気がする。ただ、思春期の悲しみというものは、このように理由もなく孤独感におそわれれるものであり、下宿を始めて2ヵ月ほど過ぎた時期に、ホームシックな感傷におそわれ、この曲にドップリひたったというわけだった。


(2021.12.08追記2)
 さらにフォークルついでに、自分の精神的転機の時期に脳裏に刻まれた記憶を記す。
 
「戦争は知らない / フォーク・クルセダーズ」 https://www.youtube.com/watch?v=79Ld-CdgVeg&list=RD79Ld-CdgVeg&start_radio=1&t=12

 この曲は、寺山修司が作詞して、ラテン歌手坂本スミ子が歌ったが、シングルのB面でまったくヒットしなかった。ところが、同時期にフォーククルセダーズが、グループ解散記念にと自費プレスした「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ放送を通じて偶発的に大ヒット。

 一年きりのプロ活動ということで、再結成してプロデビューした加藤・北山・端田の新クルセダーズは、「イムジン河」の発売中止などのアクシデントに見舞われながら、次々とヒットを飛ばした。そんな中で、独自の感性で加藤和彦が掘り起こしてきたのが、この「戦争は知らない」だった。 

 本来は寺山修司が、太平洋戦争に出征して戦病死した自分の父親をしのんで書いた詩だが、当時ヴェトナム戦争の最中で、アメリカから反戦歌が幾つも流れてくる状況下で、この歌も反戦フォークとして受け容れられた。露骨な反戦詩ではなく、名前も知らない野に咲く花に託して、父を亡くして20年後にお嫁に行く娘が、父に新たに別れを告げる詩になっていて、歌人寺山独自の抒情が、切なく訴えてくる。

 私自身はこの時期、大学に入学したものの、夏休みの帰省中に二度目の鬱病に落ち込んで下宿は引き払い、10月ごろからやっと学校に通い始めたとたんに学園紛争で大学封鎖、翌春になっても一向に封鎖解除される気配がなかった。仏教思想などに耽って、何とか鬱を克服、漠然と郷愁を感じて、奈良西ノ京などを徘徊していた。

 写真家入江泰吉の「大和路」風景などにある、菜の花畑を通して観る薬師寺の塔の光景など、そっくりの位置を見つけて、下手くそなスケッチをしたりしたものであった。最悪の時期は通り越して、少しづつ光が見えてきたが、これからの方向性も見つけられず、将来に自信が持てない不安定な時期、春の明るい景色の中に、かすかなもの悲しさを感じた心象風景に、この「戦争は知らない」の曲が重なって記憶に埋め込まれている。

『戦争は知らない』 【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ
 野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く 花が好き
ぼうしにいっぱい つみゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
 
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
 
いくさで死んだ 悲しい父さん
私はあなたの 娘です
二十年後の この故郷で
明日お嫁に お嫁に行くの
 
見ていて下さい はるかな父さん
いわし雲とぶ 空の下
いくさ知らずに 二十才になって
嫁いで母に 母になるの

Ⅴ【音楽関連コラム】08.日本のフォークブーム

【音楽関連コラム】08.日本のフォークブーム(第一次・60'後半〜70'初め)


 日本でのフォークソングは、戦後のアメリカン・フォークの強い影響下で始まった。アメリカでは、民衆の間で親しまれた民謡やカントリー&ウェスタンの系譜をもつ曲を、独自に編曲して自演するミュージシャンが現れた。そんな中で、60年代の黒人公民権運動やベトナム戦争を背景に、メッセージ性の強いオリジナルなプロテストソングを歌う、シンガーやグループが登場する。
 
 ピート・シーガーらがリードし、やがて、キングストン・トリオ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、ブラザーズ・フォアなど数多くのアーティストが登場し、全米に広がっていった。これらの影響が日本にも波及し、当初は日本語に翻訳したものを、既存のポップ歌手がテレビで歌うなどして、一般に普及したが、一方で直接に原曲の影響を受けたミュージシャンが、原語で歌い、かつまたオリジナルの曲を、ローカルな局面で演奏し、より深く浸透していった。
 
 60年代半ばには、ロックバンド風のグループ・サウンズがブームとなり、フォークグループもそれらに入り混じる形でステージに立った。実際、フォークロックと呼ばれるスタイルはGSと区分しがたいところがあった。やがて60年代末にグループサウンズが下火となると、代わってフォークソングが前面に出てくることになる。

「受験生ブルース/高石ともや」

 GS全盛期に並行して、アマチュアのフォークシンガーやフォークグループが各地で活動し出していたが、彼らは商業ベースに乗るのを嫌ったため、単独ライブやフォークコンサートなどでの活動が主であった。そんな中で、メッセージ性の強いプロテストソングを歌い、関西を地盤として活動していた「関西フォーク」と呼ばれる一団が頭角を現し、岡林信康、高田渡、加川良、高石ともや等が評判となった。

「山谷ブルース/岡林信康」
https://www.youtube.com/watch?v=2AMZVkzVryg 

 関西フォークのメンバーが中心になって、1967年から「関西フォークキャンプ」と呼ばれる自主企画の野外コンサートが4回に渡って開催された。これらは小規模なものであったが、口コミで聞き付けた他のフォークシンガーたちも多く参加した。これらをうけて、全国規模の野外フェスティバルが企画され、1969年から1971年にかけて3回に渡り、「中津川フォークジャンボリー」と呼ばれる大規模コンサートが開かれ、フォークステージは大きな盛り上がりを見せた。
 
 第1回のフォークジャンボリーは、1969年8月9-10日、岐阜県の現中津川市で、2000〜3000人の観衆を集めて開催されたが、あのウッドストック・フェスティバルより一週間先行して開催されたことは特筆すべきであろう。都合3回開かれたフォークジャンボリーには、前述の関西フォーク系だけではなく、五つの赤い風船、遠藤賢司、上条恒彦、つのだひろ、浅川マキ、六文銭、なぎら健壱、あがた森魚、かまやつひろし、カルメン・マキ、ガロ、長谷川きよし、山本コータロー、吉田拓郎など、より幅の広いそうそうたるメンバーが顔を連ねた。

「全日本フォークジャンボリー記録映像」
https://www.youtube.com/watch?v=AVDRvR4G8uc&list=RDAVDRvR4G8uc&start_radio=1
 
 フォークソングの局面を大きく変えたのは、やはりフォーククルセダーズの登場だろう。当初、純粋にフォークを楽しむアマチュアグループとして活動していた「フォーク・クルセイダーズ」は、1967年の第一回関西フォークキャンプに参加した上で解散することを決めていた。解散記念にと、「ハレンチ」と名付けたアルバム300枚を自主プレスしたが、それがたまたま、ラジオ関西(神戸)やラジオ京都(現KBS)のDJ番組で取り上げられた。

「帰って来たヨッパライ/フォーク・クルセダーズ」
https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw
 
 アルバム「ハレンチ」収録の「帰ってきたヨッパライ」は、そのユニークな構成やコミカルな歌詞で、深夜ラジオを聴く受験生らを中心に、一気に話題になった。急遽メジャーレーベルからプロデビューの声がかかり、加藤和彦と北山修の二人は、京都のフォークステージで先輩格の端田宣彦(はしだのりひこ)に声をかけ、1967年末に三人で新「フォーク・クルセダーズ」としてプロデビューした。
 
 各自学業をかかえており、最初から一年限りという約束でのプロ活動だったが、次々とヒットを飛ばし、テレビなどの出演もいとわなかった。商業主義と言われようが、一年限りというお気楽な感覚で、自分たちが歌いたい曲を歌うというスタンスを貫いた。そんな姿勢は、解散後もはしだのりひこや杉田二郎らに引き継がれ、次々と新グループが結成された。
 
 70年代にかけて、ビリーバンバン、 トワ・エ・モワ、赤い鳥、ガロ、かぐや姫、海援隊などのグループやコンビが次々に登場、プロテスト色は背景に退き、大手プロダクションや大手レコード会社によるプロデュースも関わり、商業ベースでテレビ露出の多いタレントが活躍するようになった。

 その中で、ソロ活動の吉田拓郎や井上陽水が独自の路線を打ち出しつつあった。ボブ・ディランのように自作曲をソロで演じるまさに自作自演で、彼らは独自の世界を作り出した。陽水はレコード・アルバムの制作に心血をそそぎ、テレビなどの露出はほとんどなかった。一方で、拓郎は「つま恋コンサート」をかぐや姫と共同で企画主催するなど、ライブ活動を重視しながら、フォークをポップなメインカルチャーとして広めた。

「結婚しようよ/吉田拓郎」
 
 以後、彼らに追随するように、多くのシンガー・ソング・ライターがメジャーステージに登場し、やがてニューミュージックとして一からげにまとめられる時代に突入してゆく。これらの時代を実体験した者たちが語り合ったテレビ番組が残されている。山本コータローがMCをつとめ、重鎮杉田二郎に加えて、当時若手のさだまさしと松山千春の4人で語り合っている。メンバーの若さから、1980年代半ばの収録かと思われる。

「日本のフォーク・グラフティ」
 
(追補)
 吉田拓郎・井上陽水が出てきて、ニューミュージックへの流れを切り開いたと言われるが、これは時代状況と密接に関係している。

 関西フォーク系のプロテストソングは、反ベトナム戦争の流れをくみ、日本においては、70'反安保闘争という過剰な政治運動の季節を反映したものだった。

 露骨な反ベトナム戦争や反安保を歌っていなくても、プロテストという精神を共有していたわけだ。「山谷ブルース」も、このような政治の季節を背景にして歌われたのだ。
 
 70年が過ぎて安保が自動延長されると、政治闘争は沈静化し、一部の過激派と大多数の無関心派に分離する。そこで大仰な政治論争などよりも、自分個人の生き方を見直そうとする状況が生まれる。

 そのような背景の下で、拓郎・陽水らが発するメッセージが若者の心をとらえたのであった。「結婚しようよ」と、公衆の前で高らかに歌い上げられる状況が生じていたのであった。
 
 その切り替わりの時期に活動したのがフォーククルセダーズ。露骨なプロテスト系の歌詞は無い。しかし「青年は荒野をめざす」や「戦争は知らない」には、「この前の戦争」がどこかに意識されているし、北山修が杉田二郎に提供した「戦争を知らない子供たち」でも、あえて「知らない」と居直る必要があったわけである。

「戦争は知らない」

(「戦争は知らない」は、寺山修司が自己体験をもとに書いた詩であるが、それを独自の感性で見つけ出し取り上げたのは、加藤和彦だった。)

Ⅴ【音楽関連コラム】07.グループサウンズというブーム

【音楽関連コラム】07.グループサウンズというブーム


 1960年代後半に「グループサウンズ(GS)」と呼ばれた、エレキギターなどの演奏及び歌唱を行うグループが、すい星のごとくメインステージに登場し、社会現象にまでなった。

 ビートルズに代表される「ヴォーカル・アンド・インストルメンタル・グループ」などの影響下で、日本でもブームが引き起こされたとされる。何よりもエレクトリック・ギター(略称エレキ)の登場が決定的で、ビートルズ来日公演より先に来日し、一躍エレキギターのブームを引き起こしたベンチャーズの影響が大きい。

 元祖GSの一角をになった「寺内タケシとブルージーンズ」は、テレビ出演でベンチャーズのヒットナンバーを披露することが多く、そのコピーバンドかと思われていたが、ブルージーンズの1964年での初のコンサートで、なんとベンチャーズが前座をつとめるほどのメジャーであったらしい。
「ベンチャーズメドレー」(寺内タケシ&ブルージーンズ)
 一方「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」は、すでにバックバンドとして活躍していたが、ボーカルの井上忠夫をむかえて再編成、メロディーやハーモニーを重視した歌唱グループとして大ヒットした。メンバーは短髪でスーツ姿でステージをつとめ、GS=長髪=不良というイメージから免れたため、NHK紅白に連続出場を許された。その後、ムード歌謡路線にシフトしていった。
 「ブルー・シャトー」(ジャッキー吉川とブルーコメッツ) https://www.youtube.com/watch?v=jzRphgmA4J8

 もっともGSらしいGSとして、その礎を築いたとされるのが「田辺昭知とスパイダース」で、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどブリティッシュ・ビート・グループに強く影響を受たグループであった。一方で、堺正章・井上順・かまやつひろしなどの軽妙なやりとりで、コミックバンド的な人気もあった。
 「バンバンバン」(田辺昭知とスパイダース) https://www.youtube.com/watch?v=_lG9InOeIAc&t=0s&list=PLeK4RoQcX95DBouW1bTIaZFQMWag0i8dD&index=8 

 1965年のベンチャーズ来日コンサートで火がついたエレキブームは、安価な国産エレキギターの発売ともあいまって、全国各地の若者が、広場で納屋でテケテケテケとやりだした。そして翌年のビートルズ来日公演の頃には、ビートルズやローリングストーンズにならったヴォーカル・アンド・インストルメンタルという方向に収斂していった。

 雨後の筍のように生まれた素人グループサウンズは、自分たちで作詞作曲、演奏しかつ歌うというスタイルで、地方の片田舎の若者が、一躍テレビ・レコードにデビューするという現象が出現した。それまでは、プロの歌手が専属バックバンドの前で、プロの作詞家作曲家の手になる曲をうたうというのが基本であったため、このような自作自演は画期的であった。

 しかし当時の大手レコードレーベルは専属の著名作詞家・作曲家を抱えており、その道のプロの手になるものをレコード化するというシステムであったため、メジャーデビューするグループは、多くがそれに従わされた。そのため彼等オリジナルは、もっぱらローカルなコンサートやライブでしか演奏されないということになった。

 並行して、静かなブームを起こしていたプロテスト・フォークのアーティストたちは、そういう商業ベースを徹底拒否し、テレビ出演もせず、ひたすらローカル・ライブでひそかなヒットを飛ばしていた。そういう流れを打ち破ったのがフォーククルセダーズで、加藤・北山・端田という稀有な才能を擁して、メジャー世界でも自作自演を貫いた。彼ら以降、多くのシンガーソングライターたちが、メジャーステージでも活躍するようになったと言える。

 いずれにせよ、このようにしてメジャーデビューを果たしたグループサウンズは、名を挙げ出せばキリがないほどだが、ここではwikipediaによる、主要10グループ・サウンズというリストをあげておく。

ヴィレッジシンガーズ/オックス/カーナビーツ/ゴールデンカップス/スパイダース/ジャガーズ/ブルーコメッツ/タイガース/テンプターズ/ワイルドワンズ(theなどは略)

 とりわけ、1967年ごろのGS最盛期をリードしたのは、ジュリーこと沢田研二をボーカルとした「タイガース」と、ショーケンこと萩原健一を擁した「テンプターズ」だろうと思われる。これらグループもまた、メジャーデビューを果してからは、著名作詞作曲家の楽曲を演ずる商業エンタテナーとしてのスター、タレントであった。

 「シーサイド・バウンド」(ザ・タイガース) https://www.youtube.com/watch?v=J6Ps9kFsPxA
 「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ) https://www.youtube.com/watch?v=DfSzKWWWgZM

 プロの作家による曲は洗練されていて、広く大衆うけしてヒットを連発するが、一方で飽きられやすく、1968年後半になると衰退の兆しをみせた。その上に、GS=長髪=不良という短絡思考の大人たちの影響で、GSコンサートを観に行くと停学処分とする高校が続出したり、GSにはコンサート会場を提供しないという劇場や自治体ホールなどが多くなった。NHKなどは、長髪のグループには紅白などに出場を認めないといった愚行さえ行った。

 1969年になると、人気グループから主要メンバーが相次いで脱退するなどして、グループの解散も増え、ムード歌謡など別路線に転向するグループなども現れ、人気は急激に下降した。同年夏を迎える頃には、完全にGSブームは終焉を迎え、ほとんどのグループが解散・自然消滅という流れをたどった。

 その後、人気グループのリード・ヴォーカルなどは、解散後も歌手やミュージシャン、俳優、またタレントとして芸能界の第一線で活躍し続けているものも多い。また、他メンバーの多くも、俳優や作曲家、音楽プロデューサー、芸能事務所経営者等として、芸能界に関わっている。

 かくしてグループサウンズは立ち消えていったが、その後の数多くのシンガーソングライターたちの出現地盤を提供し、プロとアマチュアの垣根を取り払った功績は大きい。そして、同時並行的にブームを為したフォークソング・グループなどと共に、後のニューミュージックやJポップの隆盛の基盤を築いたと言える。

Ⅴ【音楽関連コラム】06.「マンマ・ミーア!」 (映画)

【音楽関連コラム】06.「マンマ・ミーア!」 (映画)


 映画音楽ではなく、先に曲があり、それをミュージカルに仕立てたものの映画化で、メリル・ストリープが元気なオバサンを主演。曲は '70年代にディスコミュージック界を席捲した ABBA のヒット曲集。
https://www.youtube.com/watch?v=unfzfe8f9NI&list=RDunfzfe8f9NI#t=21

 ギリシャ・エーゲ海のとある島で観光ホテルロッジを営むドナ(メリル)。一人娘ソフィと、そのフィアンセ スカイの結婚式が、催されることになっている。

 ドナはシングルマザーとしてソフィを育て上げたが、実の父親が誰かは明かさない。ドナの若き日の日記を見つけたソフィ、そこにはひと夏のバカンスの出来事が書かれていた。

 その夏の恋人が実の父に違いない・・・しかし何とドナ、ひと夏に三人もの男性と恋愛したのであった。

 母親には内緒で、三人全部に式への招待状を出して、本当の父親を見つけようという魂胆のソフィたち、さて招待客たちがはるばるやって来て、ドタバタ劇がはじまる。
https://www.youtube.com/watch?v=DGUmXBgPvrg&list=PLvahHkNXEAq8KpFNUI82DvupmEfpcs0CR&index=2

 ドナと友人のオバサン三人組と、父親候補者オジサン三人組とが、急造ステージで歌で対決するシーンなどが見もの。

 Mamma mia イタリア語で、英語の Oh My God に相等、驚いたときに「おっかぁ!!」と叫ぶようなもんだろうか。シングルライフの中高年女性軍に、もりもりと元気が沸いてくるミュージカルです(笑)

ABBAの曲リストなどはこちらで https://ja.wikipedia.org/wiki/ABBA

Ⅴ【音楽関連コラム】05.「禁じられた遊び」

【音楽関連コラム】05.「禁じられた遊び」


「禁じられた遊び」 ルネ・クレマン監督 ナルシソ・イエペス音楽(ギター)

 初見は小学校の映画鑑賞、講堂のムシロ敷きに平すわりして団体で観た。当時は戦争という背景なども分らず、子供心に「なんでこんな暗い映画を見せるんだ」と怒ってた。

 高校生の時、質流れの中古ギターを買って、付属していた薄っぺらい教本の最初に出てきたのが「愛のロマンス」、これは禁じられた遊びのテーマ曲じゃないかと気がついた。諸例にもれず、その数小節を弾くまね事だけでギターは挫折する。

 その後テレビなどで何度か観て、「太陽がいっぱい」の社会派ルネ・クレマンと知り、名作と理解するようになった。

「太陽がいっぱい」
 ちなみに、この「太陽・・・」のラストシーン、企みが成功し、充足してビーチで寝そべるアラン・ドロンの背景に流れる、甘く切ない音楽を担当したのがニノ・ロータ。フェリーニの映画ではすばらしい情熱で音楽を創りだしたが、この音楽にに関しては水臭い感想を残している。

 「フランスのあまり知らない監督から音楽を作れと言ってきたので、適当に作って送り返した」・・・名曲は、かくして生れるのであるか。

Ⅴ【音楽関連コラム】04.映画【第三の男】”The Third Man”

【音楽関連コラム】04.映画【第三の男】”The Third Man”


 監督 キャロル・リード 原作/脚本 グレアム・グリーン 出演  ジョゼフ・コットン/オーソン・ウェルズ (1949/英・米)
https://www.youtube.com/watch?v=2wlKhPtq5J8 (trailer)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E3%81%AE%E7%94%B7 (wikipedia)

 第二次大戦終戦直後、米英仏ソの四カ国による分割統治下にあるウィーンを舞台に、親友ハリー・ライムを訪ねてきたアメリカ人の三文作家ホリー・マーチンスを中心にして、謎の男ハリー・ライムをめぐるサスペンスが展開される。オーソン・ウェルズ扮するハリーは、物語の中盤までいっさいその姿を見せない。

 ハリー・ライムに招かれてウィーンにやって来たホリーは、そのハリーが事故死したと知らされ、その死に疑惑を抱いたことから事件に巻き込まれてゆく。映画は、ホリーが探偵役を担う形で進められる。ハリーを犯罪人として追いかける英人MPのキャロウェイ少佐や、ハリーの恋人で女優アンナ、そして没落貴族らしき男爵や実業家風の謎のルーマニア人、さらにハリーの主治医などいわくありげなハリーの関係者が登場し、やがてハリーは闇稼業に手を染めており、人命にもかかわるインチキ医薬品の密売で稼いでいたことが分かって来る。

 映画中盤になって、やっとハリーが姿をあらわし、闇にもぐって生きていることが分かる。ハリーの替え玉を事故死させたときに、遺体を運ぶ男爵とルーマニア人以外に、その場で目撃されたもう一人の男が「第三の男」ハリーだったというわけである。以降、サスペンスは急展開するのだが、第二次大戦直後で連合軍占領下にあるウィーンは、闇屋が暗躍しており、同じく敗戦国日本の戦後闇市を髣髴させて興味深い。

 また、英人MP少佐やホリーがハリーを追い詰めてゆく、ウィーンの街の地下に迷路のように張り巡らされた巨大下水道は、ハプスブルグ家の都として繁栄した華の都ウィーンの、一方の歴史の暗部を象徴しているようで面白い。また、子供のころ太っちょでいじめにもあった大男のオーソン・ウェルズは、どうみても俊敏そうには見えないのだが、地下下水道の逃走シーンでは、モノクロ映像でのライトニングなどの映像技術で、サスペンスのラストシーンを飾っている。

 映画「第三の男」は、フィルム・ノワール(暗い映画)に属する作品とされる。フィルム・ノワールはフランス語だが、1940年代前半から1950年代後期にかけて、主にアメリカで製作された犯罪映画を指し、ドイツ表現主義にも通じる影やコントラストを多用した映像で、行き場のない閉塞感が作品全体を覆っている。

 多くのフィルム・ノワールには、男を堕落させる「ファム・ファタール(運命の女)」が登場し、また私立探偵、警官、無法者などの役割も必須とされ、これらの登場人物は堕落または破綻の兆候を示していることが多い。それらはミステリー小説のプロトコルでもあるのだが、そういえば「第三の男」の原作・脚本はミステリー小説の名手グレアム・グリーンであることもうなづけるところである。

 オーソン・ウェルズは子供のころから傍若無人な性格の問題児で、かつ才能を発揮する天才児でもあったようだ。ウェルズは16歳で舞台俳優としてデビューし、その後もディレクター、演出家、俳優など多彩な演劇人として活躍した。1938年のラジオドラマでは、H.G.ウェルズのSF小説の翻案「宇宙戦争」を放送する際、火星人襲来の臨時ニュースで始め、本物のニュースと間違われパニックを引き起こすという有名な事件を起こした。

 火星人襲来事件で有名になったウェルズは、ハリウッドに招かれ映画製作に携わり、新聞王ハーストをモデルに「市民ケーン」を製作すると、その画期的な構成と斬新な撮影手法が高く評価されたが、ハースト系の新聞による上映妨害などで、興行的には惨敗した。そのためハリウッドでの発言力は低下し、自分の企画が実現できない状況に置かれた。

 その後ウェルズは、活路を「存在感で見せる怪優」に見出した。演技力だけでなく、ウィットに富んだ台詞を自身で考え、それらは「第三の男」のハリー・ライム役で遺憾なく発揮された。「ボルジア家の圧政はルネサンスを生んだが、スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義は何を生んだ?・・・鳩時計だとさ」という台詞は有名である。


p.s. 映画とは関係ないが、半世紀以上前の高校のフォークダンスの話。秋の体育祭の前夜祭として、グラウンドでキャンプファイヤーを焚いてフォークダンス大会が催される。なぜかフォークダンスだけは、女生徒の方から誘いを掛けるという不文律があって、事前に誘いが掛からない男子は、ひたすら微かな期待を残して自宅で待ち続けるという、悩ましい時を過ごすことになる。

 流れるダンス音楽はオクラホマミキサー、マイムマイムなど定番だが、大会のラストになると、この「第三の男」の曲に合わせてのダンスがあり、他のにくらべてダンスが難しかった記憶がある。それが終わるとフィナーレとなって、カップルは肩を組んでそばの大寺院の真っ暗な境内に消えてゆくという、変な高校だった(笑)

 それはさておき、「第三の男」の曲はこの催しの時に初めて聞いたわけで、間違いなくフォークダンスに使われていたはず。しかしネットなどでたずねてみても、「第三の男」のフォークダンスを知っているという人はひとりも現れない。わが母校だけのオリジナルだったのだろうか?

Ⅴ【音楽関連コラム】03.連続TV映画『Route 66』

【音楽関連コラム】03.連続TV映画『Route 66』


 『Route 66』は、昭和37年ごろNHKで放映された、なつかしの連続TVムービー。ロサンゼルスとシカゴを結ぶ大陸横断道路「ル-ト66」を、二人の若者バズとトッドがコルベット・ステイングレ-でドライブするロードムービー。
https://www.youtube.com/watch?v=ebOdXvYF27E&t=4s


 ナットキングコ-ルの歌うテーマ曲「ゲッチョ-キックス・オンナルートシックステイシックス・・・」が、いかにも心地よい。

 当時の日本ではスポーツカーなど望むべくもなく、若者は国鉄周遊券などで低予算旅行。寝袋を入れた横広の登山リュックを担いで「カニ族」と呼ばれた。


 ジョン・スタインベック 『怒りの葡萄』では、1930年代の大恐慌の時代、オクラホマ州はじめアメリカ中西部で深刻化した「ダストボウル(大砂嵐)」で、耕作不能となって流民となった農民の、苦難の移住の様子を描く。
http://cinepara.iinaa.net/The_Grapes_of_Wrath.html


 彼らが幌馬車でたどった「ルート66」は、やがて自動車道となり、1960年代のTV映画『ルート66』では、シボレー・コルベットに乗った2人の若者、トッドとバズのロードムービーとして登場した。
https://www.youtube.com/watch?v=ebOdXvYF27E


 そして、ダストボウル時代にカリフォルニアに移住したオーキーの一人、フォークシンガーのウディ・ガスリーを知ったボブ・ディランは、ガスリーの曲を聴いて衝撃を受けたという。


 彼らはカリフォルニアなどの西海岸に至り、小農となったり労働者となったり、そして末裔はヒッピーにもなった。この辺をたどると、トランプの支持者「ヒルビリー」とはまた別の下層白人という姿も見えて来る。彼らはサンダースのような左系民主党を支持したのではないだろうか。