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Ⅷ【生活文化コラム】06.【猫のことなど】

【生活文化コラム】06.【猫のことなど】


(一)
 子どもの頃、何代かにわたって猫を飼ってもらったが、雌猫は子どもを生むと困ると言って雄猫ばかりだった。雄猫は、数年すると帰ってこなくなる。いまと違って、猫は放し飼い、勝手に餌を食べて、昼寝して、夜になると遊びに出かける。そして突然帰って来なくなる。母親にたずねると、「猫獲り」というのが来て、捉まえて三味線の皮用に売られるのだそうだ。

 学校から帰ると、カバンを放り出して一日中猫と遊んでいた。可愛がるというよりオモチャにしていじる感じなので、猫自身はいささか迷惑そうだった。犬と違って、猫はマイペースに振る舞うので、飼っているというより、勝手に共棲している感じだった。

 小学校低学年で作文を書かされると、毎回三行で終わってしまう。毎回、原稿用紙に向かうと、今日は良い天気でした、明日も良い天気でしょう、おわり、なんて感じで終わってしまう。先生は、思ったことを素直に書きなさいというが、何も思っていないのだから、書きようがないのだ。

 あるとき、仕方なく猫のことを書きだした。そうしたら、何枚でも書けるのに気付いた。一日中猫と遊んでいるのだから、そりゃあいくらでも書くことが出て来る。次回も「猫のこと、つづき」とか題して、毎回連載することにした(笑) かくして地域の文集にも掲載されることとなり、作文の上手な生徒と思われるようになった。

 いま思うと、文章を書く基本がここにある。先生が言うように「思ったこと」を書くのではなく、「見たこと、観察したこと」を書くのだと思う。その中で必然的に表れてくる個性を「文体」と言うのだと思うのでアリマス。

(二)
 同じく子どもの頃、九十歳近い婆ちゃんはトイレが近くなったからと、裏の離れに住むようになった。当時飼っていた雌猫も、祖母と一緒に離れで生活していた。雌は用心深くてあまり外に出ないので、長生きして、人間だとすればこちらも老婆の年齢になっていた。

 祖母は離れで独り、寝る前に一升瓶に入った合成の安い葡萄酒を、湯呑に一杯ついで飲む習慣だった。一杯やりながら、話し相手が居ないので、猫に話しかけたりしているのだが、その姿が裸電球に照らされて、窓に影絵として映し出される。夜にトイレに行くと、その影絵がゆらゆらと見えてきて、子供心には怖ろしげに映ったものであった(笑)

 そのうちに、祖母が亡くなった。独りぼっちに残された猫が可哀そうだと、家族は祖母の寝床を敷いたままに残してやっていた。気落ちしたのか、雌猫もあまり餌を食べなくなり、祖母の布団に潜りこんで独りで寝ていたが、一週間ほどした朝、そのまま寝床で冷たくなっていた。歳が歳だから、老衰で死んだのだろうと家族で話した。飼い主の後を追うというと因縁話めくが、これは実際の経験だった。

(三)
 「両方に ひげのあるなり 猫の恋」・・・漱石の『猫』で、苦沙弥先生がこの句を目にして一人で大笑いする、なんてシーンがあったかと思う。江戸時代の俳人小西来山の句らしい。「猫の恋」はれっきとした春の季語で、歳時記にも載っているようだ。

Ⅷ【生活文化コラム】05.【十円硬貨の記憶】

【生活文化コラム】05.【十円硬貨の記憶】


 人生最初の記憶は何だったのか。父親が、祖母の田舎である富山に行ってきて、駅で受けとった釣り銭を示しながら、「これが新しい10円硬貨だ」と見せていたという記憶がある。

 十円銅貨は昭和26年から製造を始めたらしい。となると、わたし自身は昭和23年生まれだから、3歳前後の記憶となる。三島由紀夫は「仮面の告白」で、生れたときの産湯を使う時の光景を憶えているなどとデタラメを書いている。

 それはありえないが、3歳の記憶となると、結構早い時期だと思っていた。しかし調べてみると、発行されて流通しだしたのは28年かららしい。それだと5歳の時となるので、それならあり得ると納得した。

 十円硬貨の表側には、宇治平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)が刻印されている。鳳凰とは、「鳳」が雄、「凰」が雌をあらわす伝説上の霊鳥であり、鳳凰堂の屋根の両端に鳳凰が取り付けられているのが、鳳凰堂という通称の所以である。

 その十円硬貨の鳳凰に、雌雄の区別があるという噂話がある。ネット上で調べても、尻尾が垂れ下がっているのが雄で、跳ね上がっているのが雌だとか、右が雄で左が雌だと断言しているものまである。


 実際には、一枚で雌雄の区別があるのではなく、発行初期のギザ十と呼ばれるタイプのコインに、両方ともに尾の下がったのがあるということだ。これはおそらく、途中から打刻する型枠が変更されたのだろうと思われる。しかし平等院の公式webでは、鳳凰堂の鳳凰に雌雄の違いは無いと断言されている。

 小学生の頃、昭和31年発行の10円硬貨には、製造ミスで金が混じっているので高く売れると、小学生たちの間で噂になった。当時の小遣いは、そのつど10円玉一個もらって駄菓子屋に走るのだが、目を皿のようにして31年の硬貨じゃないかと確認した。

 結局、一度も巡り合わなかった。たまたまその年は、前年までの硬貨がだぶついていたので、一枚も製造されなかったということを、のちになってから知った。
+ネットでこんなのが見つかったが、昭和33年まではギザ十だったはずで、これは偽物と思われる。

 ちなみにギザ十とは、コインの周囲にヘリにギザギザの刻みがある十円玉のことで、昭和26年から昭和33年の間に製造された。本来は、金貨や銀貨の地金価値の高いコインで、周囲を削って地金が盗まれるのを避けるために付けられたもので、十円銅貨のような価値の低いものは、たんなる飾りに過ぎず、現在のものにはこの飾りは無い。

(追補)
 子供が小さい頃、平等院の近くに住んでいて、子供たちを連れてよく平等院に行った。改装前でまだ世界遺産の指定もなく、がらがらに空いていた。鳳凰堂の手前の池で、お尻を向けて股覗きして十円玉を池に投げ込むとラッキーがやってくるぞと、でたらめを教えて遊んでた。しばらくして元の場所に戻ると、女子大生らしきグループが、まねして股覗きしてコインを投げ込んでた。

 この話をネットで書いたら、世界遺産にそんなことするなと怒られたが、もっと古き良き時代だった。お寺のお賽銭にもなるし(笑)

Ⅷ【生活文化コラム】04.【内裏雛の左右は?】

【生活文化コラム】04.【内裏雛の左右は?】


 そろそろ女の子のいる家庭では雛飾りを並べる時期だが、ここで問題になるのが男雛と女雛を左右いずれに並べるかである。ネットなどで画像を探してみると、おおむね男雛が左、女雛が右となっている。

 しかし京都など関西では、逆に向かって右に男雛がくるとされ、実はこれが本来の並びだという。

 古くから「左方上位」という考え方があり、たとえば律令官制で左大臣と右大臣では、左大臣が上位とされる。となれば帝と妃を模したとされる内裏雛でも、男性中心社会でしかも帝なのだから、当然左に男雛ということになる。ところがこの「左右」は、あくまで帝の位置から見てということになり、つまり内裏雛側からすれば、こちらから向かって右側が「左」ということになり、京都方式の向かって右に男雛がくるというのが正しいことになる。

 これは平安京の左京・右京も、左右が逆に見えるのと同じ理屈である。つまり帝が内裏で南面に向かって立ち、その左手側に位置するのを左京としたわけで、北を上とする現在の地図では逆になる。左近の桜・右近の立花というのも同じで、紫宸殿から南面される帝からする左右で、紫宸殿に向かって見れば左右逆になる。

 明治帝の御真影とされるものも、左側(つまり向かって右)に帝が来ている。ところが大正天皇以降では、これが逆になってくる。実は大正天皇の御真影の時から、西洋式に倣って並べたからだという。

 私が子供の時、奥の間の上に掲げてあった昭和天皇皇后の御真影も、かくのごとくであったと記憶している。そして令和の時代になっても、天皇・皇后は必ず同じ左右に並ばれることになっている。例えば御夫妻で海外を訪問されるとき、西洋の国王と妃と逆の並びだったら、違和感があるだろうから。

 あとは余談だが、京都五山の送り火で、東山にあるメインの大文字は格別として、金閣寺裏山に、小さ目の「左大文字」というのがある。これに内裏雛と同じ原理を当てはめると「右大文字」になるはずではないかという疑問がわく。まあ地域の村民が、自分たちの祖先を送るために勝手に始めた山焼きが起源だというから、これは帝などの雲の上のお方とは関わりのないことなのかもしれない。

 さらに戯れごとになるが、ガッツ石松がテレビのクイズ番組に出て、「太陽はどちらから上る?」という問題に「左リッ!」と答えたというヨタ話がある。となれば、ガッツは常に南面を向いて立つという、帝と同じ思考回路をしているのであろうか(笑)

Ⅷ【生活文化コラム】03.【中秋の名月に寄す】

【生活文化コラム】03.【中秋の名月に寄す】(2017/10/04記)


  「名月も スマホで撮れば こんなもん」(笑)

 今夜が中秋の名月だというので、いちおう夜空を見上げて写真を撮ってみたが、これじゃいかんと思って、いくつか画像を探してみた。

  「両方に ひげのあるなり 猫の恋」 小西来山

 「猫の恋」はれっきとした春の季語で、漱石は歳時記でこの句を見つけて、ひとり笑いころげていたという。しかし、これは中秋の名月とは関係ない。
 
 印象的な月のイメージといえば、映画『E.T.』の月面にかかる空飛ぶ自転車の陰。閑話休題。
 
 旧暦(太陰暦)で8月15日の月を「中秋の名月」と呼ぶらしい。今年(2017年)は、本日10月4日がそれに当たる。しかし今夜の月は、十五夜(満月)ではなくて十三夜月だとのこと。つまり10月6日が、本来の満月になる。
 
 なぜそのような事になるかというと、よく分からないが、月の公転が楕円軌道になっているからだということだ。まあ、そんなこと分からなくても、兎に角、月見団子でも食って月を眺めればいい。なぜ兎(うさぎ)に角があるのか、それもほうっておこう。

 ところで、満ち欠けする月には、風情のある呼び名が付けられている。

 15日目=十五夜・満月・望月[もちづき] 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の・・・」と藤原道長がうたったとされるが、これは時の権力者のおごりが目だってあまり風情がない。

  「君や来む われや行かむの いさよひに 真木の板戸も ささず寝にけり」(古今)

 16日目=十六夜[いざよい] 日没と同時に昇る満月よりは、少し遅れて「いざよい=ためらい」がちに出てくるからだそうだが、『十六夜日記』などがあるように、古代の人はその奥ゆかしさを愛でたのかもしれない。
 
 以降、17日目= 立待月[たちまちづき]、18日目=居待月[いまちづき]、19日目=臥待月[ふしまちづき]、20日目=寝待月[ねまちづき] と続く。一日ごとに月の出がずれてゆくので、それぞれ、月の出るのを、「立って待つ」、「座って待つ」、「横になって待つ」、「寝床に入って待つ」ということになる。月を待つことになっているが、これを恋人や愛人を待つ気持と考えれば、そのまま和歌になるのである(笑)
 
 20日目は更待月[ふけまちづき]とも言い、文字どおり夜更けまで待つわけですが、実際には今の午后10時ごろらしく、昔の人はきわめて早寝だったようだ。そりゃあテレビも無ければ電灯もないから、寝るしかないか。

 26日目ごろ=有明の月[ありあけのつき] 明け方になってやっと昇ってくる。しばらくすると陽が昇って来て、月が有るまま明けるということだ。いにしえの恋人たちが「後朝[きぬぎぬ]の別れ」をする時刻だな、なんとなくこころ残りな気もちを抱きながら。
 
 下弦に比べて上弦の時期の月には、これと言った呼び方が少ない。考えてみると、この月の前半は、日が暮れた時にすでに空に昇った状態で見えてくるわけで、「月の出を待つ」という心の待機時間がない。それで、もろもろの情感が生まれる余地がないということだろう。

 せいぜいが「三日月」、陽が沈んだあと西の空に見え出し、まもなく沈んでゆくということで、子供心にも、夕暮れ時の情感をかもし出す月だ。行水を済ませ、浴衣を着せてもらった子供が、うちわを掲げて西の空を仰ぎ見るような、紋切型の構図などが浮んでくる。
 
 「十三夜」の月は、十五夜と並んで美しい月とされる。月見の時期に、片方だけ観て済ますのを「片月見」といって避けるしきたりがある。もっともこれは、江戸の遊郭では双方の月を観る宴を催し、客を二度呼び寄せるという営業戦略から始まったとも言われる。土用の丑のうなぎや、バレンタインデーのチョコみたいに、業者の仕掛けともなると、急に俗っぽくなってしまう。

 樋口一葉が『十三夜』という作品を書いている。当時の女性の置かれた、満ち足りなさを描いたものに「十三夜」と名付けたのは、満月に満たない微妙な欠落感を重ねたからなのか。
 
  「いたづらに冴えざえと見ゆ下り月」  何爺

Ⅷ【生活文化コラム】02.【啓蟄】

【生活文化コラム】02.【啓蟄】


 今日(2015/3/5)は、二十四節気の「啓蟄」にあたるらしい。外はいかにもふさわしい陽気なので、久しぶりにコタツからもぞもぞ這い出してみた。
   「啓蟄や 我も仲間なり コタツムリ」(笑)


 ググってみると、
   「啓蟄や 獄にまだある 地下の牢 辻井喬木」

 虚子の句などと並んで、まったく違和感のある句が出てきた。セゾングループの総帥として一世を風靡した提清二氏が、詩人・作家としては「辻井喬」というペンネームを使っていたから、「辻井喬木」も氏の俳号だと思われる。戦前には共産党員としても活動したので、逮捕歴は確認できないが、句の発想につながる体験はあったと想像される。句としてすぐれているわけでもないが、意外なものに出くわした感で記してみた。
 
 ほかに、この時期の季語として「猫の恋」というのもある。

   「両方に 髭があるなり 猫の恋 小西来山」

 芭蕉と同時期の上方の俳人らしいが、全く知らない人物だった。歳時記で見つけて漱石が笑い転げたという逸話で、なんとなくこの句を知っていた。かつての猫は放し飼いだったので、この季節、屋根上から、夜な夜な雄猫のナンパ鳴きが聞こえてきたもんだ(笑)

   「猫の恋やむとき閨の朧月  芭蕉」


*拙句連投
見つめ合い値踏みもするぞ猫の恋
満月の夜もありにけり猫の恋
猫の恋今やひたすら家事に追われ


Ⅷ【生活文化コラム】01.【半ドン効果】

【生活文化コラム】01.【半ドン効果】


 『「半ドン」よ、もう一度:令和時代“温故知新”の働き方改革』とのタイトルで、次のような記事を目にした。
 ただし、この記事にはいくつかの誤解があるようだ。半ドンのドンがオランダ語で日曜日を意味する"zondag”から来ているようで、その半分休みだから「半ドン」というのは合点がいく。

 しかしこれは、明治のころ、いまだ庶民に時計が普及していないので、皇居などで大砲の空砲をドンと鳴らして、正午を知らせたところから来ている。従って語源がzondagにあるかどうかはともかく、庶民は大砲の「ドン」という音のことと認識していたはずである。

 漱石の「坊ちゃん」でも、「腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする」と使われていて、午砲と書いてドンと読ませている。
 語源はおくとしても、「昭和の末ごろ」に「法定労働時間が法改正されて、半ドンが多く採用された」というのは、明かな間違いだろう。実際には、明治9年に公官庁で土曜半休となったとされているし、学校や民間企業でも、少なくjとも、昭和30年代に兄が中堅企業に就職し、私は小学生になったった頃には、ともに「半ドン」を満喫していた記憶がある。

 小学生の頃には、メーデー(当時は5/1に固定)は平日でも、半ドンにして午后は休みにされた。これは教職員組合員が大多数の教師が、労働者の祭りメーデーに参加できるようにという配慮で、子供には関係ないのだが。

 あるいは、近所の鎮守の森の神社の秋祭りでは、その氏子地域の生徒だけが半ドンで帰してもらえた。それから張り切って神輿を担いだものだ。

 この時代には、比較的安直に半ドンが決められたようで、さすがに休日にするには全体的な判断が必要だろうが、半ドンは簡単に現場レベルで決められる融通性があったようだ。

 いずれにせよ、記事の趣旨は「若者の労働意識に”半ドン”が与える効果」みたいなもので、それなりの意味があるかも知れない。

 丸ごと一日休みにして若者を朝寝させておくよりも、いったん出社なり登校してから、昼から解放されて街中で活動させる方が、経済活動としてはプラス効果があるだろうし、健康健全性にも寄与するかも知れぬ。

Ⅶ【サブカル関連コラム】13.【ジョーク・ツイートetc】

【サブカル関連コラム】13.【ジョーク・ツイートetc】


#ジョーク1 戦時中、街中のあちこちに「贅沢は敵だ!」というスローガンが貼られていた。そのスローガンに、ひと文字「素」を書き入れたツワモノがいたらしい。「贅沢は素敵だ!」、特高が血眼になって捜索したとか。


#ジョーク2 広告チラシのポスティングのバイトしてた。「猛犬に注意!」というプレートが貼ってある家が多く、キャンキャン吼えるチワワとかを見ると蹴っ飛ばしたくなる。とある家の郵便箱に入れようとしたら、同じようなプラスティックのプレートに「猛獣に注意!」 これには、さすがにビビった。


#ジョーク3 長距離ドライブしての夕暮れ時、やっと甲府市域に入ったあたりの国道沿い。畑の中に立てられた大きな看板が目に入った。「巨乳愛す!」 目をこすってよく見なおしたら「巨峰アイス」だった。疲れた脳内で誤変換されたもよう。


#ジョーク4 京都府丹波地方から但馬地方に向かう国道9号線。「千円で食べ放題 但馬肉」という看板が目に飛び込んできた。よだれをたらしそうになって、思わずハンドルきって入ろうとしたら、助手席の知人がぼそっと言う。「あれは”但し馬肉”と読むんだよ」


#ジョーク5 車で走ってたら「日本 特売!」という旗が立っていて、ギョっとした。よく見たら、旗の上部には横書きで小さく「本日」、その下に縦書きで「特売!」と書かれた旗が風にはためいて、裏から見てたのだった。


#ジョーク6 富士山の裾野に広がる青木ヶ原樹海は、千年以上かけて自生した原始林が広々とひろがる。樹々で迷路のようになっていて、一旦この中に迷い込むとなかなか出られないと言われる。そのため自殺の名所ともなり、自殺者が後を絶たない。中には恨みや呪いの言葉を残す自殺者も多いとされる。その一つに「呪ってやる」と書かれたものがあった。しかしよく見ると「祝ってやる」となっていた。いったい何を「祝う」のだろうか(笑)


#ジョーク7 ソ連のユーリ・ガガーリンが、宇宙周回飛行に成功し無事に帰還した時、ロシアの二人の重鎮が彼を出迎えた。

・フルシチョフソ連首相:勇敢なる我が同志ガガーリンよ、我がソ連共産党の綱領では神の存在を否定しているが、宇宙でも神の姿を見なかっただろうな。
・ガガーリン:はい、神などまったく見ませんでした。

・ロシア正教大司教:神の忠実なるしもべガガーリンよ、神は宇宙からも汝を見守っておるぞ。
・ガガーリン:はい、神の御姿はしっかりと見えました。