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Ⅸ【歴史コラム】14.【皇道派・統制派、そして二・二六事件】

 【歴史コラム】14.【皇道派・統制派、そして二・二六事件】


 「皇道派」は、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、政財界の堕落を批判する陸軍士官学校(陸士)卒の若手将校たちが中心であったが、それに対して「統制派」は陸軍大学(陸大)出身者の上級エリートが主体で、陸軍の中堅幹部として、軍内の規律統制を尊重する穏健派が主体となった。


 皇道派は、「荒木貞夫」(大将)や「真崎甚三郎」(大将)をリーダーと仰ぎ、荒木が犬養内閣の陸軍大臣に就任し、陸軍内の主導権を握ると、真崎は参謀次長に就任し、実質上、参謀本部を取り仕切るようになった。荒木は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校らを東京の第1師団に集め、この頃から荒木・真崎の取り巻き連が皇道派と呼ばれるようになった。


 以前、荒木は教育総監部本部長、真崎は陸軍士官学校校長をつとめるなど、若手士官の教育に携わり、青年将校を中心に圧倒的な信望を集めていた。宇垣一成陸相のもとでの宇垣軍縮で、将校達の待遇が悪化し昇進も遅れると、青年将校たちの間で不平不満が激化、さらに昭和恐慌で農村が疲弊して、農村出身の青年将校たちは、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥などがその因を作っていると考えた。


 荒木や真崎は、日露戦争時期を理想とし、天皇親政のもとで国体を明徴にし、日本の国力強化、軍の拡大が必須で、それを拒んでいる「君側の奸」を討つべしと唱え、青年将校らの崇敬を一身に集めた。しかし荒木や真崎には、明確な国体像や国政のビジョンはなく、青年将校らは思想家「北一輝」の国家社会主義的な政体思想などに指導された。


 それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走る皇道派を、危険視する空気が強く、犬養内閣時に荒木貞夫陸軍大臣に断行された露骨な皇道派優遇人事に、陸軍中堅層が反発し結集した結果、それが「統制派」とされるようになった。統制派には、皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される陸軍省軍務局長の「永田鉄山」も、軍内での派閥行動には否定的な考えをもっていた。

 1934(s9)年11月には、皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画「陸軍士官学校事件」が発覚する。その背景には皇道派と統制派の抗争があったとされるが、解明されず曖昧に処理された。さらに翌1935(s10)年8月、皇道派青年将校に共感する相沢三郎中佐が、統制派の軍務局長永田鉄山少将を、陸軍省において斬殺するという「相沢事件(永田斬殺事件)」を引き起こす。

 これらの事件では、荒木・真崎の関与は示されなかったが、荒木は1934年1月病気で陸相を辞任した。後任候補として真崎を望んだが容れられず、真崎は教育総監に回ったが、1935年教育総監をも罷免される。荒木の辞職、真崎の更迭によって、皇道派は中央での基盤を失い、焦った皇道派青年将校らが二・二六事件の暴発を引き起こすことになる。

 二・二六事件が鎮圧されたあと、荒木・真崎は直接の関与なしとなったが予備役になり、その他の皇道派の将校も予備役に追いやられ、大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。統制派では、相沢事件で暗殺された永田鉄山に代って、「東条英機」が中心に立ち、陸軍内での対立は統制派の勝利となると、陸軍内での勢力を急速に拡大し政治色を増してゆき、最終的に、東条英機の下で、全体主義色の強い東条内閣を成立させるに至る。


 二・二六事件で岡田啓介首相が辞任した後、短命内閣が続くが、1937年6月待望された近衛文麿内閣が成立する。近衛文麿内閣は、組閣直後に盧溝橋事件が起こり、日中戦争(支那事変)が勃発、不拡大方針を発表するが、軍部のコントロールに苦慮する。東条英機は、このとき陸軍次官として軍部の意向を代表し、1940年7月の第2次近衛内閣で陸軍大臣に就任する。


 優柔不断な近衛首相が右往左往するなか、対米戦争必至となると、近衛は内閣を投げ出し、1941年10月東条英機が首相拝命、ハルノートを受けて日米開戦となる。ところが実はこれらの背景に、「コミンテルン」(第三インター・国際共産主義運動の指導組織だが事実上スターリン支配下のソ連指揮下にあった)の工作員による大きな影響があったという説がある。


 近衛文麿首相の周辺や軍部の統制派の周りには、コミンテルンの工作員が多数配置されていて、日米開戦を促進させたとされ、また、アメリカのF・ルーズベルト政権の内部にも、日本との開戦を工作したスパイが存在したとされる。しかしこれらには明確な証拠がなく、日本の歴史学者の多くからは陰謀論扱いされてきており、主として右翼系研究者などから指摘されることが多い。

 しかし事実上、スターリン・ソ連の都合の良いように展開したという状況証拠だけでなく、日米開戦の直前には「ゾルゲ事件」が発覚し、近衛内閣嘱託の尾崎秀実も工作員だったことが判明し、コミンテルン工作の一端を覗かせた。また、「ベノナ文書」として、米国に潜入したソ連スパイがモスクワに配信した多数の暗号電文が、ソ連崩壊後に公開され、その中にも、米側に日本との開戦を促す動きが残されている。

 ヒトラーのドイツとの開戦を必至とみていたスターリンは、極東で日本と対立する2方面作戦は避けたい。そのため、公的には日ソ不可侵条約を結び、裏では日本の中枢に工作員を送り込み、日本軍の大陸勢力を南進させるように仕向けた。南進によって英・仏・蘭および米の権益と対立し、最終的に米と交戦するように工作させたというわけである。

Ⅸ【歴史コラム】13.【北野天満宮など散策】

【歴史コラム】13.【北野天満宮など散策】(2021.02.19)


 北野天満宮は承知の通り、右大臣菅原道真公が藤原氏の讒言で、九州大宰府に左遷され、当地で没した後、都では落雷などの凶事がが相次ぎ、菅公の祟りだとして恐れられた。そこで、朝廷は菅公の官位を復し、御霊を鎮めるのにつとめ、40年以上して都の子供に託宣があり、現在地の北野に道真を祀る社殿を造営し、これが北野天満宮となった。

 本来は、雷神となった道真公の御霊を鎮めるために祀られたが、学問の神として広く信仰されるようになり、現在では受験の神様として、受験生の絵馬がたくさん奉納されている。また、梅の花をこよなく愛した道真公ゆかりの梅は、境内にくまなく植えられ、この時期、最盛期を迎えている。

 さて昼時となり腹もへったので、弁当を買って「船岡山」のベンチで食べることになった。この船岡山は、何の変哲もない100m程度の小高い丘だが、まさに平安京大内裏の真北に位置し、歴史上、幾度も文献に登場する。

 まず、枕草子では「岡は船岡」と称えられ、「徒然草」では、都の葬送の地として、鳥部野などと並べて挙げられている。保元の乱の後に、敗北した源為義一族がここで処刑され、応仁の乱の際には、西軍の陣地が築かれ、周辺は激しい戦闘で焼け落ちたが、「西陣」の名称はこれが所縁となった。

 さらに、森鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」という短編で、殉死を扱っている。明治天皇に殉死した乃木希典に衝撃を受けて、即日書き上げたと言われ、細川三斎の忠臣であった興津弥五右衛門は、三斎亡き後の始末をやり遂げ、殉死を願い出る。晴れて切腹を許された弥五右衛門は、細川家菩提寺の大徳寺高桐院を出て、切腹の場所とされた船岡山麓の仮屋まで、十八町の間に敷き詰められた藁筵の上を、晴れがましく歩んだという。

 なお、船岡山の東側には、織田信長を祀った建勲神社がある。船岡山は平安京の北方を護る四神相応の玄武に相当するとして、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められたが、実現しないままだったのを、明治天皇により創建されたという謂れをもつ。

 曇り空で寒いので、昼を済ませてその足で、紫野今宮神社の参道にある「あぶり餅」を食べに行った。あぶり餅については、かつて詳しく書いたので下記リンクに任せるが、近年は評判を呼んで満席が多かったが、今回は感染症の影響で、がらがらの座敷に上がってゆっくりできた。半世紀前の高校時代、授業をさぼって、ここにたむろして時間を潰した思い出が、よみがえって来た。
https://naniuji.hatenablog.com/entry/2019/03/30/175544

 ちなみに船岡山で食べた弁当は、北大路橋西詰にある「グリルはせがわ」の持ち帰り弁当、ここも通常は1時間以上待つのが状態だった。高校の同級生がここの息子で、半世紀以上前から営業している洋食屋だが、近年、SNSなどで評判になり、観光客でいっぱいとなった。ハンバーグ弁当がウリで、ここで弁当を買って、川を渡った府立植物園で食べると、半日を千円程度で過ごせるデートスポットです(笑)

 久々に京都市内を知人と二人で車で散策した。少々肌寒いが梅の時期というので、まずは「北野天満宮」に参った。感染症のせいで参拝客は少なく、駐車場もフリーで停められた。信仰心も色気もない年寄り二人なので、ろくな拝礼もせず、十数分ほどまわりを見まわして帰るというありさまだった。

(天神信仰について)
 菅原道真が左遷されたのち、雷神として怖れられたため祀られたのが天満宮、と理解してきたが、それ以前から天神信仰というのがあったようだ。記紀によると、古来「天津神(あまつかみ)」と「国津神(くにつかみ)」とされる神があり、その天津神が「天神」とされるようになった。天満宮が天神さまと呼ばれるのは、その天神信仰と重ねられたためだとされる。

 天津神とは、天孫降臨伝説で「高天原から地上の葦原中津国に降りた神様とその子孫」だとされ、葦原中津国つまり地上での神様である国津神と区別されるということである。天津神は、イザナギノミコトとイザナギノミコトから生まれた神様とされ、代表的なのがアマテラスオオミカミ(天照大御神)である。

 とまあ、ここまでは神話世界の話だが、ちょいと調べてみると、日本国の誕生につながる壮大な話となってくる。柳田國男によると、「天津神を奉ずる渡来民族(水田稲作農耕民)によって山に追われた先住民が山人であるとし、山人は国津神を報じた非稲作民であったとしている」ということである。

 これを私なりに噛み砕いてみると、もともと住んでいた「縄文人」を、大陸から先進文物を持ち込んだ渡来人系の「弥生人」が、先住民を東へ北へと追いやって行った歴史と重なる。つまり、縄文人の国津神を、弥生人の天津神が吸収合併していった歴史と繋がるのではないかと思われる。

 この先を考えると本一冊ぐらいになりそうだが、天(実際は大陸)から降臨した始祖の神様が、のちに雷神となって天から怒りを降り注いだ道真公の呪いと重なり、全国の「天神信仰」と重なりあわさって、各地に祀られたのではないか。とすれば、怒りの神が、学問など知恵の神を併せ持つようになった理由も納得できるわけだ(笑)

Ⅸ【歴史コラム】12.【映画「ゴッドファーザーⅡ」とキューバ革命】

【歴史コラム】12.【映画「ゴッドファーザーⅡ」とキューバ革命】


 1958年の末、キューバでは、カストロやゲバラの指揮する革命軍がハバナめざして進撃していた。アメリカ傀儡のバチスタ政権はほぼ崩壊の状況となり、12月31日の新春パーティで、バチスタは辞任演説をしている最中、宮殿にも人民が闖入してきて、翌1月1日そのまま隣国に亡命した。まもなく首都ハバナは革命軍によって制圧され、8日にはカストロがハバナ入りし、名実ともに革命軍の勝利が確定した。

 このバチスタ政権崩壊の模様は、映画「ゴッドファーザーⅡ」で描かれている。マイケルは、キューバに君臨するマフィアのドンに招かれ、バチスタ大統領主催の年越しパーティーに臨席する。そのバチスタが演説するさなか、革命軍が乱入してきて騒乱が会場を襲う。マイケルは群衆の中を空港へ逃げるが、途中で見かけた兄フレドは、マイケルを恐れるように群衆に紛れる。ドラマの重要な伏線が、歴史的事件を背景に描かれる。



Ⅸ【歴史コラム】11.【お江戸の経済政策】

【歴史コラム】11.【お江戸の経済政策】


 経済は難しいので正面からは語れないが、半世紀前の学生時代には、なぜか江戸時代の経済史を研究する教官のゼミだったのだ。

 将軍綱吉・荻原重秀の拡大路線から、白石から吉宗の緊縮財政、さらに田沼の拡大、松平定信の緊縮引き締め、続く家斉大御所の弛緩財政と、交互に続いた。拡大か緊縮かは、時の経済情勢に対応して行うというのが、現在の財政・金融政策の常識だが、当時はケインズ理論もマクロ経済学も無いどころか、産業経済社会も成立していなかった。

 経済指標も揃っていない時代に、何を目安にしたかと言うと、やはり「米」であり、米本位制などともいわれる。戦国が終わって間もない江戸時代の前半では、吉宗の頃あたりまで、米産出量と人口がそろって伸びていた。米本位制の江戸の世の中では、この二つがバランスとって上昇している間はなんとかなる。そして、それが頭打ちになるとその矛盾が表面化してくる。

 江戸のような大都市に、非生産階級である武士が集中するような、極端な大規模消費経済が出現すると、当然、物価騰貴が進むとともに、恒常的な米価低下によって、幕府・大名・家臣ら武士階級は窮乏化する。

 産業化が進んでいない状態で、いびつな消費経済が進むと、その金は産業資本に転化されることなく、経済拡張は行詰り、いきつくところ商人資本、ないし金融投機資本に流れ込むしかない。荻原、田沼、大御所時代の失敗は、ここに起因する。平成のバブルのようなもんだ。

 これは、封建社会の根幹を担っている、武士と農民の没落を意味するわけで、つまり封建的支配の根幹基盤が崩壊してゆくのである。米将軍と呼ばれた吉宗が、何をいちばん気にかけたかと言うと、当然、米相場であり、米価低落を阻止する政策を採る。これはつまり緊縮政策となる。

 白石、吉宗、定信らの政策には経済発展などという概念はない。封建経済にもとづく幕藩体制を維持するためには、必然的に緊縮政治を行うことになる。それは彼らの限界であるとともに、江戸幕藩体制の限界でもあったと思われる。

(追補)
 グラフは江戸期の人口趨勢と耕地面積の増分(実質的に米収量と見てよい)の対比である。江戸前半期(元禄末)までは、江戸時代の初期は、安定した政治のもとで、順調に人口と米の収穫高は比例して増加している。

 ところが、第8代将軍吉宗が「享保の改革」を始めた時期から、ともに横ばいを始める。原因はいろいろ挙げられるが、一つは、あらたに新田開発に向いた土地が不足してきたことがある。また、京都・大坂・江戸などの大消費経済都市が出現したことは、物価高や住居不足などで、農村のように沢山の子供を養えないなど、諸理由がある。

 吉宗は「米将軍」と呼ばれるほど米価対策に腐心したが、やはり消費経済が進み過ぎると幕藩体制に軋みが出るのを感じて、多岐にわたる制度改革を実施した。その後も、田沼時代の後をうけて「寛政の改革」、大御所時代の後には「天保の改革」と続くが、後になるほど強権的な引き締めばかりになり、その改革効果も薄くなる。

 つまるところ、封建経済にとって、経済成長が不都合なことを示している。米生産と人口がバランスよく伸びているときはよいが、それが停滞し始めると、余剰金は生産投資に向かわず商人資本や金融資本に滞留する。それは、買占めでのぼろ儲けや高利貸しなどの金融投機に流れ込み、その金は紀伊国屋文左衛門のように、小判を遊郭でバラまくような使い道しか見つけられなかったわけだ。

 封建時代のような統制政治の場合、統制が困難な経済の発展は、体制崩壊の原因となるのである。今でも強権的統制政治の中国共産党にとって、経済の圧倒的な拡大は、独裁政治の危機であり、それを考えれば、習近平が中国経済に不都合な無茶な政策を進めるのも、当然なのである。

Ⅸ【歴史コラム】10.【素人が考える「レトロ感覚と歴史観」】

【歴史コラム】10.【素人が考える「レトロ感覚と歴史観」】


 江戸時代から昭和の末までを、自分なりにダイジェストしてきた。「歴史」をひと言で表すのは難しいし、確固たる考えがある訳ではないが、それなりに思うことを記しておきたい。

 少なくとも言えることは、「事実」をいくら集めても「歴史」にはならないということだ。つまり歴史とはある種の解釈であって、特定の観点に立って「選択された事実」を並べたものだと言える。そして、その観点にあたるものが「歴史観」とされるのだろう。

 しかしその歴史観というものが、明示的に示し得るかどうかは定かではない。むしろ記された具象的な歴史から、逆に抽象されてくるものではないか。作家や文筆家において言われる「文体」に相当するようなもので、いわば歴史が綴られる「場」のようなものだと思われる。

 私自身が明確な歴史観を持っている訳ではないが、歴史をダイジェスト的に書きながら、漠然と浮かび上がってきたのは、その当時の時代感覚のようなものをつかみたいという考えだった。そのような臨場感と現在からの視点との交わりから、リアルな歴史が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 さて、自分が育って生きてきた戦後昭和という時代をどう捉えるか。少なくともその時代に育ってきたわけだから、まわりの時代感覚は経験的に感じ取っているはず。しかしその記憶そのままでは歴史にはならない。現在からの視点、大人になって社会性を帯びた視点からの検証を受ける必要がある。

 自分の過去の記憶にある事象を、懐かしく思い起こすレトロ感というのがある。それはそれで良いのだが、記憶の中で都合よく変形された記憶なので、そのままで歴史だというわけにはいかない。現在の視線から検証を受けて初めて「歴史化」されるのだと考える。

 自分が昭和30年代のことを書くと、Fecebookなどでは読者に、ひと回り以上年下の人が多く、時代感覚がまったく違うのに気付く。レトロな記憶が通じ合うのは双方に同じ時代経験があるからで、それが異なる場合には、やはり歴史化した事象として伝えるしかない。

 そういう作業に、今は関心が向いている。自分の経験を記録して残すことは重要だが、いまやりたいこととは少し異なっている。平成に関しては、ほとんどがリアル経験しているわけだから、まだまだ「歴史化」するにはナマ過ぎると思う。平成の時代が終わって、少なくとも十年以上は時間が必要だと思うのであります。

Ⅸ【歴史コラム】09.【藩閥政府と政商岩崎弥太郎・五代友厚】

【歴史コラム】09.【藩閥政府と政商岩崎弥太郎・五代友厚】


 藩閥政治では、薩長土肥出身者が政府要職を占有し、政治を牛耳ったと言われるが、むしろ、政府要人と民間商人に下った同藩出身者が、政府の資金を私的に流用したことの方が問題がある。

 長州出身の「山県有朋」が、政府陸軍大輔として、同じく長州奇兵隊あがりの「山城屋和助」に巨額の陸軍資金を私的に融資し焦げ付かせた山城屋事件があった。山城屋は事が露見して割腹自殺。

 「岩崎弥太郎」は、同郷土佐藩の「後藤新平」参議とつるんで、戊辰戦争で各藩が乱発した藩札を整理するため、新政府が買い上げるという情報を後藤から得て、事前に藩札を買い集めてぼろ儲けをした、いわばインサイダー取引が出発点。

 「五代友厚」は、同じ薩摩藩出身の北海道開拓使長官「黒田清隆」と通じており、黒田が開拓使官有物を五代友厚らに安値・無利子で払下げようとした開拓使官有物払下げ事件に絡んだ。ただし当初、北海道の事業者が払い下げ先であったのだが、資金が不足したので五代が代わって引き受けたという経緯で、疑獄に関わることは無かったといわれる。

 維新三傑と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通には大きなスキャンダルはないが、明治10年前後に三人が相継いで亡くなると、第二世代にあたる長州の山県有朋・伊藤博文・井上馨らや薩摩の黒田清隆らは、商人となった後輩の同郷人とつるんで、力(権力)・金・色の三点セットで好き放題やった感じだが、結局、岩崎弥太郎だけが、うまく泳いですり抜けて大成功というわけである。

 山城屋事件(山県有朋失脚)や尾去沢銅山事件(井上馨失脚)は、長州勢の失脚とその逆襲として「明六政変(征韓論政変)」につながった。また、開拓使官有物払下げ事件は、伊藤博文と井上馨の長州勢が大隈重信(肥前藩)を追放した「明治十四年の政変」に直結した。

 前者は征韓論、後者は憲法制定において漸進派の伊藤(長州)と急進派の大隈(肥前)を巡る政策闘争が表面対立とされるが、実は裏では藩閥と利権をめぐる、このようなどろどろとした争いがあったのだ。

 面白いのは、結果的には長州閥が、土佐・肥前など弱小閥を追い落したことが共通しており、なぜか一方の薩摩閥は積極的には関与していない。薩摩勢は潔癖なのか裏細工が苦手なのか分らないが、結局そのせいで藩閥勢力としては、政権中枢から後退していった。

 岩崎弥太郎は、龍馬の起こした海援隊を継承する形で海運業に特化した。外国船に太刀打ちできない江戸期以来の廻船業者に代わって、圧倒的に強力な貨客船を擁して日本の海運業を独占した。後藤象二郎が明六政変で下野したあと、大隈重信などの庇護を受けたが、特定の藩閥に拘泥することなく事業を展開し、台湾出兵や西南戦争では政府の軍事輸送を一手に引き受け、膨大な利益を得た。

 一方、五代友厚は早くから、近代化事業に必須な鉱物資源に着目し、鉱山業に手を付けると鉱山王と呼ばれるほど大成功した。ただし、新政府の参与職外国事務掛をきっかけに大阪に赴任すると、経済地盤の低下しつつある大阪の産業振興に尽くし、大阪株式取引所(現大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現大阪市立大学)などを設立するとともに、多くの関西系企業を創設した。

Ⅸ【歴史コラム】08.【ジェロニモの死】

【歴史コラム】08.【ジェロニモの死】


 1909.2.17/米 北米インディアン最後の戦死ジェロニモ、屈辱と無念の生涯を終える。白人に対するアメリカ・インディアンの、最後の組織的抵抗を指導したアパッチ族戦士ジェロニモが、オクラホマのシル砦で虜囚として79歳で死去した。
 
 ジェロニモは誤解されるような「酋長」ではなく、シャーマンであり勇猛な戦士の一人であった。彼は、家族を皆殺しにされると復讐に立ち上がり、アパッチ族の戦士たちは、彼個人を慕って尊敬し戦ったのであった。

 山岳ゲリラ戦にたけたジェロニモたちは、白人入植者やアメリカ軍を恐れさせたが、偽の和睦提案に騙され、1886年投降して捕縛される。以後20年間、虜囚として幽閉され、故郷アリゾナのメキシコ国境へ帰りたいという願いもかなえられず、シル砦で屈辱のうちにその一生を閉じた。

 子供の頃、インディアンといえばアパッチ族で、英雄ジェロニモという図式でインプットされた。当時の西部劇では、インディアンは悪者と決まってたが、ジェロニモだけは英雄として尊重された存在だった。TV映画ライフルマンでなじみのチャック・コナーズがジェロニモを演じている。「酋長」は邦題が勝手に付けたもので、このあたりからジェロニモ酋長という誤解が発生したのかも。


Ⅸ【歴史コラム】07.【徳川慶喜という不可解な将軍】

【歴史コラム】07.【徳川慶喜という不可解な将軍】


 「鳥羽伏見の戦い」で、大坂城から不可解な退却をしてしまい、続く戊辰戦争の帰趨を方向付けてしまった総指揮官として、徳川慶喜という人物に興味を感じた。将軍職にあったのはたった一年余りであり、その間、「大政奉還」を奏上し、徳川幕府の消滅に立ち会った「最後の将軍」としてのみ、記憶に残されている。

 徳川慶喜は、天保8年(1837年)9月水戸藩第9代藩主「徳川斉昭」の七男として生まれ、幼名は松平七郎麻呂(以後も改名があるが「慶喜」で統一する)とされた。慶喜の聡明さは幼時から注目され、斉昭は、継嗣慶篤の控えとして、慶喜を他家の養子に出さず手許に置く考えもあったという。

 弘化4年(1847年)8月、十歳のとき、御三卿(御三家に次ぐ家格の徳川家)の一つ、一橋家の養子となり相続、「一橋慶喜」となる。嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に12代将軍家慶が病死、跡を継いだ第13代将軍徳川家定も病弱で、将軍継嗣問題が浮上する。

 「一橋慶喜」を推す実父で水戸藩主の斉昭や阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬らの「一橋派」と、紀州藩主「徳川慶福」を推す彦根藩主「井伊直弼」や大奥で家定の生母本寿院などの「南紀派」が対立した。まもなく阿部正弘・島津斉彬の死で一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老となると、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。井伊直弼がすすめた「安政の大獄」では、慶喜も隠居謹慎処分とされた。

 安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、謹慎を解除され、島津久光らの後押しを受け、慶喜が将軍後見職に、松平春嶽は政事総裁職に任命され、両者は手を組んで幕府中枢に関与し、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などの幕政改革を行う。

 慶喜本人は、将軍継嗣に乗り気ではないというような主旨の手紙を、実父斉昭に送ったりしているが、どこまでが本音でどこまでが建前なのか、いずれとも取れる行動を取っている。将軍後見職についたあたりから、否応なく慶喜の意向が表面に出て来ることになるが、同時に、時代の流れに沿って、その方向が微妙に揺らぎをみせる。

 文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、将軍徳川家茂が上洛することとなったが、慶喜は将軍の名代として先行して上洛、朝廷との交渉にあたった。朝廷側の国政に対する態度は曖昧なまま、一方で幕府に攘夷の実行を命じるなど、交渉は不成功に終わった。

 そんな中、強力な攘夷主義者であった孝明天皇が、石清水八幡宮へ攘夷祈願に行幸することになった。随行した将軍が天皇から節刀拝受すれば、攘夷決行が必須となるので、急遽、風邪発熱との仮病で、家茂の拝謁を取りやめさるといった策略も用いている。

 江戸に戻った慶喜は、横浜港鎖港による攘夷実行という方針を策定し、公武合体派諸候幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛する。ここで横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立すると、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席の伊達宗城、春嶽、久光や中川宮に対し暴言を吐くなどして、参預会議を解体させ、手段を選ばぬ交渉を行なった。

 参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。同年7月に起こった「禁門の変」においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、歴代の徳川将軍の中で唯一、長州兵と切り結ぶなど、武勇をも示した。

 禁門の変を機に、慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄、会津藩・桑名藩らとの提携を強化していった。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐で、慶喜が長州征伐の勅命を得て出陣する。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫する中、7月20日、将軍家茂が大坂城で薨去する。慶喜は急遽、休戦の協定の締結する。

 家茂の後継として、慶喜が次期将軍に推されたが、慶喜はこれを固辞し続け、12月5日にようやく第15代将軍に就任した。この就任固辞も、恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていくという「政略」だったという説もある。この時期の慶喜は、明確に開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。

 慶喜は、将軍在職中一度も畿内を離れず、会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携をとり、実質的に政権の畿内への移転が推進された。さらに慶喜は、幕府を支持するフランスからの援助を受け、近代的な製鉄所や造船所を設立し、フランス軍事顧問団を招いて軍制改革を行うなど、幕府軍の近代化を推進した。

 しかし、先に近代化を進め力をつけた薩長が連合し、武力での倒幕路線に突き進むことを必至と見た将軍慶喜は、慶応3年(1867年)10月14日、薩長の機先を制して政権返上を明治天皇に奏上した(大政奉還)。慶喜は、当時の朝廷には行政能力が無いと判断し、合議制の「列侯会議」を主導する形で、徳川政権存続を模索していたとされる。外憂に加えて内乱の危機が逼迫する状況下で、慶喜は窮余の一策を講じたのであった。

 大政奉還後、慶喜主導での諸侯会議で雄藩連合政府を目指したが、12月、薩摩藩ら討幕派は朝廷クーデターを起こし、制圧した朝廷からは、慶喜ら幕府方勢力を排除した新政府樹立宣言(王政復古の大号令)が発せられた。辞官納地を求められた慶喜は、衝突を避けるべく、恭順の意を示して一旦大坂城へ退去する。

 しかし、翌慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、京都に向け進軍の命令を出し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る(鳥羽・伏見の戦)。勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、少数の近辺者とともに「謎の退却」を為し、幕府軍艦開陽丸で江戸に帰ってしまう。

 以降、戊辰戦争が進展し、「江戸城開場」とともに、慶喜はすべての官職を解かれ、水戸に蟄居、さらに駿府に移封され謹慎する。戊辰戦争の終結とともに謹慎を解除され、引き続き静岡(駿府)で余生を送った。隠居後は、政治的野心は全く持たず、潤沢な手当をもとに写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送った。維新後の旧幕臣たちの困窮にも無関心で、大正2年(1913年)11月急性肺炎で死去するまで悠々自適であったという。享年77。

 このような生涯を送った徳川慶喜を、どのような人物として見るか。将軍としては、英明ではあるが自ら行動の人ではなかった。祖先徳川家康のような策略家では毛頭なく、その場をしのぐ策を弄したという程度であり、ある意味、冷静沈着ではあるが、節目では大政奉還のような、周辺を驚かすような奇策を発することもある。

 周囲に人望があったのかなかったのか、それを窺わせるようエピソードも見当たらない。むしろ冷淡な人物で、周囲も遠巻きで接していたのではないかと思われる。晩年の徹底した趣味人としての生き方こそ、徳川慶喜の生来の姿を示しているのではないか。いずれにせよ、徳川将軍には、全く不向きな人物だったのではないだろうか。

『徳川慶喜 最後の将軍』(司馬遼太郎/1997年/文春文庫)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167105655

Ⅸ【歴史コラム】06.【ロシア革命に関するメモ】

【歴史コラム】06.【ロシア革命に関するメモ】


〇 ロシア革命と「二段階革命論」

 「二段階革命論」では、まずツァーリと封建領主による支配の封建制・絶対君主制を打ち破る「ブルジョア民主主義革命」が必要であり、その下で資本主義が発展した後に「プロレタリア社会主義革命」を行われる、というものであった。

 本来なら、資本家との階級闘争を通じて、成熟したプロレタリアートが革命に立ち上がるはずが、今だ期の熟さないうちに、レーニン率いるボルシェビキが、厭戦気分の兵士や都市住民を糾合して一気に「ブルジョア臨時政府」を倒したわけで、これは「革命」などではなくて「クーデター」にすぎなかった。

 しかし実際には、自然発生的に「二月革命」が実現され、これがブルジョア革命だとされるが、その後の資本主義的発展をまたず、半年あまりで「十月革命」が起こった。

 その後に成立した他地域での共産主義国家も、すべて封建制か植民地という資本制未発達の地域で達成されたもので、逆に、発達成熟した先進資本主義の地域で「プロレタリアート革命」の起こされた例は皆無である。これらの先進地域では、せいぜいが議会制を通じて改革を進める「社会民主主義」政党となる。

〇 ロシアの革命主体の変遷

*ナロードニキ
 1860年から1870年にかけて、インテリゲンツィアによって「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」を掲げた革命運動が拡がった。ツァーリズム支配を打倒し社会主義を実現するという、都市の知識人を中心とした「ナロードニキ」による運動は、ロシア独自のミール(農村共同体)を啓蒙し、社会主義を広めることで革命に結びつけようとした。

 皇帝アレクサンドル2世によって「農奴解放」(1861年)は為されたが、富農・自作農(クラーク)と小作人との格差は厳然として残されたままであった。「バクーニン」のアナーキズムの思想の影響を受けた、ナロードニキのインテリ青年・学生たちは、両者の間に楔を打ち込み、貧農たちの中に入りこみ、社会革命思想を植え込もうとした。

 しかし、ツァーリズムにどっぷり浸っていた農民たちは、徹底的に保守的であり、一向に動こうとしなかった。次第に絶望していったナロードニキは、ニヒリズムに陥り、一部はテロリズムに走ることになる。1881年には、ナロードニキの流れを汲むテロリストがアレクサンドル2世を暗殺した。

 だがこの事件で、小作農がおじけづき遊離していったのと同時に、政府による徹底的な弾圧により、グループの組織は衰退し、活動は停滞した。しかし、ナロードニキの方針や活動は、後の「社会革命党(エスエル党)」などの革命志向の党に継承されていった。

 組織されない「アナーキズム」は、現体制の打倒と破壊だけを目標とし、事後の体制ビジョンなどを持たないため、目標達成が行詰ると、ニヒリズムに陥り、無目的な急進テロリズムに走りやすい。かくして、自壊してゆく流れとなる。

*社会革命党(エスエル党)
 アレクサンドル2世暗殺のあと、帝位をひき継いだアレクサンドル3世は、専制政治による帝国を目指し、保守的な政策を進めたが、1994年に崩御すると、ニコライ2世が帝位を継承した。ニコライ2世も父の路線を踏襲したが、時代の流れの中で弾圧政策は反発をまねき、1904年の日露戦争前後には、いくつもの革命政党が生れた。

 その中に、のちにメンシェビキとボルシェビキに分裂する「社会民主労働党」などとともに、「社会革命党(エスエル党)」も含まれていた。社会革命党は、小農に基盤を置いた革命政党というだけで、その政策を一意的に把握するのは難しい。ナロードニキのアナーキズムを継承しただけに、現体制を崩壊させるだけで、具体的なビジョンは覗えない。

 「二月革命」時には、全ロシア=ソヴィエト会議で、エスエルは最大多数の代議員を占めたが、右派の「ケレンスキー」が入閣するにとどまった。ケレンスキー主導の臨時政府となると、ボルシェビキとの対立が深まった。戦争遂行をとなえるケレンスキー臨時政府に対して、左派は即時停戦をとなえるボルシェビキとの連携を選んで分裂した。

 結局は穏健派の右派は「メンシェビキ」と合体し、急進派の左派は「ボルシェビキ」と連携するなど、エスエルの特性は見られなくなった。「十月革命」でボルシェビキが政権を奪取すると、連携したエスエル左派は政権に参画し、憲法制定議会の議員選挙で第一党となった。

 しかし「レーニン」は、憲法制定議会を解散させ、一党独裁を確立する。内戦の混乱もとで打ち出された「戦時共産主義」では、農村からの収奪は苛酷を窮め、農民に基盤を置いた社会革命党左派は、都市プロレタリアートを基盤にしたボルシェビキと徹底対立し、そこで袂を分かった。

 結局、社会革命党エスエルは、テロ活動を担う「社会革命党戦闘団」を中核として、テロリズム集団としてのみ一貫性を維持したといえる。レーニンと袂を分かって左派の指導者となった女傑「マリア・スピリドーノワ」は、抵抗活動をするが鎮圧され、レーニン暗殺にまで手を染める。ボルシェビキの秘密警察チェーカーに徹底弾圧され、スピリドーノワは後のスターリンによる大粛清時に銃殺された。

 一方、右派で臨時政府を率いたケレンスキーは、十月革命でボルシェビキに圧倒されるとフランスに亡命し、ナチスドイツがフランス侵攻を始めると、さらにアメリカに逃れた。1970年、88歳でニューヨークで死亡するまで、ロシア革命の生き証人として、ロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。

*メンシェビキ(社会民主労働党右派)
 1898年に創立されたロシアで最初のマルクス主義政党「ロシア社会民主労働党」は、1903年の党大会で党規約の「党構成員の資格」をめぐって、意見の対立が生じた。レーニンは、党員の資格を「党の組織活動に参加すること」と主張したが、「マルトフ」は「党に対する支持」だけでよいとした。

 レーニンは、『何をなすべきか』で「組織され訓練された職業的な革命家たち」による強力な結社を主張しており、緩やかな党紀で多数の大衆を取り込もうとするマルトフら右派との対立が拡大し、やがて中央機関紙の編集局の主導権を巡り分裂する。

 結局編集局は、レーニンらが主導することになり、排除されたマルトフら古参革命家たちは「少数派」とされ、分裂した結果「メンシェビキ(少数派)」と呼ばれるようになり、レーニンらは「ボルシェビキ(多数派)」を名乗った。メンシェビキは、マルトフと、あとから加わったプレハーノフなどが中心になり、「プレハーノフ」は正統派マルクス主義の理論派として活動する。

 メンシェビキは、党外のヨーロッパ社会主義運動では広い支持を獲得しており、ドイツ社会民主党の「カール・カウツキー」や、ポーランド生まれのマルクス主義理論家で革命家「ローザ・ルクセンブルク」らからも支持された。

 メンシェヴィキは統率の緩やかな集団であり、強力な指導者に欠けていた。1905年のロシア第一革命では、メンシェヴィキは指導力を発揮できず傍観するに終わった。1917年の「二月革命」では、ペトログラード・ソビエトではメンシェビキが優勢であり、労働者多数派の支持を受けていた。

 しかし革命が進行しても、組織のゆるさが災いして統一した政策を打ち出すことができなかった。社会革命党出身のケレンスキーが「臨時政府」を主導するようになっても、メンシェビキの立ち位置は曖昧なままだった。

 そんな中、ボリシェビキが中心となり「十月革命」を起こし、臨時政府が倒されると、直後に開かれた会議で、ボルシェビキのトロツキーから「君たちの役割は終わった。君たちは今からは、歴史の掃きだめへゆけ」とこき下ろされ、メンシェビキの歴史上の役割の終焉を宣告された。

*ボルシェビキ(社会民主労働党左派)
 ボルシェビキはメンシビキや社会革命党に比べ少数派だったが、人事と要職を握って「多数派」を名乗った。ボルシェビキが他と分かたれる一番の特長は、暴力革命を主張し、中央集権による組織統制を徹底した点であった。そのため指揮系統が統一されて、素早い革命行動が実行できた。

 二月革命で成立した臨時政府は、社会革命党右派のケレンスキーが実権を握っていた。ドイツへの屈辱的講和に不満をもつ大衆に突き動かされて、ケレンスキー臨時政府は第一次世界大戦の継続を選択した。ケレンスキーはドイツへの反攻を試みるが失敗し、兵士らの厭戦気分や労働者大衆の飢餓や苦境で、政府への不満が爆発した。

 ケレンスキー臨時政府は、ボルシェビキの弾圧を謀り、「レーニン」ら幹部は一時潜伏を余儀なくされたが、臨時政府の内紛などを契機に復帰し、「トロツキー」は兵士や労働者を鼓舞する演説で、蜂起のための組織を掌握していった。

 1917年10月、ボリシェヴィキの中央委員会は「武装蜂起の機は熟した」とし、ペトログラード・ソビエトは「軍事革命委員会」を設置した。トロツキーは、武装蜂起の方針を承認させる演説をし、蜂起する期日も定めた。この時、メンシェヴィキは蜂起に反対し、この軍事革命委員会への参加を拒否して、革命の前線舞台から去ることになった。

 これと前後して、軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた。やがてエストニアでの武装蜂起をきっかけに、ペトログラードでも軍事革命委員会が武力行動を開始し、さしたる抵抗もなく首都の主要施設を占拠、軍事革命委員会が全権掌握を宣言した。

 この10月25日(旧暦)が十月革命の公式日付とされるが、まだ冬宮には政府閣僚らが残っており、翌日未明にかけて占拠が進められた。ほとんど抵抗もなく、閣僚らは逮捕、ケレンスキーは脱出して亡命した。一方で、レーニンを議長とする「人民委員会議」が、新しい政府として設立され、ボルシェビキは「ロシア共産党」に発展的に改組された。

 その後、ソビエト連邦政府の下で、「十月革命」の様子は本格的な「革命戦争」として描かれるようになったが、実質的にはボルシェビキによる、政権奪取のクーデターに近かったと考えられる。