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Ⅸ【歴史コラム】13.【北野天満宮など散策】

【歴史コラム】13.【北野天満宮など散策】(2021.02.19)


 北野天満宮は承知の通り、右大臣菅原道真公が藤原氏の讒言で、九州大宰府に左遷され、当地で没した後、都では落雷などの凶事がが相次ぎ、菅公の祟りだとして恐れられた。そこで、朝廷は菅公の官位を復し、御霊を鎮めるのにつとめ、40年以上して都の子供に託宣があり、現在地の北野に道真を祀る社殿を造営し、これが北野天満宮となった。

 本来は、雷神となった道真公の御霊を鎮めるために祀られたが、学問の神として広く信仰されるようになり、現在では受験の神様として、受験生の絵馬がたくさん奉納されている。また、梅の花をこよなく愛した道真公ゆかりの梅は、境内にくまなく植えられ、この時期、最盛期を迎えている。

 さて昼時となり腹もへったので、弁当を買って「船岡山」のベンチで食べることになった。この船岡山は、何の変哲もない100m程度の小高い丘だが、まさに平安京大内裏の真北に位置し、歴史上、幾度も文献に登場する。

 まず、枕草子では「岡は船岡」と称えられ、「徒然草」では、都の葬送の地として、鳥部野などと並べて挙げられている。保元の乱の後に、敗北した源為義一族がここで処刑され、応仁の乱の際には、西軍の陣地が築かれ、周辺は激しい戦闘で焼け落ちたが、「西陣」の名称はこれが所縁となった。

 さらに、森鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」という短編で、殉死を扱っている。明治天皇に殉死した乃木希典に衝撃を受けて、即日書き上げたと言われ、細川三斎の忠臣であった興津弥五右衛門は、三斎亡き後の始末をやり遂げ、殉死を願い出る。晴れて切腹を許された弥五右衛門は、細川家菩提寺の大徳寺高桐院を出て、切腹の場所とされた船岡山麓の仮屋まで、十八町の間に敷き詰められた藁筵の上を、晴れがましく歩んだという。

 なお、船岡山の東側には、織田信長を祀った建勲神社がある。船岡山は平安京の北方を護る四神相応の玄武に相当するとして、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められたが、実現しないままだったのを、明治天皇により創建されたという謂れをもつ。

 曇り空で寒いので、昼を済ませてその足で、紫野今宮神社の参道にある「あぶり餅」を食べに行った。あぶり餅については、かつて詳しく書いたので下記リンクに任せるが、近年は評判を呼んで満席が多かったが、今回は感染症の影響で、がらがらの座敷に上がってゆっくりできた。半世紀前の高校時代、授業をさぼって、ここにたむろして時間を潰した思い出が、よみがえって来た。
https://naniuji.hatenablog.com/entry/2019/03/30/175544

 ちなみに船岡山で食べた弁当は、北大路橋西詰にある「グリルはせがわ」の持ち帰り弁当、ここも通常は1時間以上待つのが状態だった。高校の同級生がここの息子で、半世紀以上前から営業している洋食屋だが、近年、SNSなどで評判になり、観光客でいっぱいとなった。ハンバーグ弁当がウリで、ここで弁当を買って、川を渡った府立植物園で食べると、半日を千円程度で過ごせるデートスポットです(笑)

 久々に京都市内を知人と二人で車で散策した。少々肌寒いが梅の時期というので、まずは「北野天満宮」に参った。感染症のせいで参拝客は少なく、駐車場もフリーで停められた。信仰心も色気もない年寄り二人なので、ろくな拝礼もせず、十数分ほどまわりを見まわして帰るというありさまだった。

(天神信仰について)
 菅原道真が左遷されたのち、雷神として怖れられたため祀られたのが天満宮、と理解してきたが、それ以前から天神信仰というのがあったようだ。記紀によると、古来「天津神(あまつかみ)」と「国津神(くにつかみ)」とされる神があり、その天津神が「天神」とされるようになった。天満宮が天神さまと呼ばれるのは、その天神信仰と重ねられたためだとされる。

 天津神とは、天孫降臨伝説で「高天原から地上の葦原中津国に降りた神様とその子孫」だとされ、葦原中津国つまり地上での神様である国津神と区別されるということである。天津神は、イザナギノミコトとイザナギノミコトから生まれた神様とされ、代表的なのがアマテラスオオミカミ(天照大御神)である。

 とまあ、ここまでは神話世界の話だが、ちょいと調べてみると、日本国の誕生につながる壮大な話となってくる。柳田國男によると、「天津神を奉ずる渡来民族(水田稲作農耕民)によって山に追われた先住民が山人であるとし、山人は国津神を報じた非稲作民であったとしている」ということである。

 これを私なりに噛み砕いてみると、もともと住んでいた「縄文人」を、大陸から先進文物を持ち込んだ渡来人系の「弥生人」が、先住民を東へ北へと追いやって行った歴史と重なる。つまり、縄文人の国津神を、弥生人の天津神が吸収合併していった歴史と繋がるのではないかと思われる。

 この先を考えると本一冊ぐらいになりそうだが、天(実際は大陸)から降臨した始祖の神様が、のちに雷神となって天から怒りを降り注いだ道真公の呪いと重なり、全国の「天神信仰」と重なりあわさって、各地に祀られたのではないか。とすれば、怒りの神が、学問など知恵の神を併せ持つようになった理由も納得できるわけだ(笑)

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