XⅢ【記憶に残す昭和文化誌(戦後編)】05.草創期のテレビ文化
1953年2月1日、NHKがテレビ本放送を開始。8月28日には民放のトップを切って日本テレビ ( NTV )が本放送を開始した。テレビジョンは日本でも戦前から研究が進み公開実験放送を行うまで来ていたが、太平洋戦争のために中断を余儀なくされ、テレビの実用化は1946年の研究解禁を待つことになる。
この開始の年すでにNHKでは、「ジェスチャー」「のど自慢素人演芸会」「大相撲中継」「NHK紅白歌合戦」などの番組を始めており、日本テレビでも「プロ野球巨人戦」が中継された。しかし、当初の受信契約者の多くはアマチュアによる自作の受像機、ほかは海外から輸入の受像機、国産初はシャープ製で175,000円、当時の会社員給料の数年分相当であったという。
読売新聞社の総帥正力松太郎は政界への影響力を行使して、最初の民放テレビ「日本テレビ」を開局にこぎつけたが、広告を収入源とする民放では視聴者数の確保が第一。そこで「街頭テレビ」の設置を推進し、力道山のプロレス中継などで大観衆を集めた。当時はビデオテープが高価で、スタジオドラマやバラエティ番組はほとんどが生放送、スポーツ中継も当然生中継しかなかった。その他、ニュースや劇場映画や外国輸入テレビ映画などは、もちろんフィルム撮影のものだった。
自身のテレビ体験から振り返ると、街頭テレビを直接に見た記憶はない。商店街の電気店などはラジオ工作キットなどを扱っているところが多く、その技術で自作のテレビを制作して店頭で放映して観せていたのが、最初のテレビ体験だった。次に普及し出したのはうどん屋などの大衆食堂、これは当然客寄せのためで、数十円のうどん代だけ持って観に行った記憶がある。
その次の手段は、近隣で先にテレビの入った家に観せてもらいに行くこと。電話もそうだったが、当時に先にテレビの入った家は、ある種のノブレス・オブリージュ(高貴者の義務)ということで、電話の取次ぎはもちろん、テレビを観に来た子供たちを追い返すことはなかった。ただし、たいていは意地の悪いバカ息子とかが居て、こちらが観ているチャンネルをガシガシャと変えるのであった。
そして自分たちの家にもテレビが手の届く状況になったが、自分の家ではなかなか買ってくれない。ほとんど周りの家に入ったが、こいつところだけには負けないと思っていた近所の遊び仲間とこが、商店街の抽選一等賞を当てて先に入れられたのは悔しかった。
さすがに、テレビ受像機の中に人が入っていろいろ演じていると信ずるものはなかったとおもうが、テレビの醸し出すリアル感はすごいものであった。のちのカラーテレビでは、プロレス中継での流血画像を観て、ショック死した老人がいたというのが話題になった。
1950年代後半から高度経済成長が本格化すると、テレビは「三種の神器」(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)のひとつとして数え上げられた。1959年の皇太子(現上皇)ご成婚のパレード中継で一気に普及し、家族でテレビを囲む家庭団らん風景が当然となった。
1960年代に入ると視聴時間が急増、ラジオを抜いて家庭の主な娯楽メディアとなり、それまで娯楽の主役だった映画を抜いて、映画産業の衰退を引き起こした。子供たちはテレビにかじりつき、「テレビが子どもに悪影響を及ぼすのでは」という懸念も持ち上がった。
子供だけでなく大人までもが低俗な番組を見て喜ぶ様子を、社会評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」と名付けて、一躍流行語となった(「総」をつけたのは作家松本清張)。テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう、という意味合いの言葉で、テレビの負の側面をあぶりだした。











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