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Ⅳ【食と文化コラム】05.善き哉 此の汁「善哉」

【食と文化コラム】05.善き哉 此の汁「善哉」

「善哉此汁(善きかな、此の汁)」

 「善哉」とは本来仏教用語らしく、仏陀が弟子の言ったことに「善き哉(かな)」と賛同を示したときの言葉だという。あるとき一休禅師が、大徳寺の僧から小豆汁に餅を入れたものを饗されて、おもわず「善哉此汁(善きかな、此の汁)」といったという言い伝えがある。

 「一休宗純」は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧で、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟したとされる。詩、狂歌、書画などにもすぐれた文人であり、さまざまな逸話を残す風狂の生活を送った。

 その奇抜な言動から、『一休咄』に代表される一休さん頓知咄(ばなし)の素材となり、「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり」とか「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」といった禅問答風の言葉が残されていたりする。

 臨済宗大徳寺の住持に任ぜられ、戦乱で荒れた塔頭の再興に尽力した。晩年には、いまの京田辺市薪(たきぎ)地区に草庵「酬恩庵」を結び、後に「酬恩庵一休寺」と呼ばれるようになった。それにちなんで、一休寺では、毎年1月最終日曜日を「一休善哉の日」として、奉納行事とともに善哉をふるまっている。
 この「善哉(ぜんざい)」を、関東では「汁粉(しるこ)」と呼ぶらしい。その分布は、意外にシンプルに東西で分かれているようだ。ちなみに関西で「汁粉」というと、こし餡のものになり、関東では、こし餡のが「御前汁粉」、つぶ餡のが「田舎汁粉」と呼ばれる。さらに関東の「善哉」は、ほとんど汁気のないつぶ餡に餅を入れたもので、関西では「亀山」という。

 かくいう善哉も、正月以外にはめったに食べられないものとなっている。


  ぜんざいや 昭和は遠く なりにけり  半休


Ⅳ【食と文化コラム】04.京のお好み焼は・・・

【食と文化コラム】04.京のお好み焼は・・・


 遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香炉峰の雪は簾をかかげてこれを看る。京のお好み焼はコテで喰う(笑)

 大阪が中心の関西風お好み焼きと、広島中心の広島風お好み焼きがあるのは有名だが、京風お好み焼きというのが、明確にあるわけではない。京風を名乗るお好み焼き店の説明を見ても、結局は「京都に店がある」というところに行きつくしかないようだ。

 関西風のお好み焼きは、いわゆる「練り焼き」が特徴で、少し硬めに練った小麦粉にキャベツやブタ・イカなどの具材を乗せ、それを練りこんだものを鉄板に広げて焼く。一方、広島風は「重ね焼き」が基本で、薄めにといた小麦粉をクレープのように鉄板に広げ、その上にキャベツやブタ・イカなどの具材を重ねのせてゆく。さらに上に、ゆるめの下地を軽く回しかけて、それから裏返す。

 広島焼には、その上に焼きそば麺を乗せて焼くのが必須と言われているが、それは近年になってからで、あくまで広島焼の特徴は、具材をかさね乗せて生地をかけてボリュームたっぷりなものを裏返し、生地でふさぐようにして、いわば具材を蒸し焼きにするところにあり、薄めの生地がとろみを残しているという食感にあると思われる。
 京都のお好み焼き専門店も、関西風の練り焼きを基本としながらも、それぞれの独自性を打ち出そうとして、いまや千差万別、さらにマヨネーズでデコレーションすることで、何が何やら分からなくなっている。仕方がないから、京都市内北部で育った私が、半世紀以上前の子供時代に食べた「京風お好み焼き」の様子を記述しておく。当然ながら、これをもって京風お好み焼きの代表と称するつもりは、まったくない(笑)

 店には、鉄板付きの4人掛けテーブルなどがあり、それに座って注文するが、出てくるものは、カップにメリケン粉を固めに練った生地を入れ、その上にキャベツなどのカット野菜、その上に豚やイカといった具が乗せてある。
 天かすや紅ショウガやネギなどは、脇のカップから好きなだけトッピングする。そして、柄の長めのスプーンでコネコネして、まるく鉄板に広げて焼く。この時、あまり平べったく押し付けないで、厚めに焼くのがコツ。片面が焼けたら、手のひら大のコテで、裏返してまた焼く。最後に表がえしてソースを塗る。

 脇のソースカップには、甘めのとんかつソースと辛めのウスターソースが2種類、あと青ノリ・カツブシ粉はかけ放題となっている。そして焼きあがったら、そのまま鉄板の上で、コテでカットしながら口に運ぶ。待ちきれないガキとかは、一部を切り取って、鉄板に押し付けて先に食べたりする。焼きあがっても皿に移したりはしないが、頼めば小皿や割り箸ぐらいは出してくれた。

 壁には手書きのメニューがあり、ブタ・イカがメインで、ほかに牛肉・エビ・タコ・牡蠣などにミックスなどもあるが、何のことはない、カップの上に乗せる具が違うだけなのである。街中の店舗付き木造住宅が多く、主婦の小太りのオバサンなどが一人で切り回していることが多い。小料理店や一杯飲み屋を切りもりするほど才は無さげな、素人風オバサンが多かったような気がする。

 夕方になると、もっぱら部活帰りのニキビ面中高生たちで賑わう。

Ⅳ【食と文化コラム】03.「メロンパン」と「サンライズ」

【食と文化コラム】03.「メロンパン」と「サンライズ」


 全国的にパンを販売している山崎パンなどは、円形で表面にはクッキー風の砂糖でパリッとした皮がのっているものを「メロンパン(A)」として販売している。全国的にも、大半はこの円形のものをメロンパンと認識されていると思われる。

 ところが私が子供の頃、京都の北区地域で買って食べていたメロンパンは、これとはまったく違って、ラグビーボールを半分に切ったような紡錘形で、皮はソフトなカステラ風で、中には白餡が少し入っているものが多かったと思う。

 実はこの形のものを「メロンパン(B)」と呼ぶのは、京都や神戸あたりに限定される。関東はじめ多くの地区では、円形タイプが圧倒的である。しかし円形の「メロンパン(A)」は、京都や神戸では「サンライズ」という別の名称で売られている。(A/Bは便宜上、区別するために付加している)

 もともと二つのタイプのメロンパンは、戦前に神戸で最初に焼かれたとされている。どちらが先か不明だが、メロンパンBとサンライズ(=メロンパンA)は、まったく別ものとして作成された可能性が強い。現在のサンライズ(メロンパンA)は、表面の皮に格子状の模様が付けられているが、当初は放射状の線が描かれていたと言われる。つまり、日の出の光を模したので「サンライズ=sunrise」というわけである。

 同様の二つのタイプが京都でも普及しているのは、冒頭の私の経験からも事実である。興味深いのは、それが何故か大阪抜きで、京都に飛び地しているところであるが、その理由は不明だ。そのヒントになるのは、神戸や京都が、パン消費量が全国トップレベルで、その分布が「サンライズ/メロンパンB」の分布と、ほぼ重なるということである。

 全国制覇している山崎パンが、サンライズタイプのをメロンパンと称して売っているので、殆んどの地域の人が、これを「メロンパン」だと思い込んでいる。しかし、パン食先進地域の神戸・京都では、すでに「サンライズ/メロンパンB」という二通りのパンが普及していたので、紡錘形のメロンパンBも健在であるというわけだ。

 ここで疑問となるのは、今のマスクメロンとは似ても似つかない、紡錘形のパンが何故メロンパンとして売り出されたのかという点だ。戦前は当然のこと、昭和30年代ごろまでは、メロンというのは最高級フルーツで、果物店では雛壇の最後部にメロン一個だけが鎮座するような世界だった。われわれ庶民の子弟には、とても食べられる果物ではなかったのだ。

 そして「庶民のメロン」として食べたのは、マクワウリであり、黄色い紡錘形にウリ坊主のような縞があるものだった。まさしく「メロンパンB」の原型そのものである。その後、戦後の輸入自由化とかに連動して、マスクメロンやバナナなどの輸入関税が取り払われて、庶民の手に入るようになった。

 そして、サンライズ(sunrise)の皮柄も日の出を示す放射光から格子状に変更され、マスクメロンの形状となった。いまやマクワウリを知る世代もほとんどなく、メロンパンと言えば円形格子柄のメロンパンとなったわけである。神戸や京都でも、紡錘形メロンパンを知っているのは、団塊世代あたりまでではないだろうか。

メロンパンとサンライズの分布や、その歴史を詳細にたどった記事を紹介しておく。 https://style.nikkei.com/article/DGXZZO03387570Y6A600C1000000

Ⅳ【食と文化コラム】02.たこ焼きとキャベツのお話し

【食と文化コラム】02.たこ焼きとキャベツのお話し


 たこ焼き発祥地大阪を始め、大半の関西では、たこ焼きにキャベツを入れないで、中のとろみを楽しむ。しかし、たこ焼き後進国の関東を始め、他の地域はキャベツを入れる。これは何故か?

 実は、京都ではキャベツをたっぷり入れる。子供の頃、近くの神社の境内で、屋台でたこ焼きを焼いていたオバサンは、確かにキャベツを、焼き面に広げるように入れていた。

 柳田國男の「蝸牛考」によると、都に発生した新しい言葉は、水紋のように同心円を描くように全国に広がってゆくと言う。同様にたこ焼きも、大阪で始まって関西一円に広がった。ところが京都では独自の発展をとげ、キャベツを入れて腰のあるたこ焼きとなった。

 そうすると、大阪発のたこ焼きは関西を周縁として止まり、京都のキャベツ入りたこ焼きが、その他のたこ焼き不毛の地に展開していったのではないだろうか。

 大阪が「たこ焼き」の発祥の地とされているが、一方で明石名物の蛸に始まる「明石焼き」というものがあり、神戸あたりまでは浸透している。明石焼きは、卵中心の生地にタコを一切れ入れるだけで、ふわふわした触感を楽しみツユに付けて食べる。

 ルーツは異なるという説もあるが、大阪のたこ焼きも、小麦粉を出汁で溶いた生地に、タコだけ入れて焼くのが主流で、他のものを入れても、せいぜいが紅生姜、天かす、刻みネギなどで、主要な具というよりも振りかけるものという感じである。

 明石焼きの影響を受けたのかどうかは分からないが、タコだけでキャベツなどいっさい入れない点では共通項がある。他方、わたしが育った京都ではキャベツをたっぷり入れて、腰をつくるように焼く。これは大阪人に言わせると邪道だということになる。

 大阪をはじめとして関西圏ではキャベツを入れないたこ焼きが普及してるが、京都や滋賀ではキャベツをたっぷり入れる。そして他の後発地域でもキャベツ派が多い。これは明石焼きなどの伝統の無い地域では、キャベツをたっぷり入れるお好み焼きの延長線上の発想から、そうなったのではないか。

「たこ焼きキャベツ論争」 http://kitchen-tips.jp/29001

Ⅳ【食と文化コラム】01.鯖寿司とバッテラ

【食と文化コラム】01.鯖寿司とバッテラ


 京都紫野の今宮神社では、毎年5月初めから15日にかけて、「今宮祭」が行われる。紫野御霊会に起源をもち、京都を代表する機業地である西陣の祭礼として発展したもので、近世には祇園祭にも匹敵する盛大な祭りだった。

 子供の頃、今宮神社の氏子区域に住む伯母が、毎年の今宮祭の時期になると、料理屋に作らせた「鯖寿司」を持ってきてくれた。竹の皮に包まれ、大きな脂ののった〆め鯖を丸ごと使った豪華な鯖寿司で、大阪のバッテラを始め、各地に鯖を使った寿司はあるようだが、私にとっては、これが唯一無二の鯖寿司だった。

 海から遠く離れた京都の町では、日本海側の福井県若狭地方で水揚げされた真鯖に一塩して、大至急で山を越えて運ばれた高級魚であり、その道筋は「鯖街道」と呼ばれた。鯖寿司は有名な京料理の一つでもあり、古来から京都の家庭では、祭りなどの「ハレ」の日に食されたご馳走であり、また冷蔵庫のない時期には、塩と酢でしめた保存食品でもあった。

 一方、同じく鯖を使った大阪のバッテラは、その起源をまったく異にする。明治半ばに大阪の寿司店が、コノシロの片身を開き舟形にしたものを使った寿司を作ったのが、その始まりといわれ、コノシロを開くと尾の方は細いので、飯も片側を尖らせたその姿が小舟に似ていた。このことから、ポルトガル語の 「バテイラ(小舟/ボート)」からバッテラと呼ばれるようになったとされる。その後、コノシロの価格が急騰し、サバを使うようになったのが、今の「バッテラ」なのだとか。
 
 バッテラは、酢飯に酢締めにした鯖を乗せ、さらに薄く削られた白板昆布を重ねた押し寿司で、鯖の身が足りない部分には、へいだ身を添えるなど、あまりこだわりのない作り方で、庶民の寿司とされている。

 一方、鯖寿司は、酢飯に立派な真鯖の酢締めした半身をのせ、巻き簾や布巾で形を整えたもので、羅臼昆布のような、やわらかい高級昆布で包んだものが多い。バッテラのような枠で押す工程がなく、四角い切り口になるバッテラに対して、鯖寿司の切り口は角のない丸みを帯びた形となる。

 かつては庶民の家でも、祭礼などハレの日のために鯖寿司を作っていたが、その風習も廃れ、祇園の「いづう」や「いづ重」などの高級鯖寿司が、贈答用に用いられることが多くなっている。これじゃ、われわれ庶民は気軽に鯖寿司を食べられない、ということで、安いノルウェー産塩鯖で「焼鯖寿司」を作ってみた。まあ、なんとかなる(笑)

Ⅲ【社会時事コラム】13.京都 旭丘中学校偏向教育事件

【社会時事コラム】13.京都 旭丘中学校偏向教育事件(1953.4.29)


 1953年4月29日、京都市立旭丘中学校は原因不明の出火によって8教室が焼けた。火災の原因について、一部の父兄から進歩的教員による放火説がとなえられ、父兄や教員の間での保守対革新の対立が表面化した。旭丘中学ではかねてから、日本共産党員である日教組教員によって、「平和教育」と称する赤化教育がなされているといううわさがあった。やがて保守派父兄によって市教育委員会に申し立てがあると、旭丘の「偏向教育」は中央の政治問題に発展した。

 具体的には、校内で革命歌や赤旗を強要するとか、全関西平和まつりに生徒を引率するなどが行われていたとされる。翌年3月、京都市教育委員会は「偏向教育」の主導者として、北小路昴教頭、寺島洋之助教論、山本正行教論を他校への転任を内示、3教員がこれを拒否したため懲戒免職とした。3教員の支持派は、赴任したばかりの北畑紀一郎校長を吊るし揚げ、辞任を強要した。教育委員会側は辞表を不受理、旭丘中学の休校と教職員の自宅研修を通知した。

 一方、これを不服とする進歩派の教員・父母と京教組組合員らが、学校を封鎖し自主管理授業を強行、校舎やグラウンドには赤旗が林立する。他方、保守派の父母と市教委は、岡崎の京都勧業館での補習授業を行い、生徒は2分されることになった。事態の長期化につれて、子供を政争の材料にしているとの世論の批判も高まり、京都府教育委員会などの調停により、懲戒免職とされた3名以外の全教員の処分を行わず、転任させて校長以下全教員を入れ替えることで双方が妥協し、授業が再開された。まるで60年70年安保時の大学紛争を思わせるが、これは戦後の新設されたばかりの一公立中学校での出来事である。

 校舎火災のとき私は5歳前後、近くの旭丘中学在学のお兄さんに手を引かれて火事現場を見に行った記憶がある。現在の校舎は三階建になっているが、当時は木造二階建で写真左側の半分以上が焼け落ちた。8年後には私が入学することになるのだが、その当時は焼け残った右半分には職員室などがあり、左半分が安普請で継ぎ足された教室となっていた。

 旭丘中学校の在学中には、このような事件があったことはまったく知らなかった。教師も生徒もすべて入れ替わっており、しかも当時を知る教員や父兄も、意識的に話題を避ける雰囲気があったのだと思う。しかし私にとっては、その後調べて知った事件の概要と、幼くして見たおぼろげな火災跡との印象が結びついて、是非とも触れなくてはならない事件となっている。

Ⅲ【社会時事コラム】12.新元号は「令和」

【社会時事コラム】12.新元号は「令和」


 本棚から「万葉集」の脚注本がでてきたので、「令和」の個所を探してみた。奥付は、昭和33年4月発行・定価400円となっている。学生時代に文学部に単位取りに行ったときに、一度も出ない講義だったがテキストとして買わされたのだった。よってほとんど開くこともなかったが、半世紀の間に酸性化してボロけている。

 「師の老の宅にあつまるは宴会を伸ぶるなり。時に初春の"令"月にして、気潔く風"和"に、梅は鏡前に粉を披き・・・」

 ここにある「師の老(おきな)」とは万葉集の編者とされる大伴家持の父、大伴旅人のことらしく、その屋敷で梅見の宴を催した際の歌を集めたものだとのこと。で、宴の初めに旅人の爺さんが一発ぶったというわけなのだ。

 はやい話が、花見にかこつけて仲間と酒飲み会をやらかしたようなもんだな。まあ、いまのオヤジどもには気のきいた歌を詠むような知性はないから、せいぜい下ネタ談義がいいとこだろうが(笑)

 しかし「令」という文字は、いくら「よい・りっぱな」という意味があると言われても、「令名」「令嬢」などと古風な言葉は死語となっている。

 どうしても「命じる・いいつけ・きまり・おきて」といった強権を思わせる意味が思いうかび、「禁令」「訓令」「号令」などなど、うれしくない用法が多い。

 慣例の漢籍からの援用を避け万葉集からひいたことで、それを右傾化の流れというのもどうかなと思うが、やはりこれをきっかけに、右翼と役所以外は西暦一本になるんじゃないかなと思ったりもするのである。


Ⅲ【社会時事コラム】11.三島事件の記憶(1970)

【社会時事コラム】11.三島事件の記憶(1970)


≪爆報!THEフライデー【三島由紀夫の妻…壮絶人生】≫ 2017.11.24 http://doramaeiga.work/misimayukiotuma/

 三島由紀夫の没後47年として、TBS系で上記の番組が放映された。残された三島由紀夫の妻に焦点をあてたドキュメンタリーで、それなりに興味深い内容だったが、三島のセクシュアリティーには触れないまま終始したのは不満が残った。つまり、事実上のバイセクシュアルだった三島由紀夫の妻として、いかにしてその痛みを耐え忍び、いかにして三島と家庭を守ったかという視点が欠落していたわけである。

 私自身の三島事件当日の記憶をたどって、次のような記述をしたことがある。
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*1970年11月25日「三島由紀夫、割腹自殺 自衛隊員に演説のあと」

 三島由紀夫が、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説したあと自刃したことを知り、11月25日付けで雑記帳に、この事件への感想が簡単に記してあった。

 文学にはまり込んでいた時期だが、三島作品には距離を置いた読者だったと思う。派手な政治的演出にもかかわらず、自分の関心はまったく別のところにあって、芥川・太宰の自殺とも並べて「文学的な自殺」としてのみ捉えていた。

 それにしても思想と行動の問題として、大きな主題を受け取ったことはたしかであった。三島が東大全共闘の集会に飛び込んで、思想的にはまったく両極に属する両者にもかかわらず、ある種の共感を保持し得たのも、このあたりの主題に関係しているのであろう。

---(中略)---
 三島由紀夫の良き読者であったわけではないので、三島の全体像に触れるのは避けて来たが、今回、もののはずみで、少し立ち入ってみた。

 どなたかから、三島自身の抱いていた「老いの恐怖」が指摘された。老いへの恐怖は、オスカー・ワイルドの「ドリアングレイの肖像画」に端的に表現されている。三島由紀夫はそれを絶賛していて、それに触発されて「仮面の告白」を書いたと考えられる。

 彼にとって生涯のテーマは「装う "disguise"」ということであった。彼の「観念的小説」そのものが "disguise"であったし、実生活でも「装う」ことが必然とされた。

 三島の妻の瑤子とともに、「健全な家庭」を演出することが、彼の「義務」でもあった。彼は生涯それを徹底し、妻もそれに合わせた。まさに、仮装パーティで、ダンスを踊る良きパートナーであることを二人は通した。

 三島由紀夫は「潮騒」で、アポロン的に制御されたギリシャ美を描き出した。それは作品としては完璧であったが、一方で、彼の中のディオニュソスはおとなしくしていられるわけがなかった。

 ディオニュソスは、アポロンのような均整を許さず、ダイナミックな破壊を要求する。それは「行為 "action"」を要請する。三島は、肉体を改造し、ボクシングに励み、まさにアクター "actor" にもチャレンジする。しかしそれは、誰が見ても "disguise"でしかなかった。

 やがて三島は、政治思想的な "action"に入れ込むようになる。それは「装い」を脱した「本来の行為性」であると、三島は信じ込んだ、いや、そう信じようとした。

 しかし誰が見ても「盾の会」など、オモチャの兵隊ゴッコでしかないし、三島自身にも明白であったが、それを知った上でも突き進むしかなかった。

 三島個人のセクシュアリティに、政治思想という公的行為を重ね合わせることによって、自身の分裂を隠蔽しようとした。彼自身、それを知りながら、見て見ぬふりを通した。

 それは決して三島の「肉体的な老い」ではなく、むしろ「精神の老い」であった。アポロン的な健全性という「観念」を維持しきれなくなったわけだが、それでディオニュソス的な「本来性」に立ち返ったわけでもない。

 三島自身が「金閣寺」で描きだした放火僧のように、美という「観念のオバケ」の前に圧倒された「精神の疲弊」でしかなかった。

 三島由紀夫が強いられた「装う」ということは、いうまでもなく彼の「バイ・セクシュアリティ」に促されている。それをストレートに表明することは、彼の育った境遇や時代が許さなかった。
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 三島と同年代ながら、まったく対極的な位置にあった作家吉行淳之介のエッセイの中で、次のような記述を読んだ記憶がある。

 戦後の混乱期、闇市で飲んだバクダンだかメチルだかにあたって、唯一無二の親友を亡くした若き詩人が、ノートに書きなぐった一節。「死にたい奴は死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」

 戦後の混乱の中で生き抜くための切迫した生活感が反映されており、ここまできっぱり言い切れない曖昧な生活を送っていた我々は、次のようにつぶやき合うしかなかった。

>三島が自決した日の夕刻、当時の文学仲間だった友人が訪ねて来た。われわれは二人にしか通じない言葉で、西日が差し込む私の部屋でつぶやきあった。「こまったことになったな」「そうなんだよな」。たしか当日は小春日和で、その夕日だけは記憶に残っている。

(追補)
 三島は「仮面の告白」で、自分が生まれた時の産湯をつかっている情景の記憶を描写している。そんなことは100%ありえないのだが、その場に居合わせた縁者の話とかから、後日にそういうい記憶がインプットされることはあり得る。記憶というものはそういうもので、一つの記憶を何十年も記憶していることなどありえない。その後何度も反芻するなかで、記憶は変遷しているはずである。

 つまり記憶とは自らを欺くようにできている。ならば、「正直に記憶をそのまま描いた」などというのこそ、眉唾なのだ。三島は、心酔していたオスカー・ワイルドの「虚言の衰退」というエセーなど当然読んでいるはずで、フィクションとは文字通り作り事(嘘)であるが、それ故に現実以上にリアリティを持ちうる、と考えていたはず。

 「潮騒」は、古代ギリシャのエーゲ海のイメージを想定して描いたと言われる。古代ギリシャの彫像の美を、伊勢湾に浮かぶ小島での若者の褌姿にそれを形象しえたかどうかはともかく、三島はそれを信じて書いていたはず。「観念を実体化する」、それが三島の創作の源泉にあった。それは文学的リアリティの根本であって、きわめて正しい。しかし三島はそれだけでは満たされることはなかった。すなわち、自分の観念を自身の肉体にも適用しようとし、さらに現に生きている現実世界にも適用しようとした。

 「実現不可能であるからこそ創作で表現する」という地点に、もはや三島は立ち止まれなくなる。自身の観念(妄想、とも言える)を実現しようとする。これは倒錯性欲者が妄想を実現しようとするのと、さほど距離をもたない。かくして三島は、そのようなリアリズムを放擲して、遺作となる「豊饒の海」を完成する。

 その後市ヶ谷自衛隊での自刃になるのだが、この時点で三島は自ら信奉する陽明学の「知行合一」からははるかに離れた地点に至っていた。「知行合一」とは、正しい知が自らそれを実行するということであるが、三島のそれは「誤った知=妄想」でしかあり得なかった。三島自身、それを分かっていたからこそ、彼の自死は悲劇性を帯びる。