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Ⅱ【思想コラム】02.西部邁が死ぬまで許せなかった「大衆社会の病理」

【思想コラム】02.西部邁が死ぬまで許せなかった「大衆社会の病理」


 このようなタイトルで、東大での元同僚だった舛添要一が、西部邁への追悼記事を書いている。これは西部へのレクイエムとしては、適切なものだと思える。かつて、通り魔殺人事件などが頻発したことを受けて、新聞コラムで「大衆とは、もとより危険なものだ」と喝破した時の西部は、確かに切れ味鋭かった。 https://www.iza.ne.jp/article/20180429-UIRAT73AYBMFLK47NTCYWRMFKM/

 西部のすぐれた点は、ここで舛添要一の指摘する通りだと思われる。その「大衆社会の病理」への舌鋒鋭い批評は、ポピュリズム、ひいては民主主義批判にまで及んだ。より広く言えば、モダニズム批判である。

 それへの対抗軸を、西部は「個人の高潔」に求めたのだろう。保守主義的「伝統」と言っても、その起源をたどればあやふやなものでしかない。結局は、その伝統を維持しようとする個人の高潔に回帰するよりない。およそ、オバカ大衆が伝統を維持するわけがないのである。

 しかしながら、社会的基盤を持たない「高潔な個人」は、「自立した大衆」というフィクションに拠って立つ民主主義・ポピュリズムには勝てない。古くはプラトンの「哲人政治」と同様に、衆愚的独裁に席巻されざるを得ないのであって、その近代版がファシズムでありヒトラー・ナチスであった。

 個人の高潔を維持して東大教授を辞職、その後、朝生テレビの論客などで活躍したが、薄汚い酒飲みオヤジがうだうだクダまいてる図、を演じさせられた感が強い。最後に、その帳尻を合わせる自殺、という舛添氏の指摘は正しいのだろう。その舛添要一自身が、東京都知事として、公費で家族旅行や趣味の墨書用中国服購入など、「せこい個人主義」で、オバカ大衆の反乱を受けて辞任するという、オマケ付きであったが(笑)

 ニーチェが、オバカ大衆を扇動するキリスト教への対抗軸に立てたのが、古代ギリシャの「高潔な市民」だったが、そんなものは今や、有りもしない。西部も、それぐらいは分かっていただろうが、それしか無かったわけだ。そして、ニーチェはヒトラー・ナチスに見事に利用され、西部は朝生テレビなどバラエティでトリックスターを演じることになった。

 西部、舛添ともに、東大教授・助教授というバックボーンのもとにあった時には、舌鋒鋭かった。それが、背景がなくなると、ただの酒飲みぐだぐだオヤジやせこすぎる個人主義都知事とかになってしまう、この皮肉は何んだろうか。結局、彼らが頼みにした「伝統」とは、実は、この程度の薄っぺらい「権威付け装置」に過ぎなかったのではないか。

 西部邁は東大の学生時代、結成されたばかりの「共産主義者同盟(ブント)」に加盟し、60年安保闘争では全学連の中央執行委員を務め、新左翼のリーダーとして反対運動の先頭に立った。しかし左翼活動と決別すると、東京大学大学院に進み経済学を専攻、理論的に社会を見る目を養った。

 その後渡米しカリフォルニア大学バークレー校、さらに英国でケンブリッジ大学で学び帰国すると、保守の論客として高度大衆社会、アメリカニズムを批判し、西欧流保守思想を擁護した。東大教授となり、社会問題に対して保守の立場から盛んに発言しだすと、世間はこれを転向、変節と評したが、西部はそれについて長く反論、弁明をすることはなかった。

 西部自身、当時は若気のいたりで血気盛んに活動したが、ロクに資本論も読んでいないなまくら学生だったというような述懐をしている。1986(s61)年に著者がはじめて当時の闘争を振り返ったものが、彼の死後に「六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー」として出版されたが、そこでは当時盟友として共に戦った人物たちの内面の葛藤に踏み込み、若者としての焦燥感、虚無感などを懐かしく語っている。

 「知の誠実とは何か」を問う西部の生きざまに際して、チャーチルの言葉として伝えられる次の言葉を添えておく。「二十歳までに共産主義にかぶれない者は情熱が足りないが、二十歳を過ぎて共産主義にかぶれている者は知能が足りない」

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