【社会時事コラム】13.京都 旭丘中学校偏向教育事件(1953.4.29)
1953年4月29日、京都市立旭丘中学校は原因不明の出火によって8教室が焼けた。火災の原因について、一部の父兄から進歩的教員による放火説がとなえられ、父兄や教員の間での保守対革新の対立が表面化した。旭丘中学ではかねてから、日本共産党員である日教組教員によって、「平和教育」と称する赤化教育がなされているといううわさがあった。やがて保守派父兄によって市教育委員会に申し立てがあると、旭丘の「偏向教育」は中央の政治問題に発展した。
具体的には、校内で革命歌や赤旗を強要するとか、全関西平和まつりに生徒を引率するなどが行われていたとされる。翌年3月、京都市教育委員会は「偏向教育」の主導者として、北小路昴教頭、寺島洋之助教論、山本正行教論を他校への転任を内示、3教員がこれを拒否したため懲戒免職とした。3教員の支持派は、赴任したばかりの北畑紀一郎校長を吊るし揚げ、辞任を強要した。教育委員会側は辞表を不受理、旭丘中学の休校と教職員の自宅研修を通知した。
一方、これを不服とする進歩派の教員・父母と京教組組合員らが、学校を封鎖し自主管理授業を強行、校舎やグラウンドには赤旗が林立する。他方、保守派の父母と市教委は、岡崎の京都勧業館での補習授業を行い、生徒は2分されることになった。
事態の長期化につれて、子供を政争の材料にしているとの世論の批判も高まり、京都府教育委員会などの調停により、懲戒免職とされた3名以外の全教員の処分を行わず、転任させて校長以下全教員を入れ替えることで双方が妥協し、授業が再開された。まるで60年70年安保時の大学紛争を思わせるが、これは戦後の新設されたばかりの一公立中学校での出来事である。
校舎火災のとき私は5歳前後、近くの旭丘中学在学のお兄さんに手を引かれて火事現場を見に行った記憶がある。現在の校舎は三階建になっているが、当時は木造二階建で写真左側の半分以上が焼け落ちた。8年後には私が入学することになるのだが、その当時は焼け残った右半分には職員室などがあり、左半分が安普請で継ぎ足された教室となっていた。
旭丘中学校の在学中には、このような事件があったことはまったく知らなかった。教師も生徒もすべて入れ替わっており、しかも当時を知る教員や父兄も、意識的に話題を避ける雰囲気があったのだと思う。しかし私にとっては、その後調べて知った事件の概要と、幼くして見たおぼろげな火災跡との印象が結びついて、是非とも触れなくてはならない事件となっている。
「京都旭丘中学事件」youtube
「旭丘中学事件からの伝言 山本正行先生をしのぶ」(旭丘中学事件の教育を語る会 著)
「北小路敏」wikipedia
「京都市立旭ヶ丘中学校を46年振りに」(2011/02/23 1965年卒?)
(追記)
この校歌は、私の学生生活で唯一ちゃんと憶えた歌だ。何か事あるたびに、生徒手帳にきざまれた校歌の歌詞を見ながら歌わされたので、いやでも憶えてしまった。 戦後の新制中学校らしく、明るくテンポの良い歌詞と曲なので今でも頭に浮かんでくることがある。この曲が生まれた過程にふと興味をもって、XのAI Grokにたずねてみた。すると、旭丘事件の中心教諭の一人、寺島洋之助教諭の手になる作詞作曲だと知った。旭丘中の沿革なども含まれるので、以下 長いが引用しておく。
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京都市立旭丘中学校の校歌は、1950年(昭和25年)10月13日に制定されました。作詞・作曲はいずれも当時の同校教員だった寺島洋之助氏によるものです。
・学校の沿革と制定の時期
1947年(昭和22年)5月5日:京都市立待鳳中学校として創立(待鳳小学校内に併設)。
1948〜1949年:分離独立や新校舎への移転・開校式を経て、現在地に落ち着く。
1950年1月1日:校名を「京都市立旭丘中学校」に改称。
1950年10月13日:校歌および校章を制定。
校歌制定は、校名変更後間もなく、学校の基盤が固まる時期に行われました。歌詞は「かがやく丘に草もえて」「比叡の風に友をよぶ」「みとせのゆめのゆりかごよ」「旭丘に光あれ」など、学校の立地(丘)や比叡山、希望・理想・友情・未来への願いを歌った内容です。画像の歌詞と一致しています。
・作成者について
寺島洋之助氏は同校の教員で、作詩・作曲の両方を手がけています。後に1953〜1954年の「京都旭丘中学事件」(教育方針をめぐる対立事件)で中心的な存在の一人となり、懲戒免職処分を受けましたが、校歌はその事件より前(1950年)に作られたものです。事件関連の記録や講演などで「寺島洋之助が作った校歌」と明確に言及されており、事件中も「校歌も歌えなくなる」といった話が出るなど、学校の象徴として認識されていました。
・作成過程の詳細について
公開されている学校沿革史や公式情報では、「制定した」という事実と日付は確認できますが、公募の有無、歌詞・曲の具体的な起草過程、委員会での検討、生徒・保護者の関与などの詳細な記録はほとんど見当たりません。戦後直後の新制中学校設立期によくあったように、教員が自ら作詞・作曲して学校のアイデンティティを固める形だった可能性が高いです。学校公式サイトの校歌ページも沿革の一部として掲載している程度で、制作エピソードの詳細は記載されていません。
(以下 略)
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