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Ⅱ【思想コラム】05.カール・マルクス 「経哲草稿」より

【思想コラム】05.カール・マルクス 「経哲草稿」より


《 労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働の中では自己の外にあると感ずる。彼の労働は自発的なものではなく、強いられたもの、強制労働である。したがって、労働は欲求を満足させるものではなく、労働以外のところで欲求を満足させるための手段にすぎない。》

 日本人好みの「経哲草稿」での「労働疎外論」だ。「経哲草稿」が戦後になってから日本に紹介されて、「人間マルクス」としてインテリが飛びついた。同時期にブームになった「実存主義」と重ねて読んだのだろう。

 経哲草稿はマスクス初期の習作的なもので、マルクス自身は疎外論に深入りせず、物象化論に発展させていった。この段階ではヘーゲルの疎外論を「労働」に持ち込んだだけで、さらにそれを「転倒(唯物論化)」させる必要があったからだ。

 しかしこの疎外論は、実存主義と同様に、なぜか日本人に極めて分かりやすい。ここには「本来の自分」「本来の人間」「本来の人間労働」という思考パターンが埋め込まれているからだ。

 それは仏教での仏性の考え方、即ち「人は本来、仏である」という思考と同形なのである。

(追補)
「歴史は繰り返す。先ず悲劇として、次は茶番として。」カール・マルクス
 "History repeats itself, first as tragedy, second as farce." Karl Marx

 "farce"とは「笑劇」のことであり、茶番とも喜劇とも訳され、一方で"comedy"が主として「喜劇」と訳される。

 この有名な一節は、マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の冒頭に出てくる。

 「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」

 つまり、師でもあったヘーゲルの言葉を引き合いに出して、一回目の「悲劇」は、ヨーロッパ大陸を制覇した「ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)」を指し、二度目はブリュメールのクーデターで帝位に就いた甥の「ルイ・ナポレオン(ナポレオン三世)」を指している。

 ルイの事績は、狭義の「ボナパルティズム」の語源となったように、叔父大ナポレオンの事績には比肩しようもなく、浮動勢力のバランスの隙間に咲いたアダ花のような卑小なものとされる。

「悲劇(トラジィディ)」に対する「喜劇(コメディ)」ではなく、矮小化された「お笑い種(ファルス)」として繰り返されたにすぎぬと冷笑するために言及されたものだ。

 「ファルス」は悲劇の幕間などに挿入される道化劇であって、ストリップの合間を埋めるコントみたいなもんだ。独立して演じられる「コメディ(喜劇)」とは別ジャンルの茶番劇。日本語では、この辺の伝統劇に基づくコメディという概念が無いから、曖昧に使われることが多い。

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