このブログを検索

Ⅱ【思想コラム】04.坂口安吾「堕落論」からハイデッガーへ

【思想コラム】04.坂口安吾「堕落論」からハイデッガーへ


 安吾の「堕ちよ、生きよ」という言葉は、「ニヒリズムを、生き抜くことで超克せよ」という意味でもある。これは、ニーチェの「超人」とも重なる。そしてそれは、安吾の「実存への意思」でもあったと言える。

 西洋の哲学をひも解けば、まず中世では「実存(現実存在)=エクシステンティア 」は「本質=エセンシア」の対概念とされてきた。これは古代ギリシャ哲学の「質量=マテリア」と「形相=フォルム」の対立を継承している。そして、プラトンのイデア論以降、「形相/本質」が真実在として優位に扱われてきた。

 これは大雑把に言えば、神によって意味(言葉=ロゴス)を与えられたものという性格を持っているが、近代ではその「形相/本質」の哲学は「観念論」として行詰ってしまう。

 そこで「質量=実存(現実存在)」を真実在として取り上げようという哲学が起こって来て、ひとつは「唯物論=マテリアリズム」として展開された。これはマルクスによってさらに展開された。

 そしてもう一方では、「実存主義=イグジステンタリズム」として勃興してきた。これはサルトルなどに「実存は本質に先立つ」として規定された。しかし、実存に至る経路・論理的枠組みが規定されていないため、なんとなく気分的なものとされざるを得ない。これが「実存のアポリア」だ。

 サルトルが「嘔吐」など実存的小説を書き、カミュの「異邦人」などとともに、もっぱら文学的なムードの中で実存主義はブームとなった。

 サルトルもハイデッガーもフッサールの弟子として出発しており、現象学にも実存主義が流れ込み、哲学的思想的には実存は現象学によって継承されていると思われる。

 さて、坂口安吾がどれだけ実存主義や現象学を理解していたかは知らないが、彼は文学者として、生き方そのものとして実存と取り組んだとは考えることができるのではないか。

 メルロ=ポンティの「身体性の現象学」について述べた時、その構造を「映写室における映写機と映像」に例えた。これは、現象学における「超越論的主観性(=「志向的意識」)」の「意味生成機能」について述べたものであるが、そこでは「超越的真実在」というようなものは想定していない。

 「伝統芸の継承」が、「超越的真実在」を指し示するものだという考えもあるようだが、「超越論的現象学」では、そのような超越的存在が「志向的意識」に対して外在(=超越存在)しているとは考えない。「伝統芸の継承」は、より広く「美(=芸)の共有可能性」と「客観的価値の担保」を要請するが、それは必ずしも「超越的真実在」によって保障される必然性はない。

 西洋キリスト教世界では、「神=(超越的真実在)」という絶対超越者が「我々の意味世界」を吊り下げて担保する形で、それらの共有性を維持して来た。しかし日本にはそのようなものはなく、「万世一系の皇統」の継承、すなわち「天皇制」によって、それに伴う伝統文化が維持されて来た。いわば、「超越的真実在」の代行的機能を果たしてきたといえる。

 三島由紀夫などは、戦後の「民主天皇」になって、そのような「伝統継承機能」も失われたという危機感を持ち続けていた。しかし坂口安吾はまったく逆の立場で、「必要」のみが伝統を継承するとする。必要がなければ、継承されないで一向にかまわないとする。

 現象学に戻ると、「超越的真実在」による担保なしで、いかに「意味共有性」が保証され得るかという問題が残される。ここで、志向的意識の「間主観性」が主題化される。もともとが「間(あいだ)的存在」であり「繋ぐもの」であったわけで、「超越的真実在」などに頼る必要はない。

 これは「主体-客体」の思考では分かりづらいが、むしろ逆に「間主観性」のもとで「主-客」が分節されてくると考えればよい。「映写室(間主観的志向意識)」の中に、「映写機(ノエシス)」と「スクリーン(ノエマ)」が装置されていて、その構造の下で「主-客の物語」が映写されているということで、「映像(主-客構図)」の側からは、その映写システムは見えてこない。

 この問題に関して、フッサールでは、「超越論的還元」といった抽象的な概念で、「超越論的主観性(間主観性)」を見出すとされていたが、ハイデッガーになると、「実存(現実存在)」という契機から、「現存在(Da-Sein)」の本来性(=間主観性)を取り戻すというように、置き換えられる。

 安吾の「堕ちよ」とは、「実存せよ」と同じ意味であろう。伝統芸能なるものも、その「伝統」などは一旦断ち切って、「Da-Sein」に立ち戻って、その「必要(=場)」を問い直して見よ、ということではないか。

 カント的な観念論では、「神」や「物そのもの」といった「超越的真実在」によって担保されないと、「現象」は根拠無きものとなり「ニヒリズム」に陥る。それに対してハイデッガーは、現実存在(現存在)として「私たちは、私たち自身も、私の周りの世界も、そこに存在していることを知っている」という「自明性」から出発する。

 「何ものかの、何ものかへの意識」という「志向的意識」だけが、当座の手がかりになる存在者(=現存在)で、それを「映写室」に例えてみたが、その「外」は無く、「志向的意識」そのものが「世界」を構成する。 

 その「特異点」として、「ノエシス(能産)」/「ノエマ(所産)」とされる「契機」が見出される。それはあくまで、ある現象の契機であり、それ自身は存在物ではない。「ノエシス=映写機」/「ノエマ=スクリーン」と例えた。ノエシスの「意味生成機能(=能産性・映写機)」により、生成された「意味世界(=所産・映像)」がノエマとしてのスクリーンに映写される。

 その生成された意味世界の中で初めて、「主体-客体」という構図も誕生するのであって、映写機(ノエシス)やスクリーン(ノエマ)は、決して「主体や客体」ではないのである。

 主体や客体が「先験的」にあって、その間を繋ぐものとして「間的存在」があるのではなく、むしろ順序が逆で、「志向的意識」という世界が「間主観性」という性質を「既に」備えており、そのもとで「ノエシス−ノエマ」機構により、「主体-客体」という「意味世界(=映像・幻影)」が産出されてくる。

 普遍的な「意味共有性」というものは、伝統芸能を支える日本人といった、意味主体が生成された後のことで、すでに生成された「意味世界=映像」の中での話となる。「映写機=主体vsスクリーン=客体」ではなく、「主体も客体も、意味共有制」も、「間主観性」のもとでの映写システムに生み出された、「結果」としての映像の中での「物語り」であり、「主=客」的世界観は倒錯した認識である。 

 「現存在」(=「志向的意識」=「間主観性」)は、そのような「既存の意味世界」に投げ出されてある「被投性」の下にあるから、そこから「既存の意味」を剥ぎ取らねばならない(エポケー=一旦停止・中断)。そのようにして得られた「純粋意識・超越論的主観性」に立ち返って、新たな意味の生成される現場に立ち帰ることで、その価値を捉えなおそうというのが、ハイデッガーの「解釈学」である。

 ハイデッガーは「現存在から存在へ」という主題を掲げ、その契機を「実存」に見出す。実存とは「現実存在」の略語であり、これは「本質存在」に対立する概念である。「実存は本質に先立つ」と言われるように、「本質=意味世界(映像世界)」ではなく「現実の存在様態に立ち返ること(=実存)」である。ハイデッガーは、「志向的意識=間主観性」を「世界-内-存在」と読み替えて、その存在構造を解明しようとした。

 このように考えてくると、《新しい形の「間主観性」や「主体」「客体」を創造する》というのは無意味になってくる。「新しい間主観性」などがあるのではなく、すでにある「間主観性」が、「主体-客体」などという迷妄の意味世界で隠されているに過ぎないのだ。

 「現象学」も、広い意味では「観念論」だ。しかし従来の観念論は、「間主観性」のもとで生成された「意味世界=主体客体世界」の幻影映像の上であれこれ考える「狭義の観念論」であり、それを批判検証し、より客観的な基盤に立とうとするものである。それがニヒリズムに見えるのは、神のような超越存在を前提にした「狭義の観念論」の立場で考えているからに過ぎない。

0 件のコメント:

コメントを投稿