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Ⅳ【食と文化コラム】12.餃子の王将一号店

【食と文化コラム】12.餃子の王将一号店


 昭和53年に所帯を持って、旧市電壬生車庫あとの公団住宅に住んだ。四条大宮に近く、利便の良い場所だった。四条大宮は阪急京都線の終点で、京福嵐山線の始点でもあり、かつてはターミナルであったが、阪急が河原町まで延伸するなど、ターミナルとしても商業集積地としても、半端な場所となった。

 しかし北へ行けば三条商店街があり、祇園祭の宵山では、浴衣に下駄で四条まで歩けば、そのまま鉾が立ち並んでいる。そして近くには、安くておいしい食堂がいくつもあった。そのひとつ、団地を出て四条に向かう途中にある、狭い階段を上った二階の中華料理店には、毎日のように通った。

 いま思うと、それが「餃子の王将」一号店だった。現在、その四条寄りに「王将発祥の地」とプレートが埋め込まれた大きな店があるが、当時の記憶では、その手前の狭いテナントビルの二階に店があったと思う。その後、会社の転勤で5年ほど京都を離れていたが、帰って来て宇治に住んだので、こちらでも王将のお世話になった。

 しかしこの時期、王将チェーンはロードサイドに大型直営店を展開し出していた。バブル景気に差し掛かる頃で、ダイエー方式で借入金で郊外に土地を手当てして出店して、その土地が値上がりして、さらに大型店舗の出店を展開するという狙いだったのだろう。

 しかしバブルがはじけて、王将も苦境に陥った。食品メニューは値上がりしボリュームもなくなった。直営店では従業員のモラルも落ちて、生ぬるいラーメンが出てきたときには驚いた。

 そもそも王将チェーンには、街中のパパママ経営の食堂をチェーン店化したものが多く存在し、これらの店はコストを低く抑えられるので、工夫しながら従来の品質を保持できていた。王将本部も、それらのメリットを再認識して、各店の独自メニューを奨励するなど、チェーン店の管理を緩やかにして、多様性を求める消費者の傾向とマッチした展開で復活した。

 やがて直営の大型店舗でも、年配のしっかりした店長を配置して、中国語なまりのバイトに~ちゃんらをきちんと管理していたようだ。当方がよく行く宇治店では、独自メニューとして抹茶ラーメンなどをラインナップしたが、さすがにこれは、間もなく消えた。

 「餃子の王将」(王将フードサービス運営)は、「大阪王将」(イートアンド運営)と、その名称の商標権をめぐって訴訟沙汰になっていた。「大阪王将」は、「餃子の王将」の創業者の縁者が暖簾分けされて、大阪を中心に展開していたが、京都で市場が競合するようになったため、揉めたわけだ。私たちに取ったら、安くてうまいものを提供してくれれば、どちらでもいいのだが。



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